セイラー・ボブ・アダムソンの入門講義

 
セイラー・ボブ・アダムソン(Sailor Bob Adamson)についてはちょっとした紹介記事を書きましたが(セイラー・ボブ・アダムソン)、今回許可をもらったので、彼のウェブサイトにあるIntroductory Talk(入門講義)を翻訳して掲載します。

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入門講義

真理、真実、神、またはどんな名前であれ何かを探し求めている人には、自分が絶対的に確信している真実のみから始めることを私は提案する。それは、自分自身の存在という真実である。「私はいない」と言える人がここに座っているということはありえない。我々ひとりひとりが、「私はいる」ということを知っている。だが、「私はいる」という思考は真実ではない。その思考は、マインドを使って達することができる最も近いところだ。この「私はいる」は、存在の感覚、存在の気づき、その気づきの存在をマインドが翻訳したものである。それが、我々が絶対に確信する唯一の事実だ。どのような状況にあっても「私はいない」と言える人は存在しない。その認識は絶えずいつも変わらず我々と共にある。そしてそれは、「すでにあなた方は自分が探し求めているそのものである」と言われる理由だ。

我々がここで論じていることは、古くからの伝統が示していることに基づいている。アドヴァイタでは、たとえばこれを非二元的、第二がない一なるもの、と呼ぶ。第二がない一なるものという部分は、一なるものという表現ですら一なるもの以外の何かが存在するということを暗示しかねないことを示している。ゾクチェンの経典では、それを非概念的で常に新しく自ら輝く存在の気づき、ただこれ、他に何もないと呼ぶ。そしてそれについて考察するときに気づくのは、それはあなた方、私、そして他のすべてのものを表現しているということだ。その気づきの存在は非概念的だ。それについて概念を持つ必要はない。それは始まりも終わりもないために、常に新しい。それは太陽のように自ら輝いている。それはそれだけで輝いている。それは、光がなくても「私は輝いている」と言うことができる。そしてそれが存在するものであり、あなた方がそこから逃れることができないものであり、あなた方が抜け出すこともできない存在の気づきだ。

あらゆる伝統が、それが遍在・全知・全能であるということを示している。それはすべての存在、すべての力、すべての認識である。このことはすべての時代を通して、たびたび指摘されてきている。これは何も新しいものではなく、明白で歴然としていて単純そのものだ。一なるもの以上に単純なものは何もない。そしてそれなのに我々はこのことに気がつかない。ただ単に、答えをマインドの中に探してしまうために、我々はこれを見逃してしまっているのだ。もしマインドを調べてみれば、マインドが時間であり、時間は絶対に遍在しえないことが理解できるだろう。「存在」という概念でさえ、存在するものや現実そのものではない。なぜなら存在(概念としての)は過去、現在、未来という時間の一部だからだ。

探し求めるべき何かがあるとか探求している何者かがいるという考えそのものが時間を意味しており、時間はマインドだ。これがマインドの中に絶対答えが見つからない理由だ。マインドにとっては、存在―気づきは何もないことである。それには形状がなく、形式もなく、時間もなく、空間もなく、始まりも終わりもない。したがってそれは何もないことだ。空とも呼ばれている。マインドは何もないということを把握できない。マインドは何もないという状態を好まない。それ自体が物であるマインドは二元的である。マインドはいつでも相対する二つのものや複数のものに分ける。マインドは何もないということを知ることも把握することも理解することもできない。これらすべてのことは、あなた方が間違った方向を探してきたかもしれないという事実を示している。あなた方はみな聡明な人たちだ。中には長年にわたって探求をしてきた人もいるかもしれない。あなた方はマインドのなかで多くのことを解こうとしてきたが、まだこのことを理解していない。なぜなら、あなた方はこれが本で読んだり人から聞いたりした特定の感覚や概念や考えのことだと信じているからだ。我々はそれに似ている何かを探しているために、その何もないことという点を見逃してしまう。

あなた方には注意を向けなくてはならないことがある。そしてそれは考察され理解される必要がある。たとえば、自分はこの身体だろうか?身体は何で構成されているのだろうか?我々はこれを詳しく調べ、考察し、身体が元素のあつまりにすぎないことを理解する。80%が水で構成されている。そして空気、空間、物、火がある。これはただの元素だ。元素は素粒子に分解することができ、それらは物質が存在しない状態にまで分解できる。これを再び見てみると、あなた方は元素から分離できないこともわかる。この身体は元素だ。身体は元素から分離してはいない。空気がもし無かったらどこまで辿りつけるだろうか!水や空間や身体の熱(火)や物がなかったらどこに行けるか考えてみなさい。

私は「神」や「至高」という言葉を使いたくない。それはただ単に、我々ひとりひとりが神が何であるか、または神は何ではないかということについておそらく異なる概念を信じているからだ。不可知論者や無神論者であるならば、そうしたことについての概念をもっているだろう。私は「知性―エネルギー」という言葉を使う。でも私はあなた方が持っている知性について話しているのではない。知性には多くの異なる度合いがあるからだ。

私が話しているのは、宇宙を機能させている知性についてだ。星々が軌道を回り、惑星が軌道をまわりガスから形作られて特定の形状や形式をもつようになりその形を保っているという事実そのものが、知性の存在を意味している。季節をめぐらせ続けている何かは知性の存在を意味している。潮の満ち干きは知性の存在を意味している。これを念入りに調べてみなさい。それはたったいまあなた方の心臓を鼓動させている。髪の毛や指の爪を成長させている。食べ物を消化している。身体の細胞を入れ替えている。この身体の形態や機能は、それを通してそれとして表現している驚嘆すべき知性の存在を示している。そしてそれが本当にあなたであるものであり、知性―エネルギーなのだ。それはあなたに形を与え、育て、成長させ続けているものだ。それは身体の細胞を入れ替え、自然に他のことを行っていて、宇宙でも同じことを行っている。しかし、この自然の状態は、マインドの推論や作用によって雲に覆われているように見える。身体について考え、それを分解してみなさい。身体には「これが私である」と言えるような中心というものがない。身体は精子と卵子が一緒になることで始まった。もし身体に中心があるとしたら、それはその最初の細胞だろう。でもその細胞はとっくにどこかにいってしまっている。身体の中ではこの瞬間に多くの細胞が死んで、入れ替えられている。

もう一つの問いは、「私はマインドだろうか?」とか「私は『私はある』というこの最初の思考だろうか?」というものだ。その存在の感覚は「私はある」という思考としてマインドを通して表現している。思考を調べてみなさい。思考を離れてマインドというものが本当にありえるだろうか?私はマインドと呼べるような何かをつかむことはできない。思考とはなんだろうか?精妙なレベルでいえば、思考は非常に微妙な振動だ。話し言葉のレベルではそれは音だ。音は振動で、振動はエネルギーの動きだ。だからそれは同じことだ。あなた方はまだ知性―エネルギーを分解していない。あなた方のマインドをもう一度調べてみると、それは常に相互に関係する相対するものの中で振動していることが理解できる。もしそれが過去、すなわち記憶でないならば、それは予想と想像、すなわち未来だ。そしてその範囲の中でそれは相互に関係する相対する組み合わせとして常に振動している。良いか悪いか、楽しいか苦しいか、幸せか悲しいか、好きか嫌いかなどといったことだ。

マインドを調べてみなさい。それは常にそうしたパターンで振動している。マインドがそれ以外のことをしているかどうかみてみなさい。マインドは利用するには素晴らしい道具ではあるけれども、その活動はとても機械的であることが分かるだろう。生まれたときこどもは自然の状態からまだ離れてはいない。まだ自然の状態で機能しているのだ。もし空腹になれば泣くだろう。幸せであればのどを鳴らすだろう。何の気づかいの気持ちもなく排便をして小便をするだろう。それはただ単に起こるのであり、彼が食べたものが消化されるのと全く同じだ。彼は動き、手を動かし、腕を動かし、あらゆる種類の行動が続く。この段階では彼はこれらの行動を自分に属するものであるとは考えていない(「僕はこれをしている」とか「僕はそれをしている」)。彼は知らない。分別はまだない。身体が成長するに従って、最初の分別が機能し始める。彼の両親は「おまえの名前はジョニーだよ。いい子だ。悪い子だ。おまえはこうだ。おまえはああだ。」と言うだろう。彼はこれを聞き、それは彼に影響を及ぼしはじめる。彼はこの言葉が何を意味するか、この思考が何であるかを学ぶ。彼は教えられたラベルでそれらを解釈する。そして間もなく彼は両親が話題にしているのが自分であることを理解するようになる(「これが僕、自分だ。僕はジョニーだ」)。以前はただ単に「小さなジョニー」であったのが、「自分、僕」という考えが登場すると、相対するもののなかで機能するマインドは自然に「自分や僕の反対は何だろう?これは自分とは別のものではないか?自分ではないものではないか?」と尋ね始める。こうして彼は以前は全く区別していなかったものごとを理解するようになる。以前はただ単に見ていた。ただ単に聞いていた。今や僕とか自分という感覚が彼にでてきた。彼はものごとを「自分ではない」とか「僕ではない」(僕以外)というように見ていて、それらのことから分離しているように感じる。

分離の感覚にともなって、不安と脆弱性が生じる。不安と脆弱性は幸福ではないため、我々の探求はこの時点で実際には始まるのだ。完璧ではない。完全でもない。探求は我々自身を完全で完璧にし、もっと安全に、攻撃に強くするために始まる。そして当然、親というものが探求というものを調べもせず理解もしておらず、また社会や国家もそうであることから、探求は「あっちのほう」で始まる。こうした思考の大群が形成されはじめるより前に彼に「振り返ってみよ」とか「自分であるところの本質、自分がこれまでそうであり今もそうである自然の状態にとどまれ」と言う人はだれもいないのだ。

我々のすべての問題がこの不安と脆弱性から生じていることが分かるだろう。小さなこどもは、分離をみる前、分離していることを実感する前、または分離していると信じる前は、この不安と脆弱性を感じてはいなかった。いま彼はそれを感じ、暖かく思いやりのある家庭にいることを望んでいる。暖かく思いやりのある家族の中にいればより安全で強くなったように感じる。昔、家族は部族を形成していた。自分の属する部族が大きくて強いほど、自分はより安全で強く感じた。今日では、隣国が自分の国を侵略し財産などを奪う恐れがあるという不安があるだけで、国家は戦争を始める。又は「自分は不安で弱いから、奴を先にやっつける。そして奴らを支配することで自分はより強くなれる」となる。これはすべて自己中心主義に基づいている。

しかし、自己の中心というものはない。自己の中心やエゴは、我々のすべての問題の原因であり、虚構なのだ。小さな子どもは「私」という思考に、すべての出来事、経験、条件づけを付け加える。それらは想像上の概念であり、それらの概念に基づいて自分自身についてのイメージを形成する。彼は「僕は小さなジョニーだ、良い子又は悪い子で、誰かが僕に何かを言って、僕は恥ずかしく、やましく、または怖く感じた」とかそういったことを考える。すべてのこうした概念は事実とされてしまうようにみえる。それらは事実となり、参照点(すべてのことが関係づけられる自分又はエゴ)になってしまうようだ。何かがこの参照点、彼が自身についていだいているイメージにやってきたとき、それがそのイメージと合致しなかったとしよう。そうすると彼はこれが愉快ではない。もし他の何かが起こり、それが彼のもつイメージに合ったとすると、彼はそれを好ましく思い、もっと同じことを欲するだろう。彼が好まないものには彼は抵抗し、そこから逃れようとする。こうして不調和の状態におかれる。我々のすべての問題は自己の中心というものを信じることから生じる。すべては、我々が現実であると信じるに至った架空のイメージに関係している。信念のエネルギーはそれに流れこみ、一見現実であるかのように強いものとなる。しかしそれは現実ではなく力も持っておらず、よって強さもない。このことを考察して、「これが私です」と言えるような一点が身体の中に存在しないことを理解しなさい。自分について持っているイメージに実体がないことを理解しなさい。それは一見したところ事実であるかのようだが、まったく堅固なものではない。それをしっかりとつかむことは絶対にできない。思考をつかんでみようとしてみなさい!そして何にも増してこれがとても重要なことだが、そこには独自の本質というものがない。

この思考またはイメージは、知性―エネルギー又は気づきの存在がもしなかったら、存在することもできない。我々はこれを知性―エネルギー、気づき、意識、またはスピリットと呼ぶ。これらはそれに貼るラベルである。しかしラベルはそのものではない。それを指す多くの名前やラベルがあるが、そのどれもが本当には合致していない。もしこの作用している知性が存在しなければ、ひとつの思考も浮かぶことはない。したがい思考は独立して存在してはおらず、それ自体は何の力も持たない。これが我々が束縛されてきたものだ(実体のある独立した中心またはエゴというものがあるという誤った信念)。それは幻で、存在しない何かだ。必要なのはこれまで指摘してきたことを調べてみることだけだ。疑問をもち調べてみることで自分自身で理解しなさい。このことを詳しく検討し、実体があったり独自の性質をもっていたりする何かが見つかるかどうかみてみなさい。そしてこれには20年も10年も5年もかかることがないことが分かる。時間など全くかからないのだ。理解はたった今だ。即時だ。それは常に即時であったし、常に即時であるだろう。それはただ単純に時間を超越しているからだ。

探求そのものが罠であることを理解しなさい。なぜなら、探求は何かになろうとする存在があることを意味しているからである。なることは未来の時間というものを意味する。それはあることではない。なることは絶対にあることにはならない。我々がここで話しているのはあること(being)についてだ。我々は自分たちのことを人間(human beings)と呼び、神を思考の存在(Supreme Being)と呼ぶ。humanとSupremeという二つのラベルをとって、存在(beingness)を分離してみなさい。ここにいる存在をボブと呼び、そこにいる存在をジョアンと呼ぶ。我々が座っている椅子を椅子と呼ぶ。でも、そういうラベルを取り払ってみたとき、何が残るだろうか?土台または基礎、存在、それが形作ってそれとして現れているパターンや形状だ。ただ、パターンや形状は見かけでしかない。その本質は常にそうしたパターンとなって振動しているエネルギー(純粋な存在)だ。だから行くべきところはどこにもなく、そこに行くべき者は誰もいないのだ。そして得るべきものは何もなく、得るべき者も誰もいない。

これを見たとき、最初に出てくる質問は「なるほど、では私はどうやって生きていけばいいのでしょうか?」というものだろう。あなた方はこれまで通りに人生を生きていく。実体があって独自の性質をもつ「自分」というものがいま存在していないということを理解したとすれば、これまでそのような「自分」が存在したときはあっただろうか?「自分」にはいま実体もなく独自の性質もないということをあなた方は理解している。存在を長い間信じていたそのものは、いまだかつて実体や独自の性質をもったことがあっただろうか?

また精子と卵子にもどることができる。それ以前の、父親の食べ物の本質と母親の食べ物の本質にまで遡ることができる。それ以前の食物の本質があったところまでもどることができる。そしてそこに始まりなどなかったことが分かるだろう。精子と卵子が一緒になった。細胞は二つに分裂し、また分裂し、胚になり胎児になり、こどもに成長した。これを行った存在はいなかった。生まれて最初の呼吸をしたときそこには存在はいなかった。分別が始まる以前に存在というようなものはなかった。そして分別がはじまったっときも、まだ存在というものはなかったかもしれない。このことを考え、これが今虚構であることが分かるのであれば、当時もこれは虚構だったに違いない。

人生が生きられてきたことに気がつくだろう。それは存在―気づきが、エネルギーのパターンを通して表現しているものだ。それらは本質的に存在―気づきの多様性のあらゆる形態だ。我々ひとりひとりのなかで、自分で人生を生きた人は一人もいない。命は生きており、そのものとして自身を表現している。自分が人生を生きているのだと誤って信じるようになると見えるかもしれない。しかし、その誤った信念に陥ったのと同じように簡単に、それが誤った信念であるということを理解することで、そこから我々は抜けることができる。我々は実体や本質、名前はどうであれそういうものと影とを取り違えている。そしてこれが基本的にすべてである。

この誤った信念(「私」があるという信念)のためにいわゆる人の苦しみというものが存在する。恐れることができるのは「私」だけだ。心配することができるのは「私」だけだ。怒ることができるのも、自己憐憫や不安に陥ることができるのも、ストレスにやられることができるのも「私」だけだ。休みなく「私」の存在を信じ続けることで、それらは蓄積し雪だるま式に大きくなり、ついに押しつぶされることになる。しかし押しつぶされるほどの苦しみは必要ない。すべての問題の原因は「私」であると理解しなさい。その結果は、ストレス、不安、恐れ、自己憐憫、悔恨、罪悪感、恥辱である。我々はこれらを克服し、どうにかし、逃れようといろいろな方法を長年にわたって試してきた。しかし、この原因が虚構であるということが分かるだけで、そして原因なしに結果はないため、「私」が現実で実体があり独自の性質を持つという信念のエネルギーが「私」に注ぎ込まれることはなくなる。すべての現象がエネルギーでありそのエネルギーが同じパターンに注がれないのならば、そのパターンには何が起こるだろうか?自然に消え去るのではないだろうか?

私の経験はそれが実際そうであることを示している。私は自己中心的で感情的で心理的恐怖や不安やストレスの状態にあった。しかし今日では、そしてこれまでかなり長い間、何年もの間、そういったものはない。これは、私が感情も思考もないゾンビだという意味ではない。すべての行為や機能はずっと続いている。見ること、聞くこと、味わうこと、触れること、嗅ぐこと、考えること、感じること、肯定的、否定的な思考といった、すべての相対的な世界のことだ。感情も物事もあるが、そのどれにも執着していない。つきまとうこともない。雲が空にくっついていないのと同じように、ものごとは現れ、その役割を演じ、そして消えていく。雲は空に現れ、役割を果たし、消える。雲は空に結び付けられてはおらず、太陽は空から落ちてくることはない。太陽は常に永遠に輝いている。太陽そのものが雲を生じさせ、そして太陽そのものが雲を吹き飛ばす。だから、起こってくる思考は知性―エネルギーによる活動以外のなにものでもないことが分かるだろう。思考はどこにもくっついてはいない。その真実を知れば、それは立ち去る。人生は自己中心的な行為なしに続いていく。

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セイラー・ボブのミーティングでは、このように最初に彼が話し、その後で質疑応答の時間が続くようです。同じような形式で長年続けているのでしょうから、こういったトークは彼の一つの完成された表現であると考えていいように思います。

そして、入門講義だけでなくその後の質疑応答においても、本で紹介されている限りにおいては、ここにある内容が何度もそのまま語られており、技巧をこらすというよりも常にストレート勝負という印象があります。その融通がきかないとさえ思えるような率直さと、その背景にあるように感じる深い信頼と茶目っ気といったようなものにとても魅力を感じます。

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