三月書房とタルカの至福

 
京都に行った。過去のカレンダーを見ると2015年は3度も京都に足を運んだようだが、それ以来で、約2年ぶりの京都。

子どもの用事のついでだったのだが、これ幸いと、書店巡りをすることにした。猛暑のなか汗をかきかき訪ねたのは、烏丸三条の大垣書店、恵文社一乗寺店、誠光社、三月書房の四つ。

いずれも素晴らしかったが、特に三月書房 (ウェブサイト) は良かった。

置かない本をはっきり決めているらしく、そのせいなのか、すごい棚になっている。親しんでいるはずの分野であっても、見たこともないような本が並ぶ。本当にどういうことなのだろう。2年前に恵文社一乗寺店を初めて訪れたときも同じような感想を持った。でも三月書房はそれに輪をかけてすごい。

通りを歩きながら表から見れば、ふるぼけた古書店だ (実際は古本屋ではない)。そのギャップが恐ろしい。「こんな本屋があったんだ…」と、棚を見上げながらしばし呆然。

何冊か買ったなかで一番のめっけもんは、『「私」とは何か ― ことばと身体の出会い』(講談社選書メチエ)。

「私とは何か」というタイトルの本は池田晶子のものなど他にも読んだ記憶があるし、「私とは何か」がテーマの本ならそれなりに読んでいるが、この本ではダグラス・ハーディングの言う第一人称単数現在形の「Who I really really am」ではなく、いわゆる個としての私の成り立ちを扱っている。

このところ、ひとつのイメージについてたまに考える。ステレオのスピーカーを左右において真ん中で聞くと、音は中央で鳴っているように聴こえる。そうとしか聴こえない。個の「私」もそれと同じではないだろうか。生まれて以来、名前を呼ばれ続け、焦点を合わせられ続けた結果、そこに「私」というひとつの像、印象がリアルに生じる。鏡や写真のなかにある身体や顔がそれと一体化する。そういうイメージだ。ふたつのスピーカーの真ん中にいれば、左右の音を識別するのは難しい。何かの拍子に (左だけケーブルが抜けたりして) それが崩れることがあって、「私」にも稀にそれが起こる。

そんなことを考えていたから、浜田寿美男という人の書いたこの本を三月書房で手にとってページをめくってみたとき、見出しと数々の写真を見て、ぞくぞくした。

まだ読んでいる途中で、明らかにこれは読み終わりたくない本のカテゴリーに入る。ちなみに、三月書房でこの本の周囲に並んでいた本は大垣書店にもあった。が、この本はなかった。三月書房恐るべし。

それと、自分の訳した本は四つの書店のどこにも置いてなかった。残念だけれども、そうだろうなあという気もする。三月書房に並ぶような本を訳してみたい、と少しだけ思ったが、それは欲が過ぎるか。

それと、今回は評判のいい南インド料理店が京都にあると知り、ティラガ、タルカの2店に行った。タルカには昼だけでなく夜も行ってしまった。タルカはラッサムもアチャールも相当おいしくて、南インド料理なら八重洲のダバインディアが断然1位と思っていたが、ちょっと揺らいだ。また行くことになりそう。京都恐るべし。

追記: なんと、このブログの「連絡先」ページからのメールが受け取れていなかったことに、たった今、気がついた。「そういえば、京都の本屋情報を誰も教えてくれなかったなあ。って、あれ、待てよ」とチェックしてみたところ、なぜか送信がうまくいっておらず、メールが4月以降ひとつも届いていなかったのです。そのあいだに連絡をいただいた方々、完全無視になってしまって誠に申し訳ありません。幸いなことに送信されたメールの履歴はブログの管理画面にすべて残っているので、これから返信させていただきます。本当に申し訳ないです。

追記2: 急いでメールの履歴を見ていたら、京都の書店情報を教えてくれた方がひとりだけいて、「塩人間さんにぴったりのお店があります」と推薦していたのが、なんと三月書房! メールは届かなかったのに、テレパシーで通じていた模様。ありがとうございます。

変化しないもの

 
高校1年の冬だったか、近所のセブンイレブンで、「コガだよね」と呼びかけられて振り返ると、どこかの高校の制服を着た男が立っていた。でも、まったく見覚えがない。一生懸命記憶をたぐるが、そんな奴は見たことがなかった。

「え、俺のこと忘れてる?」と驚くその男の顔をじっくりと見ても、まったく思い出せず、これは何かのドッキリか?とか思っていると、「オレだよ、Yだよ」と言う。

Yという名前の奴なら中学2年、3年と同じクラスだった。でも目の前にいるのは…、言われてみればYだ。ところが全然違う。

自分より10cmは身長が低かったはずが、今はなぜか見下ろされている。少しオドオドした感じや媚びるようなニヤニヤは消え失せて、漫画の主人公のような爽やかな笑顔があった。姿勢も別人だ。

というか、顔の骨格まで変わってるぞ。

「え、ずいぶん変わったな」と言うのが精一杯だった。中学の卒業式から1年程度でそれだけ変化してしまうという現象を目の当たりにして、店を出て自転車をこぎながら呆然としていた。「なんだ、あれ?」

そこまで強烈ではないが、じつは自分自身でも同じような体験をしたことがある。それは20代の終わりころにアバターコースという一種の自己啓発セミナーを受けたときだった。

コースが終わって当時の彼女 (今の奥さん) と待ち合わせしたとき、会うなり「え!?どうしたの?」とびっくりされた。自覚はなかったが、それくらい変わっていたらしい。

ただ、それは自己啓発セミナーだったから一時的なもので、たぶんその後ほぼ元に戻ったのではないかなと思う。

もう少し強烈だったのは、30代の終わりに参加した寺山心一翁さんのワークショップで、たしか2泊3日だったが、すっかり変わってしまった。見た目は何も変わらないが、自分を動かしていた原理が入れ替わったか、あるいは行動の元になるプログラムが突然オフになったような感覚だった。

そのコースから戻ったあと、かなりの時間を家のソファでボーっと過ごすようになり、当時していた仕事に対する関心が一気に失せ、結局何ヶ月か後にその仕事から離れることになったのだった。

その変化については後日談があって、それからしばらく経って新宿で参加した寺山さんの講座で、「ヒロさんにはすごいのがついてたからなあ」という感じのことを言われたのだった。憑いていたらしい。金がもっと欲しい、人に認められたい、という動機で突き進んでいたせいで、妙なエネルギーというかエンティティがくっついていたのだろう (寺山さんの用語でいうと「幽霊」)。その何かがワークショップで急に脱落してしまい、混乱したのだと思う。

だから、ある種の浄霊、除霊というものには、その対象を霊と呼ぶかどうかは別として、かなりリアリティを感じている。面白いのは、その経験以降、変なものが憑いてそうな雰囲気に自分でも敏感になったことだ。すぐに逃げたくなってしまうことが今でもけっこうある。それとは逆に、宇宙人的というか天使的な雰囲気を感じて、妙に興味を持つこともある。

ジョン・シャーマンのメソッドを初めてやってみたときも、じつは同じ種類の混乱を感じた。何かの軸を失ったような印象。失った快感、自由の気持ちよさが最初はあったのだが、そのあとやって来たのは混乱だった。不安や恐怖はなかったが、ともかく足場を失った不安定さがあって、それがけっこう続いた。

今はその不安定さに慣れたのか、あるいは何かの足場がまた完成したのか、そこまでの混乱はなくなった。単に慣れただけかもしれない。その点についてはたまに考えるが、どうもよくわからない。このわからなさが鍵だという気もする。または、鍵なんてありえないということだろうか。

ジョン・シャーマンといえば、 Self-Directed Attentionというエクササイズがどれほど重要であるかを彼がちょっと前にブログに書いていた。自分の呼吸に10分間注意を向けるということを1日に1度か2度やるというもの。これを続けることによって、注意の向け先を自分でコントロールする力を取り戻せるという。それでメソッドの「後遺症」は軽くなるし、メソッドの恩恵も増すらしい。マインドフルネスとは違うぞ!と力説しているが、どう違うのかはよくわからない。注意点は、このエクササイズをする前に一度は自分自身を見るメソッドをやっておくこと (文字どおり一生に一回だけ)。

(追記: Self-Directed Attentionは、以前はDirected Attention Exerciseと呼ばれていたもので、ここで訳して紹介していたことに気がついた。さらにその前はPractice of Focused Attentionという名前だったようだ。このエクササイズについては最近ジョンがいろいろ書いているので、訳して紹介していきたい)

見るメソッドを自分でやってみてからもう2年以上が経過したが、何か変わったのだろうか。ただ、変化という文脈で語ろうとするのは違うんじゃないか、という思いも、これに関してはいまだに強い。人が変わってしまうという現象に対する関心と、変化という文脈に対するぬぐえない違和感。

どうもわかりませぬ。

でも面白い。
 
 
【追伸】ナチュラルスピリットからダリル・ベイリーの邦訳新刊を送ってもらった。僕はそれほどファンではないのだが、ジョーン・トリフソンは彼の作品をとても高く評価している。溝口あゆかさんによる翻訳。『ファンタジーの終焉 ― 生命の充全さへのいざない』

【追伸2】「とあるカワユイ娘」が『わかっちゃった人たち』を読んでくださったという嬉しい情報をタクさんブログで発見 (誰も行ったり来たりしてませんよ) 。

【追伸3】 8月に京都に行く用事ができて、書店めぐりをする予定。恵文社一乗寺店と烏丸御池の大垣書店以外でおすすめの本屋さんがある方、よかったら教えてください。連絡はこちらから

【追伸4】 ビリー・ドイルの翻訳本の作業が完了した。8月に発行される予定で、タイトルは『カシミールの非二元ヨーガ ― 聴くという技法』になった。発売日が決まったらまた告知します。

三浦海岸のエックハルト

 
エックハルト・トールの名前を目にすると、反射的に聖子ちゃんずが浮かんでしまう、あるいは青森のあの羽柴秀吉。本人たちは真剣なのだとは思うが、どうも真面目に受け取るのが難しい。

聖子ちゃんずについて言うと、三浦海岸フェスティバル (?) で歌っているのを小6だか中1だかの頃に見かけたことがあって、会場はだいぶ盛り上がっていた。盛り上がりという意味では、世界中で本が何百万部も売れているエックハルト・トールも相当なものではある。

ただやはり、本家と比べると「う~ん」となる。

こんなことを書いているのは、最近訳にとりかかった本でマイスター・エックハルトの説教の引用があったからだ。エックハルト・トールはマイスター・エックハルトからその名前を借りたというが、「ほら、全然違うじゃん!」と思わず言ってしまうくらい、その引用文はかなりズバッと刺さってきた。そして、しばらく響いていた。

それで、図書館で『エックハルト』(上田閑照著、講談社学術文庫) を借りてきて、説教部分を中心に読んでいる。まだ途中だが、しびれた部分をいくつか引用してみたい。

 人は如何なるものをも求めてはならない。認識も、知も、内面性も、敬虔も、平安も、一切求めてはならない。ただひたすら神の御意志(みこころ)のみ求めなければならない。あるべきように正しくある魂は、神が自分に神性の全体を与え給わんことを願いはしない。また、与えられたとしても、魂は神が一匹の蚊を与え給うた時のようにそれによって何ら慰められることはないであろう。神の御意志によらずして神を認識しても、それは無である。すべては神の御意志のうちに在る。そこにこそ何か在るものがあり、それはすべて神に適い完全である。神の御意志の外ではすべては無であり、神に適わず、不完全である。(説教 一 「ひらすら神の御意志のみを」)

 さて私は、未だ嘗て語ったことのないことを、今語りたいと思う。神は自分自身を味わい給う。そして、自分自身を味わい給うその賞味において、神はすべての被造物を味わい給う ― 被造物としてではなく、被造物を神として。このように、自分自身を味わい給うその賞味において神はすべての物を味わい給うのである。
(略)
 神 (got) は生成する。すべての被造物が神と言うとき、《神》が生成する。私が未だ神性 (gotheit) の根底、神性の地盤、神性の源流と源泉のうちに在った時、何人も私に、私が何処に行こうとするのか、何をなしているのか、尋ねなかった。そもそもそこには、私に尋ねようにも何人も居なかったのである。私がしかしそこから流出した時、その時すべての被造物が《神!》と言ったのである。もしその時誰かが「兄弟エックハルトよ、何時お前は家から外に出たのか」と私に尋ねたならば、実は、私はたった今まで家の中に居たわけなのである。〔即ち、今はじめて外に居るのである。ということは同時に、今はじめて内と外の区別も区別として成立したわけである〕。
(略)
 誰かこの説教をよく理解出来たものがあれば、その人に私は喜んでこの説教を捧げたい。もし此処に誰一人居なかったとしても、私は今の説教をこの賽銭箱に向ってでもしたに違いない。これから家に帰って、そして「私は自分の慣れた場所に居て、パンをしっかり食べて、それから神に仕えたい」と言うようなあわれな人たちも多いであろう。私は永遠の真理にかけて言うが、このような人たちは、いつまでも迷いつづけなければならず、貧と異郷のうちで神につき従う人たちが到達するところに決して至り得ないのである。アーメン。(説教 四 「神と神性 ― 神は生成し、そして還滅する」)

 人が放下(捨離)し得る最高にして究極的なことは、神を神のために放下することである。聖パウロは神を神のために放下した。彼が神から得ることが出来た一切を放下し、神が彼に与えることが出来た一切、彼が神から受けることが出来た一切を放下した。聖パウロがこれらを放下した時、彼は神のために放下したのであった。そしてその時、彼に残され留まったものは、まさに、それ自身において自体的に自存する (istic sîn selbes) 神であった。すなわち、受け取られ獲得されるあり方においてではなく、それ自身においてあるという自存する自体性 (isticheit) における神が聖パウロに留まり現前したのである。彼は神に如何なるものも与えず、また神から如何なるものも受けなかった。そこにあるものは、一つの一(いつ)即ち一なる一 (ein ein) であり、一つの純なる一化である。ここに至って人は一箇の真なる人間、一真人(いちしんにん) であり、このような人には、神の存在に苦悩が生じ得ないと同じく、如何なる苦悩も生じない。
(略)
 さて、このように神の意志のうちにある人は、神と神の意志であるところのもの以外を意志することはない。彼が病気であるならば、彼は健康であることを欲しないであろう。彼が正しく神のうちにある限り、すべての苦痛は彼にとって一つの喜びであり、すべての多様性は彼にとって純露なる一性である。まことに、地獄の苦がそこにあるとしても、それは彼にとって一つの喜びであり浄福であるであろう。彼は自分自身を空却し自分自身から脱却している。われわれが受け取るべきすべてのものからわれわれは脱却していなければならない。私の眼が色を見ようとするならば、眼はすべての色から脱却していなければならない。そして、私が青とか白とかの色を見ている場合、色を見ている私の眼の視作用、すなわち見つつある働きと眼で見られているところのものとはまさに同一である。私が神を見る眼は、神が私を見るその同じ眼である。私の眼と神の眼、それは一つの眼であり、一つの視作用であり、一つの認識、一つの愛である。(説教 九 「神のために神を捨てること」)

勝手に名前を拝借しちゃだめでしょとか、そんなこだわりがどうでもよく感じられて畏れ入ると同時に、大きな可能性がつねに目の前に広がっていたことに気づいて非常に救われる。