B面が意外に

 
例年秋の風が吹きはじめると探求のエネルギーが強まる。

が、今年はまだそうでもない。珍しく回遊魚釣りが絶好調なのも関係しているのかもしれない。意識は常に海にあり、一番チェックするサイトは釣り場の天気予報、目を閉じればスパッとウキが海面に消える場面が浮かぶ、という状態がまだ続いている。

もしくは、探求の局面が今までとは変わったんだろうか、とも少し考えてみるが、どうもそういう辛気臭い(©とっくん)ことに対する関心が長持ちしない。

まあ、ほんの数年前には「このくそ忌々しい探求のことを忘れられたら、どんなに幸せだろう」と強烈に思っていたから、今の状態は理想的とも言える。

そんな感じで、ノラ・ジョーンズのこんなかっこいい曲を聴いていると、何も求めることなんてない気がしてくる。

(とか書くと、思いっきり探求が戻ってくるというのが今までのパターン 笑)

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追記: NHK (山梨) の夜のニュースで、今日午前に発生した中央道須玉インター付近での単独事故で永留祥男氏が亡くなったことを知った (「祥」は正しくは「示」に「羊」)。「北杜市高根町在住の作家」とニュースで言っていたから、『黎明』の著者葦原瑞穂氏であるとされている永留さんと同じ方だと思われる。ただただ驚いている。(葦原瑞穂氏関連記事12)

追記2: 以下はYBS(山梨放送)のニュースサイトからの引用。「2日午前9時40分ごろ、北杜市須玉町の中央道上り線で、走行車線を走っていた乗用車が道路左側の斜面に衝突。ガードレールなどにも衝突し大破した。この事故で運転していた北杜市高根町の作家・永留祥男さん(63)が胸などを強く打って間もなく死亡。中央道上り線は事故の影響で長坂~須玉IC間が2時間半にわたって通行止めとなった。」

その一歩、交通整理、セラピー

 
しばらく前まで、トニー・パーソンズのThe Open Secretという書籍の翻訳をしていた。彼の本はそのほとんどが対話の記録だが、これは書かれたもので、短いエッセイが集められている。

トニー・パーソンズというと、「私はいない」「何も起こっていない」というのがメッセージの核心であるようにも聞こえるが、どうなのだろう。

《それ》はどこか別のところにある超越的な何かじゃない。この部屋から出るときの君の一歩がまさに《それ》なんだよ。その一歩がね。

ミーティングでトニーがそんなふうに言っていたことがあった。

その言葉を聞いた瞬間、仕事のことで頭がいっぱいになっていたあるとき、小さな息子が何か話したそうな雰囲気で近づいてきたのに、顔も見ずに「ちょっと忙しいから、またあとでね」と言ってしまったときの感じを思い出して、泣けた。

よそで探してしまうことの哀しさ。呼びかけへの鈍感さ、見逃し、後回しという罪。

「私はいない」「非二元」は何かの方便であって、「ほら、これなんだよ、ちゃんと見てよ」という単純な訴えがトニーのメッセージの中心なのではないだろうか。どうだろう。

ところで、だいぶ前のことになるが、高木悠鼓さんが出された『動物園から神の王国へ ― サルの惑星のような星で、平和に生きるために』という本を読んだ。

『人をめぐる冒険』が気に入っている人であれば、間違いなく楽しく読めると思う。僕はリチャード・ドーキンスや竹内久美子的な整理の仕方はあまり好きではないから、第一部はそれほど楽しめなかったのだが、第二部が大当たりだった。

第二部「サルの壁 人の壁」の一章「知性の7段階」は目ウロコそのもので、高木さんの洞察に唸った。非二元の認識を得ているはずのグル同士の対立がなぜ起こるのか、感じが悪い人が一瞥をするとさらに感じが悪くなるのはなぜなのか、一見矛盾した行動を平気でとれる人がいるのはなぜなのか、といった僕の抱えていた疑問にすっきりと答えている。

自分自身についても、何かに開かれるような経験が起こったあとで、条件付けがどことなく強まったり、何かに戻されるような現象が増えたりすることに不快感を感じることがたまにあったのだが、そういう動きについてもだいぶ納得した。

洞察の鋭さが光りまくっている本で、読んでいると「イタタタタ」という部分も多いから、全部が愉快かというとそうでもないが (それにここまで鋭く見られていると思うと、つぎにお会いするのが怖くなる 笑)、『人をめぐる冒険』でもそうだったように確実に楽になった。

それと同時に気づいたのは、こうした「交通整理」を非常にありがたく思う反面、そういうものを全部投げ出したいという気持ちもどこかにあるということ。

なんでしょうね。整理されずに (自分でも整理せずに)、無条件に受け入れられたいという気持ちが強く残っている気がする。自分とは何であるかを一度見るだけで解消するような話ではなく、心理的なセラピーの出番なのかもしれない。(などと考えるのは、「知性の7段階」を読んだ影響もありそう)

トニーは普段は心理的なセラピーを全否定しているが、The Open Secretでは意外なことに自分とセラピーの関わりについてけっこう書いている。非二元云々は抜きにして、その部分はけっこう面白かったです。

暑さの日々

 
お盆が近づいてきた。

この時期になると、毎年そうだが探求モードが弱めになる。海で回遊魚が釣れ始めるから意識がそっちに向かう、ということもあるのだろうが、基本的にギラギラの太陽と探求は自分の中では両立しない。

先週は子どもと伊豆に行って海水浴と釣りを楽しんだが、海につかってバタバタしていると、ただの生き物になる。溶ける。生き物未満の何か。何かでさえないかもしれない。

ダイレクトパスの訳書が出たばかりなのに、こんなことを書くと怒られそうだが、頭を使う探求などできるわけがない。太陽がまぶしすぎる。

そのかわりに、バクティ的なものに対する関心が少々高まっている。

以前は、バクティというとハレクリシュナ型のキールタンがスタンダードだと思っていた。(こんな感じのもの)

でも、ヒンドゥーの神々は自分にはそこまでしっくりこない。うっとりしながらバジャンのテープを聴き続けていた時期もあるが、今は無理だ。そこまで夢中になれない。どちらかと言えば、テゼ共同体の歌のような欧風のものが今は好みに合う(こんなの)。

ただ、これでもちょっと具象的すぎる気がする。人工的とまでは言わないが、文化的色彩が濃すぎるのだ。バクティといっても、神像や歌のような具象性が高いものではなく、何かもっと透明で爽やかな帰依対象はないものだろうか。

案外、太陽崇拝とか、自然崇拝的なものがいいのかもしれない。いずれにしても、自分を投げ出す気持ちの良さに惹かれる。

話は違うが、いつも面白い「SHIROWの自由帳」で、「みしろ」について書かれていた。ジョン・シャーマンのメソッドに関連した話で、この記事の「※ここから追記」以降にある。

ジョンのメソッドをやってみた人は、「そういえば」と感じるのではないだろうか。僕自身も、当初感じていたギャップ、距離、重み、もしくは方向を変える「よっこらしょ」的な感覚がだんだん少なくなっていることに一時期気づいたことがあった。

そのときに面白いのは、「以前はこう感じたはずだけど」と思ったときに、「でも、その感覚の記憶は今どこにあるのかな」という疑問が出てくると、なんとなく「ニヤっ」としてしまうことだ。何の「ニヤっ」なんだろうか? 谷崎テトラ氏が昔どこかで書いていたアルカイック・スマイルのことを思い出す。ギュッという感じの笑み。

ところでまた別の話だが、Youtubeを見ていたら、トニー・パーソンズのミーティングで数年前によく見かけていた人たちがいつのまにか「先生デビュー」をしていることに気づいた。この人や、この人。他にもいるのかもしれない。

動画の出だしを見ていると、「まだこの形式でやってるの?」と少し呆れてしまう感じがする。わかっていない(と想定されている)人たちに対し、すまし顔で「説教」を垂れている。冗談じゃなければ、何なのだろう。

そんなことをちょっと考えていたら、「悟っている人 vs 悟っていない人」という冗談としてしか成立しないこの構図について、高木悠鼓さんのメルマガに劇的にわかりやすい説明が載っていて、感動した。「神の実験室通信69号」(2016年7月31日)

引用したい (一部改行を改変)。

さて、話は少し横道にそれるが、 「実験の会」を主催している私(高木)に、「あなたは特別な悟りの境地に到達したのですか?」 とか、あるいは「あなたは何か特別な悟りの経験をしたのですか?」みたいな質問を向ける人がたまにいる。面と向かって尋ねる人もいれば、遠回りに尋ねる人もいれば、本当は尋ねたいけど黙っている人もいる。

前にも書いたことがあるが、「あなたは悟っていますか?」とか「あなたは特別な悟りの境地に到達したのですか?」というような質問は、考えてもみれば非常に滑稽な質問だ。

なぜそういった質問が滑稽かと言えば、「覚醒、悟り、気づき」と一般に呼ばれているものは、「あなたは悟っていますか?」という質問をする人の側、主体にしかないからであり、自分が見るどんな対象物(人)も、「悟ったり、悟らなかったり」することはできないからである。

なんとわかりやすい! そして、「先生がた」に対するもろもろの違和感もすっきり片付く。

高木さんの訳されたダグラス・ハーディングの To Be and not to be, that is the answer は、今年出版される予定だそうだ。ちょうど夏の暑さが終わって探求モードが戻ってくる頃に発売というタイミングの良さ。寒い風が吹き始めてからになるとしても、それはそれでありがたい。