疑いようがないこと レオ・ハートン

 
レオ・ハートンのインタビュー音声から、興味深い部分を抜粋してみた。

レオはメールやフォーラムを使ったQ&Aは盛んにやっていたものの、ミーティングやインタビューの誘いはほぼすべて断ってきたという。だから、じつはUrban Guru Cafeのこのインタビュー (2009年) は貴重な音源だ。Urban Guru Cafeについては、昔の音楽をかけたりする雰囲気が気にいったからなのか、イエスという答えが出てきてしまったらしい。

Urban Guru Cafe (63. LEO HARTONG)

== 以下、インタビューからの抜粋 ==

Q. 現実とは何なのかを言い表すことはできますか?

A. 言い表そうとすれば、現実の外側に身を置かなくてはならないでしょう。ですから、どのように表現したところで、その表現自体が現実の一部です。どんな表現も現実をつかまえることはできません。自分の唇にはキスできませんし、自分の目は見ることができません。それと同じで不可能です。

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Q. すべてが幻想で、それについてはどうすることもできないのでしょうか?

A. すべてが幻想だと言うのであれば、そうやってすべてが幻想だと言うこと自体も幻想です。幻想というのは真実ではないという意味です。ですから、すべてが幻想だと言うのなら、その言葉も幻想だということになり、つまりそれは真実ではありません。火に触れれば熱いし、水に触れたら濡れます。そして車が向かって来ているときによけずにいれば問題が生じるでしょう。つまり、すべては幻想だと言ってもべつにかまいませんが、幻想と呼んだとしても現実と呼んだとしても何も変わりません。違うラベルを貼りつけているだけです。

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Q. これは、〈認識〉がつねに起こっていると気づくことに関する話だと言ってもいいですか。展開するストーリーについての話ではなく?

A. はい、ストーリーも展開している対象のひとつです。(中略) ストーリーはすごく魅惑的です。それがストーリーの性質で、誰もがストーリーを好んでいます。(中略) ストーリーを演じながら、演じているということを忘れてしまうのが私たちの性質です。

Q. では、自分の本質を忘れたくない人がいたらどうなるでしょうか?

A. それは、自分の本質を忘れたくない登場人物としての現れが起こっているということです。

Q. つまり、そのすべてが〈認識〉の中で演じられている劇だということですね。

A. そうです。そして、それを〈認識〉と呼ぶこと自体も、登場人物がすること、ゲームの中の何かです。というのは、〈究極の主体〉というのは対象になりえないものですが、それについて話そうとすれば必ずそれを対象にしてしまうからです。(中略) つかもうとしてもいいですが、その試みそのものがつねに気づかれているわけです。私は今ここにいて、今ここにすでに〈認識〉がありますが、私が〈認識〉をひとつの対象として知ることはありえません。〈認識〉がただあるだけです。〈認識〉を認識する必要はありません。光を照らす必要がないのと同じです。光は光で、〈認識〉は〈認識〉で、あるということがあります。〈認識〉はあらゆる人を知っていますが、〈認識〉を知っている人はどこにもいません。あなたにはあらゆるものが見えているでしょう。でも視覚そのものは見ることができません。すべてが見えるのは光のおかげですが、その光は見ることができません。(中略) 〈認識〉は認識できないものですが、すべてを知っています。(中略) ですから、その意味ではこれはすごく明白ではっきりしているわけですが、そうでありながら、つかむことができません。逆説的でありながら、逆説的ではありません。単純でありながら、単純ではありません。そして、ここで疑いが生じるかもしれませんが、疑いがあるということを何の疑いもなく知っている何かがそこにはあります。その確かさはいつでもあるんです。

== インタビューからの抜粋は以上 ==

言葉を超えたもの? レオ・ハートン

 
レオ・ハートンについては、インタビューを以前訳したことがある (これ) 。ウェブマガジンのamigoによるインタビューがもうひとつあって、その中で面白かった部分を訳して紹介したい。

原文: Amigo talks with Leo Hartong

== 以下、訳 ==

Q. それは言葉を超えたものなのでしょうか?

A. そういう言い方をすると、なにか難解なことについて話しているように聞こえます。バラの美しさを測定することはできませんし、定規はもちろん使い物になりません。測定しようとしてやってみたとしたら、バラの美しさを測定するのはかなり大変だと思うかもしれません。でも実際のところは、定規を使って測定するのは大変ではなくて不可能です。道具を間違えています。それと同じで、マインドは〈それ〉をつかむことができません。マインドは〈それ〉の中に現れているわけですから。

水の中に魚がいるのと同じように、マインドは〈意識〉の中に現れます。マインドは気づいているのは自分だと思っていますが、それはあべこべです。マインドが気づかれているんです。何かがマインドに気づいています。マインドは、自分が行動を起こしている、自分がコントロールしていると信じながら、そういうふりをしているだけです。

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Q. 「ダイレクトパス」はどんな手法も示さないという点でダイレクトです。「プログレッシブパス」はいろいろな手法、エクササイズ、修行のやりかたをすすめるという意味で間接的で、ダイレクトパスの逆です。もし誰かがあなたのところにやってきて指導を求めたとしたらどうしますか?

A. どの手法も幻想です。面白いかもしれませんし、別に悪くはありません。でも、誰がどこに向かうと言うんでしょうか? 自分はどこかに向かっている誰かなんだと思い込んでいるあいだは、ほかから独立した個人の存在を肯定しつづけることになります。〈それ〉にたどりつこうとして一歩進むたびに、分離は事実だと確認し、何かを達成しなくてはいけないと自分に言い聞かせることになります。この仕組みが見抜かれるとき、何かをする誰かはいません。自分自身へ導いてくれる道はありませんし、自分自身に近づく方法はありません。霊性のレベルを高めるプロセスを通して功徳を積むことによって最終的に霊性の頂点である「悟り」に至れるような「私」はいません。

Q. でもそういうふうに考えている人は多いですよね。

A. それはまったく問題はありません。そういうのはそれ自体として美しいゲームですし、今ここにあるものを見るかわりにそういうのを好む人たちはたくさんいます。マインドにとっては「今あるものを見る」というのはそれほど面白くはありませんから。空間や静寂のようなものです。どうしたら空間や静寂を言い表せるでしょうか? マインドは言葉や音や画像や感情や説明を処理するのに向いているはずですが、どうやったら空間を言い表せるでしょうか? 静寂を言い表す方法があるでしょうか? マインドは言います。「退屈だ、そんなことをするより面白そうな道を選ぶよ。瞑想をして歓喜の状態に到達して、素敵な経験をするんだ」。もちろん素晴らしい経験はできるでしょうけれども、それはこのこととは関係ありません。どんな経験が現れていても、それがつま先をぶつける経験であっても素晴らしい瞑想体験であっても、そのことに気づいている完全に静かな何かがあります。その静寂は、知覚されていること、経験されていることが何であれ、つねにその一歩手前にあります。このことをただ認めて、「面白い経験ではあったけど、こういう探求のすべては無益だった」と言うこと。それは誰にでもできるようなことではありません。「何かを達成した私」としてあり続けたいと思っているうちは、それを認められる状態にはないわけです。

== 訳は以上 ==

彼の別のQ&Aも読み返してみた (これ) 。ジョーイ・ロットのメッセージに出会ってから読んでみると、最初のときよりもまっすぐ伝わってくる気がした。

レオのUrban Guru Cafeのインタビューからの抜粋はつぎの記事で (たぶん)。