リチャード・シルベスターの新刊が来た

 
最近は、「非二元関係で面白い人出てないかなあ」とAmazonやYoutubeを物色することもあまりなくなって、本もほとんど読んでいない。

Kyle Hoobinという「新顔」を知り、ちょっと読もうとしたが、2ページごとに寝落ちする始末。Liberation Unleashedの本 (これ) もすっかり埃をかぶっている。

単純に飽きたのかもしれないが、Takuさんのブログの存在が大きい気がする。この分野では唯一毎日読んでいる。妙な感じに落ち着く。自分という「場所」で非二元の認識(とされるもの)を保有しておく必要などないことがわかる。グレッグ・グッドが『気づきの視点で〜』の本で、悟りが特定の場所にだけ存在していて自分には無いということが如何にありえないかを丁寧に説明しているが、Takuさんの場合、そのことの直接的説明も見事ではあるものの、それよりも、その知恵が誰かのものじゃないということ、それは誰かが抱えられるようなものではないことが日々のブログ記事全体から静かに確実に伝わってくる。

すると安心する。安心や理解という状態があってそれを獲得するというのではなく、ずっとあった安心と理解の存在に気がついてホッとする感じかもしれない。

これは、トニー・パーソンズやいろいろな人のミーティングに出ていた時期の感覚とは極めて対照的だ。当時はとにかく「自分のところには無い」というところに焦点が当てられまくっていた。見るところが違った。これはもちろん彼らの問題ではなく自分の問題で、思いっきり何かを投影していたせいで、それが偏在できるものではないという単純な事実に気づけなかった。

そんななか(どんな?)、昨日ナチュラルスピリットからリチャード・シルベスターの新刊『早く死ねたらいいね!』(村上りえこさん訳) が届いた。原書は2005年に出されたもので、今回のこれはリチャードの著書としては初めての邦訳になる。ちゃんと読めるかなと思いつつ、パラパラとめくっていたのだが、けっこう面白い。原書を初めて読んだのは多分トニーのミーティングに通い始めた時期だったが、当時はおかしな読み方をしていたんだろうなあと思った。

ふたつだけ引用してみたい。

すべての言語は疑わしい。この本では、以下の言葉は特に疑いを持って扱われ、引用符が付いていると思って読まれなければならない。これらの言葉に含まれている前提はどれも誤りなのだから。

 マインド 人 過去 未来 今
 その時 時間 場所 ここ あそこ
 私 あなた 自分 選択 自由

昨夜、旧友とレストランで夕食をとっている夢を見た。勘定を頼んだが、済ませる前に目が覚めた。友人は僕の分まで払わされたのだろうか?

僕はリチャードのミーティングやリトリートに行ったことはないが、トニーのところで会った参加者の中にはリチャードをよく知っている人たちもいて、噂はよく聞いた。「先生業」を始めて以降もリチャードはトニーのハムステッド (ロンドン) の月例ミーティングにはよく来ていて、休憩タイム用の紅茶をかいがいしく準備していたという。(他の先生たちをけなしまくるトニーがリチャードについてだけは一切悪く言わないのは、そんなことがあるのかも?)

正直言うと、BatGapのインタビュー(これ) で少ししつこい質問に対してプリプリ憤慨しているのを見て、リチャードはちょっと苦手かなと感じていた。でも、完璧な人格を投影することがどれだけ宇宙的不可能であるかが少しわかりかけてきた今、そしてこの本を改めて日本語で読ませてもらった今、このリチャードという面白いおじさんはそのまま受け取ればよかったんだと気づく。ありがたいことです。

あとがきでは、訳した村上さんの覚醒話にも少し触れられていて、それも面白かった。あと本文デザインがクールな感じで、ちょっとうらやましい。笑

『早く死ねたらいいね!』 (ナチュラルスピリット 5月17日発売)

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リチャード・シルベスターのインタビュー (2009年)

 
リチャード・シルベスターが2009年にConscious Mind EventsというサイトのTom Carter氏から受けたインタビューを、翻訳して紹介したい。

インタビュアーは、アセンションとか意識の進化といったニューエイジ系の興味を持っている人のようで、インタビューが咬み合っていない様が面白い。リチャードのイライラが伝わってくるようだ。

INTERVIEW WITH CONSCIOUSMINDEVENTS.COM

== 以下、インタビュー ==

Q. 非二元とは何かを説明してもらえますか?

A. 非二元というのは、あるのは一体性 (ワンネス) だけなのだという認識を言い表したものです。あるいは、そのことを言い表す試みのことであると言った方がいいかもしれません。というのは、それを実際に言い表すことは不可能だからです。一体性の認識は、自分が人間であるという感覚、自分というものは分離した世界の中でいろいろな選択をしながら人生を生きている個人であるという感覚が落ちたとき、初めて起こります。これが起こると、自己が空っぽであることが分かり、個人というのは意識の放射物であることが分かり、「あなた」や「私」というのはその中で全てが生じる光なのだということが分かります。見かけ上の個人と一体性との間の関係、あるいは見かけ上の個人と〈存在〉そのものとの関係は、波と大海の関係と同じです。波は、大海が波をしているものであり、あなたと私は、一体性が「人間している」ものです。

このことは、アドヴァイタから禅まで、多くのスピリチュアルの流派で言われてきたことなのですが、そのどれかに属しているわけではありません。

一体性の認識は、それが起こるか、起こらないかのどちらかです。見せかけの自己ができるどんなことも、どんな訓練であっても、どんなスピリチュアルな書物を読んでも、自身が見せかけであるという認識を可能にするものはありません。私は何かを薦めるということはしないのですが、でももしするとしたら、この計り知れない絶望を考えて、リラックスすることを薦めるでしょう。これがそれです。これが完全な状態です。これはすでに約束の地なんです。輪廻と涅槃は一つのものなのですから、私たちはリラックスしてそれを楽しんだほうがよさそうです。

Q. あなたはどのようにこの観点あるいは覚醒に到達したのですか?

A. これは観点ではありません。観点というものは、マインドから生じる概念です。マインドは、非二元性を認識したり理解したりすることが決してできません。非二元性についてのいろいろな概念なら、マインドは理解したり誤解したりはするかもしれませんが。

覚醒や解放は、それが認識されるか、されないかのどちらかです。ここではそれが認識されていますが、そのことは重要ではありません。いずれにしても、目覚めていることと眠っていることは同じことです。ただ、眠っている間はそのことが分かりません。まったくの逆説なんですが、解放などというものはありませんが、解放が起こらない限り、解放というものは無いということを知ることができないのです。こうした逆説に関しては、マインドは破綻しがちです。

Q. この認識は、あなたの人生において好ましい影響を及ぼしましたか?

A. いえ。というのは、私には人生というものがないからです。というより、誰にも人生はありません。ただ、解放が認識されるまでは、個人というものが存在していて、その個人には人生があってその人生に責任を負っているかのように感じられるでしょう。

そうは言っても、解放というのは必ずしも何かを意味してはいないわけですが、一体性が認識されるとき、一定の変化が生じる傾向というものはあります。たとえば、神経症的な感覚の幾らかがなくなり、安らぎと落ち着きが増すかもしれません。時間の本質が見抜かれると、おそらく過去についての罪悪感や後悔が少なくなるでしょうし、未来についての不安も少なくなるでしょう。意味や目的や希望というものが消えることも、大きな恩恵となりえますし、探求が終わるということもそうでしょう。ですから、このキャラクターは目覚めていることを好んでいます。

Q. 人々は、努力することによって非二元のことを理解することはできるでしょうか。それとも、覚醒ということが起こるか、起こらないかということになるのでしょうか?

A. 非二元に関して学ぶことは可能ですが、学ぶことによって目覚めることはできません。学ぶことはマインドの機能であり、マインドが目覚めの助けになることはありません。マインドはそれができると熱心に信じているわけですが。それがマインドの性質です。

Q. 『The Book of No One』の中で「存在している人は誰もいない」とありますが、これは何を説明しているのですか? 私たちは物事が起こるのをただ経験しているけれども、物事を全くコントロールしていないという意味ですか? あたかもお互いを通して神の心を見ているかのように。

Q. 「存在している人は誰もいない」というのは、哲学的な主張ではありません。これは、解放のなかで認識されることをそのまま言い表しているだけのものです。

私たちが物事が起こるのを経験しているのではありません。なぜなら、「私たち」は存在していないからです。物事は起こります。物事が「私」という人間に起こっているという感覚も、起こる物事のうちの一つです。この感覚は、解放が認識されるときに消えます。

このメッセージは、私たちが物事をコントロールしていないということを言っているのだと、しばしば誤解されます。私はそのようなことを全く言っていません。言っているのは、人間が存在していないからコントロールというものも無いのだということです。完全に違うことを言っているです。

一体性のことを、神が自身を見ているのだと表現するのであれば、それは結構な喩えだと思います。ですが、私自身はそのような言い方は避けます。というのは、「神」という言葉を使うことで、西洋人のマインドではあまりに多くの観念が飛び交うことになるからです。これは、西洋では神のことを人格をもった創造者として考えがちだからです。東洋では、神について使われる言葉は、非二元について使われる言葉にもっと近いのですが。

Q. 死についてのあなたの見識を教えてください。死んだら私たちに何が起こるのでしょうか? 何らかのかたちで存在し続けるのでしょうか?

A. 死というものは、分離という夢の終わりです。解放のときと死のとき(両方同じことですが)、人間は誰も存在しておらず、あるのは一体性だけだということが認識されます。

死んでも私たちに何も起こりませんが、それで問題ありません。というのは、今も私たちには何も起こっていないからです。「私たち」は存在していません。

私たちはたった今も存在し続けてはいませんし、死んだ後にも存在し続けません。あるのは〈存在〉だけです。

Q. 非二元性が認識されると、自分の選択というものは問題であり続けるでしょうか。良くあるための選択や、悪くなってしまう選択です。良いと悪いの定義にもよりますが。

A. 選択できる人は誰も存在していません。選択をしたことがあるような人はこれまでに誰も存在したことはありません。人はあらゆる種類の選択が違いを生むと感じるかもしれませんし、自分がいい人であるとか悪い人であるといったことをいろいろなやり方で考えるかもしれません。ですが、人が落ちるとき、解放のなかで選択というものがないということが認識されます。

Q. もしあなたが殺人者で、非二元性に覚醒したとしたら、あなたは殺人者であり続けるでしょうか? 覚醒の前にあなたが親切で思いやりのある人だったとしたら、覚醒の後もそうであり続けるでしょうか?

A. 法則は何もないのです。非二元性は何も除外しません。私たちが何かを除外したとたんに、二元性の中に戻ります。こちらには非二元性があって、非二元性から除外したものがあちらにある、という二元性です。

とは言え、殺人をしようという衝動がもし神経症的あるいは精神病質の傾向から生じるものであれば、一体性の認識によってそうした衝動がなくなることは大いにありえます。そして、親切で思いやりのある人でいたいという衝動が、必要とされたいとか好かれたいというような強迫的で神経症的な要請から生じたものであれば、それはよく共依存と呼ばれますが、解放によってそうした衝動もなくなるかもしれません。

== インタビューは以上 00

「解放などというものはありませんが、解放が起こらない限り、解放というものは無いということを知ることができないのです」とは、なんと興味深い逆説だろう。こういうことを聞くと、また探求のエネルギーが戻ってくるのを感じる。

紅茶とケーキ リチャード・シルベスター

 
リチャード・シルベスターのウェブサイトのエッセイを紹介するシリーズの最後。

==以下、翻訳==

紅茶を飲み、ケーキを食べる

解放が認識されると、人生はそれほど複雑なものではなくなる。人生を活気づけていたストーリーがすべて落ちてしまうと、〈これ〉のシンプルさだけが残る。そのシンプルさのなかで、人生のちっぽけで平凡なことがついに楽しめるようになるだろう。私にアドバイスがほしいと言ってくる人は多いが、たいてい私は断っている。でも、もし何かアドバイスをするとしたら、こうだ。リラックスして、自分が好きなことなら何でもいいからシンプルなことを楽しんでみたらどうだろう。日常が楽しめるようにならない限り、〈これ〉の奇跡は見落とされてしまうのだから。

禅では、「悟りの前、薪を割り、水を汲む。悟りの後、薪を割り、水を汲む」と言われる。私には「解放の前、紅茶を飲み、ケーキを食べる。解放の後、紅茶を飲み、ケーキを食べる」の方が好ましい。どちらも結局同じことなのだが。究極的には何の違いもないことが認識される。解放の前と解放の後も、眠っていても目覚めていても、どちらも同じだ。

***

解放において、私たちが自分だと思っていた個人というものが、単なる見かけにすぎないということが認識される。私たちの中心、そしてすべてのものの中心には、分化していない〈存在〉があり、そこから全ての違いが顕現している。自己も、個人も、人間も存在していない。

解放について最も多い勘違いは、解放というのは個人が到達することができる何かなのだという考えだ。実際は、解放とは喪失だ。解放というものをもたらすために何らかの行為をすることができるような分離した個人というものが存在している、という感覚を喪失することなのだ。

分離はなかったということが認識されると、個人に結びついている弱さや恐れの感覚が落ち、ただ起こっている生の驚異だけがそこに残る。意味が落ち、その代わりに、そこには灰色の木の幹で、足を広げ、頭を上げ、あなたをまっすぐ見つめながらじっとしているリスがいる。目的が落ち、その代わりに猫の毛の驚くような手触り、そして小枝を這うアリの素晴らしい動きがある。

人生は自分がコントロールしていて、どうにか人生を進めていかなければいけない、という感覚がなくなると、生はただ生きられるようになり、安らぎに包まれる。何が起ころうと常にくつろぎがあり、何か別のものを得ようとすることはなくなる。

***

分離の感覚を癒すために何かをすることができる誰かが存在している、ということを言う非二元性の教師たちは多い。言いかえれば、彼らは、自分が人間ではないということを発見することができる人間がいるのだと言うのだ。このような考えの馬鹿らしさは、大抵は非常に複雑で微妙な思考によって誤魔化される。

非二元性に関する教えにおいては、漸進的なスピリチュアルの道を進むことによって解放が実現されるという魅惑的な考え方がしばしば伝えられる。このような考え方は、実際には非二元性とは関係がない。そうしたものは、非二元性について説得力はあるけれども無意味なストーリーを示しているにすぎない。

このようなストーリーから、多くの道、教義、手法、グル、教師、マントラのセールスマン、ワークショップ、グループが生じ、それらはスピリチュアル商店街を構成している。

どんな探求をしたとしても、人は以前よりも快適になる可能性がある。それ自体は別にいい。が、そうしたことによって得ることができるものといえば、以前より快適になった人だ。牢獄の中で。もし人が投獄されているのであれば、快適であるほうがずっといいだろう。だが、どれほど快適になったとしても、自分が入っていると感じている牢獄から出ることはできない。

どんなことをしても、人が牢獄から出ることは不可能だ。というのは、人が牢獄だからだ。人が落ちたとき、そもそも牢獄があったことなど一度もなかったのだということが認識される。

そして、「私」も「あなた」も光であり、その光の中ですべてのものが生じているのだということが分かる。

== 翻訳は以上 ==

トニー・パーソンズ並みの辛辣な表現も混ざっていて面白い。「スピリチュアル遊園地」とか「スピリチュアル商店街」とか、TM(超越瞑想)や自己啓発セミナー、人間性心理学などに何十年も携わってきたリチャードならではの辛辣さだ。