SANDカンファレンス2011 その2

 
二日目は、朝一番にフランシス・ルシールのミーティングに出る予定にしていましたが、風邪気味で更に時差ぼけの寝不足も重なって、見送りました。

遅い朝食をとっていると、前のテーブルにはフランシス・ルシールが仲間と座っていて、横のテーブルではジェフ・フォスターとスコット・キロビーがごしょごしょと何やら話していました。複数のグルたちがこのように集まるという意味では、こうしたカンファレンスは面白い機会だなと思います。

サンフランシスコのベイ・エリアでは、毎週のように何らかのノンデュアリティ(非二元)のミーティングが開かれていたりするそうですが、一回の週末で、しかも一日に何人もの人の話を一気に聞けるというのは、やはり貴重な場でしょう。

パネルディスカッション

その面白さが発揮されたのが、パネル・ディスカッションです。今日は、ジェフ・フォスター、スコット・キロビー、ウンマニの三人のパネルでした。

主に、苦しみと非二元、修練と非二元というテーマで話は進みました。

スコット:「世界は存在しない、苦しみも幻想だ、あなた自体がそもそも幻なのだ」と言い続けても、実際に苦しんでいる人にとっては意味をなさない。究極のリアリティは実際にそうであっても、それを例えば頭で理解させたとしても、どうにもならない。

ジェフ:自分も最初は「あなたという存在は概念にすぎない」ということを繰り返していた。が、リアリティをそのまま語るということと、何かを伝える、教えるということは異なることだと今は分かる。概念として非二元のリアリティを抱えることは、更なる苦しみを生む。

ウンマニ:それは分かるが、なぜ苦しむことがいけないのか?苦しみをどうにかして抜けようとするより、苦しみも含めてすべてが完全にOKだということを認識する方が、本当のリラックスにつながる。

これに対し、ジェフもスコットも、「それはそうだが、実際にはその認識になかなか至らないのだから、今目の前で苦しんでいる人に対して出来ることをする、そういうヘルプが起こっている、ということ」という趣旨のことを言っていました。

おそらく、非二元を概念として頭で理解してマインドがそれを抱えることの問題については、共有されています。が、実際に本当のリアリティを理解させることができるかどうか、という点が相違を生んでいます。

ウンマニは、それができる、あるいは起こりえるということを前提に話していて、他の二人はそれは稀にしか起こらないということを前提にしています。トニー・パーソンズはウンマニ型の典型で、実際に覚醒する人がどんどん出ているだけに、究極のところを語り続けることができるのでしょう。

ただし、究極の現実を一瞥する、あるいは認識するということと、その後で苦しみがどう続くかということは別問題であり、そのあたりを考えると、覚醒が起こればいいという議論も乱暴すぎるように思います。

実際、これまでいろいろなミーティングに出て分かったのは、覚醒した後の方が苦しみが増しているケースが散見されるということです。その点についても一切コントロールできないということなのでしょうが、パターンとして見えるのは、伝統的な修行に長年従ってきた人は覚醒した時点で、あるいはその後短期間で探求が終わり、そうでない人は探求が終わらず「個人」に戻って一体化した状態に長く悩まされがちだということです。単純化しすぎかもしれませんが。

今日のパネルにおいては、三人ともが、実際に教え始めてからスタイルや表現が変わってきていると言っていました。覚醒ですべて結果オーライにならない、という現象があるということも、その辺に関係するのだろうと思います。

ジョーン・トリフソン

上記のパネルの前に、午前中にジョーン・トリフソン(Joan Tollifson)のセッションに出ました。アメリカ人の女性で、禅の修行をしたり、フランシス・ルシールやセイラー・ボブやガンガジなど、多くのグルのもとで学んだ人です。生まれつき右手がなく、元アルコール・ドラッグ中毒、そしてレズビアンです。

ジョーンは普段はオレゴンの地元でしかミーティングをしておらず、貴重な機会と思って行ってみました。

とても明るく、ユーモアに溢れていて、しかもクリアで分かりやすい表現を多用します。言葉として書いてみれば各種ミーティングで聞いたことがあるような内容ですが、ジョーンから「皮膚の中に自分がいて、その皮膚の外は自分とは違う別のもの、というのはただの催眠にすぎない」「性格は、土地によって違う気候のようなもの。シカゴがLAのような気候になりたい、と思っていても仕方ない」と聞くと、催眠から醒めたようなすっきりとした自由さの中に解放された感じがしました。

フランシス・ルシール

この日の圧巻は、夕方に登場したフランシス・ルシールです。大会場で、彼の前にプレゼンテーションをしたリン・マクタガートの話が長引いたあと、彼の出番となりました。

壇上の椅子に座ると、無言で何も発しません。

ざわざわが消え、「何が起こるんだろう、彼はいつ話し始めるのかな」という思いもだんだん静かになり、15分ほど経過した頃、静かにこれだけ言いました。

「大事なのは、言葉ではない。

 どんな言葉を交わそうが、グルとどれだけの時間を過ごそうが、そんなことは関係ない。

 唯一大切なのは、愛だ」

そして、合掌した後、彼は音もなく会場を去っていきました。

その3はこちら

師との出会い フランシス・ルシール

 
ルパート・スパイラの師のフランシス・ルシールが、サイト上で師との出会いについて書いているので紹介します。

この中では、クリシュナムルティと彼の師の違いについても触れられていて、面白いと思いました。なお、フランシスの師とは、ジャン・クライン (Jean Klein) です(『過去にも未来にもとらわれない生き方』ではジーン・クラインと表記されていますが、彼のインタビュー等ではジャンあるいはジョンと聞こえます)。

Francis Answers – 232- Why did you choose the Advaitic approach?

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Q. あなたの考え方はとても面白く、最近のグルの中では最高だと感じています。あなたがなぜアドヴァイタの手法を選択したのか、また、権威や教師は不必要であると主張したり、独りでいることをよしとしたクリシュナムルティの教えをなぜ否定しているのか、教えてください。

A. 私がアドヴァイタを選んだのではありません。アドヴァイタは多くの道のなかの一つであるにすぎません。道よりも重要なのは、生が私たちのために選ぶ師です。私が自分の師に出会ったとき、クリシュナムルティの教えのなかで私を悩ませていた二つの矛盾が彼の教えのなかには見られないことがすぐに分かりましたし、そのうえ、彼の教えにはクリシュナムルティの教えには見られない創造性と新鮮味がありました。しかし何よりも重要なのは、クリシュナムルティの前では体験することのなかったような、沈黙の中での言語を超越した伝達があったことであり、そのことは私にとっては自分の師に出会えたことを示す印だったのです。ついでながら、彼の教えはアドヴァイタに限定されてはいませんでした。彼は仏教、スーフィズム、カシミール・シヴァイズム、タオイズムなどの多くの他の教えも評価していました。

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グルと明け渡し フランシス・ルシール

 
しばらくルパート・スパイラのQ&Aシリーズを中断したままになっていますが、今日はルパートの師のフランシス・ルシールのサイトから、Q&Aのひとつを紹介します。師と弟子の距離についての問答です。

How do you work with a student who does not live near to you?

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Q. 住んでいる場所があなたから遠く離れている生徒とは、どのように取り組んでいますか?

A. 真の生徒とは、人間としての師の生徒なのではなく、真理の弟子です。真の弟子であるために要求される資質はひとつしかありません。それは真理への圧倒的な願望であり、絶対への無条件の愛です。真理の探求者は大勢いますが、本当の弟子はほとんどいません。真の生徒にとっては、あなたが尋ねている質問は的外れです。距離が障害になることは絶対にないでしょう。彼女あるいは彼は、自身を惹きつける炎の近くに寄ろうとして、旅をしたり、引っ越したり、できると感じることは何であってもするでしょう。距離は彼らの愛の強さを測る指標でしかありません。最初は、宇宙が助けてくれようとしているとは思えないかもしれませんが、真の意図の強さを自身で確信した時点で、宇宙の力は奇跡的に彼らの努力に協力するようになります。

1982年のクリスマスの日、私の師は突然私に対して米国へ移住するようすすめました。私はその当時フランスにいて、職業的な状況はとても安定していて収入もよく、家族もこどもたちも友人も全員フランスにいて、英語は話せませんでしたし、米国へ移る意思はその当時はありませんでした。ですが、私の師から電話でそのように言われたとき、私が移住しようと完全に決断するまで2秒しかかかりませんでした。その決定を後悔したことはありません。

ここで書いていることは昔気質の明け渡しについてであり、それは人物に対する明け渡しではなく、私たちの存在の奥深くから呼びかけ続けている真理に対する私たちの愛に明け渡すことです。非二元に関して語られていることのすべては、この明け渡しのための準備であるにすぎません。この明け渡しなしでは、非二元についてのおしゃべりは荒れ果てた通りに吹いているただの風なのです。

(Q&Aは以上)

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ちなみに、ここで触れられているフランシスの師とは、ジャン・クライン(Jean Klein)のことです。フランス人であるフランシスがなぜ長年カリフォルニアに住んでいるのか、このQ&Aを読むまで僕は知りませんでした。

カリフォルニアでフランシスが住んでいるエリアの荒涼とした景色と、フランスのどちらかというとエレガントな光景やフランシスのいかにもエリート的な経歴とをくらべてみて、なぜだろうと思っていました。

移住の理由がこれを読んで判明したわけですが、ちょっと感動してしまいます。

経緯はこれとは異なるかもしれませんが、同じように深いところからの呼び声に従って、あたりまえの理性的な判断では説明できないような大きな転換を経て、いまは遠くに暮らしている何人かの知人のことを考えてしまいます。

その人たちのことを考えるときに、畏敬の念がわいてきて、それが何に対するものなのか分からなかったのですが、このQ&Aを読んで、それが明け渡しに対する畏敬、明け渡しの美に対する憧憬だったのだ、ということが分かった気がします。