ラマナとクリシュナムルティ by ダグラス・ハーディング

 
ジョン・シャーマンのメソッドをやってから、いわゆる非二元のメッセージやアプローチに対する関心がだいぶ消えてしまっている。それはひとつには、そういう教えで使われているいろいろな語彙が、見ることの前ではほとんど無意味な音声にしか聞こえないからだ。

といっても、別に何かがわかったとか、何かが落ちたとか、そういうことでもない。むしろ、わからないという解放感が楽しい。見ることが起こるとき、どうでもいいことが本当にどうでもよくなるという、多分そういう単純なことだと思う。

でも、ダグラス・ハーディングの方法、彼が指していることについてだけは興味が高まっている。「現在の証拠に基づいて」という言い方があるけれど、それしかありえないということが明白だからかもしれない。所有も距離も関係も過去も、それを示す証拠がない。証拠を探そうとしているわけでもないが、証拠なしに前提になっているという状態は、特殊な設定であるようにも思えてしまう。

ともかくそのハーディングが、ラマナ・マハルシとJ・クリシュナムルティを例にとって、スピリチュアルの教えにおける違いについて書いている文章がある。違いについて書き始めながら、違いの生まれようがない場所が示されていて、面白い。Look for Yourselfという著書の一部だ。

訳してみたが、前半部分は相当「超訳」気味なのに (今回初めてやってみた)、後半はなぜか逐語訳になっているという妙な構成 (暑さで頭が変になっている気がする)。

原文: Ramana Maharshi and J. Krishnamurti

== 以下、訳 ==

ラマナ・マハルシとJ・クリシュナムルティ

スピリチュアルの世界では区別が曖昧にされることがある。表現は違うけれども同じことを言っているのだと。だが、それでいいのだろうか。

ラマナ・マハルシとJ・クリシュナムルティを例にとる。彼らの信者や弟子の中には、両者が同じことを言っているのだと主張する人たちもいるが、私はそうは思わない。スタイルだけではなく、内容も大いに異なっているというのが私の見方だ。

クリシュナムルティは、自分を理解すること、思考の性質、思考の内容、条件づけの性質を理解することは不可欠だと言う。マインドのプロセスを知る必要があるのだと、いたるところでクリシュナムルティは主張する。

対してラマナは、知るもなにもマインドなど存在していないと言う。マインドの源泉をたどってみればその姿は消える、というのがラマナの言っていることだ。これはニサルガダッタの「マインドがあると言っているのはマインドだ」という言葉と似ている。

ラマナとクリシュナムルティの講話録を隅々まで調べてみれば、両者の違いが薄まるような言葉もあるいは見つかるかもしれないが、実践の上では大きな差がある。一方は自分が本当は誰であるのかを見ることにがむしゃらに取り組み、他方は自分は誰であるのかを見えなくしているとされる精神的なあれこれを全部どうにかしようとする。このふたつを混ぜることはできないし、同時に両方に取り組むのは無意味だ。

問題になるのは、たった今、今あるとおりの自分にそれを見ることはできるのか、それとも一生を費やすかもしれない準備をしないかぎりは見ることができないのか、という点だ。クリシュナムルティは「それは単純に聞こえるけれども非常に難しい」と言う。それに対してラマナは「〈自己〉(Self)でいることほど易しいことは他にない」と言う。

クリシュナムルティによれば、偉大な聖典はどれも罠だということになる (聖典は一切読んだことがないと言っている彼がなぜそう言えるのかは不明)。グルは自分のシステムに信者を囲い込むだけだからグルにも頼ってはいけない、とも言う (自分はグルではないらしい)。かわりに彼が勧めるのは、マインドの動きを調べることによって自己認識に近づくという方法で、それはきわめて段階的なものであり、クリシュナムルティ自身の言葉を借りれば「終わりのない川」だ。

ラマナ・マハルシはだいぶ違う。ラマナは聖典を読んでいたし、聖典は自己探究を促進すると考えていた。それから自分の内側にいる真のグルの重要性を強調した。自分の本質を直接見ろと促し、それができない人たちに対してはグルに明け渡すことを勧めた。いずれの道も段階的ではない。ラマナによれば〈自己〉を部分的にしか認識できないということはないし、まして見逃すことはありえない。なぜなら、〈自己〉を見るのは〈自己〉であって人間ではないからだ。

スピリチュアリティについて言うと、東洋と西洋、ふたつの基質、ふたつの種類の教師や教義を区別することができる。このふたつのあいだの隔たりは大きい。前者においては、〈現実〉あるいは〈目標〉 (こちらの派の人たちは括弧でくくったりしないだろうが) は絶対的に非個人的なものであり、素晴らしき〈実在〉ではなく単なる不在であり、〈無 = すべて〉としての〈それ自体〉にはっきりと目覚めている驚くべき〈何でもないもの〉ではなくまったくの無であり、あまりにも空っぽで空っぽさすら欠けている空っぽさであり、非神秘であり、消滅だ。自己などないし、まして〈自己〉などとんでもない。

後者においては、〈現実〉とはこうしたすべての正反対のものだ。〈自己〉のみが完全に実在し、それは超個人的で、けっして非個人的ではなく、崇敬すべきもの、驚くべきものであると同時に言語に絶するほど神秘的であり、サット (存在)、チット (意識) である以上にアーナンダ (至福) だ。 前者にとっては「神」は何よりも忌み嫌うべき言葉だが、後者の流れの人たちが「神」という言葉を口に出すときに歓喜を表すことに何も不思議はない。当然ながら、〈愛〉そのものである神について、この世界に自分をまさに誕生させてくれた〈唯一者〉について、そう、あなたと私のために消えるその御方について語り始める人々もいる。

正確さよりも簡潔さを重視して、前者を霊的・心理的、後者を霊的・宗教的と呼んでもいいだろう。もちろん、こうした対極のあいだには中間的立場がいろいろとあるし、その隙間を埋めようとする試みもなされている。それでも隔たりは変わらない。

隔たりのどちらにマハルシがいて、どちらにクリシュナムルティがいるかはまったく明白だ。もし無理にせがまれたとしたら、私は認めざるを得ない。みずからの気質 ― 子どもの頃からの強いキリスト教的条件づけと言ってもいいかもしれない ― によって、私自身は〈大いなる隔たり〉の霊的・宗教的な斜面の方にいるということ、そしてその立場を支えるための私の主張は事後的なものだということを。つまり、自分の信じるところを支持する理由を私はいずれにしても直感によって発見し続けているのだ。

とは言っても、幸いなことに話はそれで終わりではない。あなた方と私が、それぞれの気質がどれほど違っていようとも、自分の注意の向きを180度回転させれば、そこでこちら側に見えるものはどちらにとってもまったく同じひとつのもので、そこにはまったくどんな条件もない。なぜこのことはそれほど確かなのだろうか。それは、ここでは、つまり〈隔たり〉の両側の斜面が出会う谷底では、意見を異にできるようなものは何も残されていないからだ。ここにおいては、マハルシのすべての弟子たち、クリシュナムルティのすべての弟子たち、あらゆる先生やそうでない人の弟子たちが、すべての人々を永遠に融合させる本質的な認識を自由に分かち合えるのだ。

そしてついにここで真のエキュメニズム (世界教会主義) が見いだされ、それによって、さまざまな区別をごまかしたり、あいまいにしたりすることなく、癒しがもたらされる。ここで、争い一般の、とりわけ宗教的狂信と狭量さによる争いの、究極の和解が実現する。死に至る病に対するこれほど単純で万能な薬が自分のものになろうとは! 効果的で、無料で、いくらでもあって、私たちの右手よりも重宝な薬が!

さあ、この薬を今すぐ私たちで一緒にとろう。他の人たちを待たなくてもいい。彼らもやがて続くであろうから。

== 訳は以上 ==

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