ジョン・シャーマンとダグラス・ハーディング

 
マサさんという方から、

「ジョン・シャーマンの自分を見るということとダグラス・ハーディングの顔を指差すということはかなり似ていると思ったのですがヒロさんはどう思われますか?」

というコメントがあった。

荒川良々とハライチの澤部は似ているのかどうなのか、という疑問と同じで、正解がなさそうな問いだ。並べてみれば意外と似てなかった、と思うかもしれないし、やっぱり似てるなあと思うかもしれない。見る人の数だけ見解がある。

ただこの、見る人の数だけ見解がある、という点が、まさにジョン・シャーマンとダグラス・ハーディングの方法の共通点なのではないかと思う。

ふたつの方法では、自分で見るということが徹底されていて、外部の権威は完全に排除される。想定された正解はないし、そのときに見えることが見えるだけだ。民主主義、主権在民などとSEALDsばりのスローガンが頭に浮かぶが (あのどこか苛立たしいリズムと一緒に) 、本当にそうで、そこで見えるのは絶対に他の人には見ることができないものだ。

別の言い方をすれば、本来はすべてのものが今の自分にしか見えていないのに (他人は別のものを見ているはずというのは完全なる想像)、どこか他に自分の知らない正解、自分に見えていない真実があるのではないかと思ってしまうという異常事態 (錯誤と言ってもいい) を正常化するのがジョン・シャーマンのメソッドであり、ダグラス・ハーディングの実験だと思う。そこは共通している。

じつは、僕はジョン・シャーマンの「生に対する恐れ」という概念には相変わらずピンと来ていなくて、むしろ、「単純だけれども大きな見落とし」というのがキーワードなのではないかと感じている。

何を見落としているかと言えば、主体だ。対象だけに没頭してしまって、主体のことがすっかり抜け落ちている。ネイサン・ギルが繰り返し言う、「気づいているということと気づかれている内容、その気づきの方が意識されていない」ということと同じだ。

気づいていることに気づく、とはよく言われることだけれど、それをややこしい瞑想や修行にせずに、単純に自分自身を見るという1行&1分で終わる方法にしたのがジョン・シャーマンのすごいところだと僕は思う。

自分は対象ではなく主体だ、身体というモノではなくモノを見ている側なのだ、というのを自分自身でたしかめることによって、錯誤の上に築かれていたものが一気に、もしくは徐々に崩れる。そして「正気」になったあと、新しい土台が出現する。

この見落としや錯誤の正常化について言うと、ダグラス・ハーディングの実験は、たぶんだが、それ以上のことをしている。見落としていたものを見るだけではなく、その見落としていた主体とずっと見ていたさまざまな対象は同じものだった、さらにそれはものではなかった、そういうこともわかる。(ただしそれは、すでにそうなっていることをただ見ることだから、正常化も何も、いっさい何もしていないという言い方もできる)

ただ、人によっては、このあくまでも具体的なハーディングの実験を抽象的なものとしてとらえて、見ているものを見ないという事態も起こりえる気がする。

それに対して、ジョンのメソッドで指示されるのは、「自分が自分だというその感じを見る」といったきわめて単純なことであるため、そのメソッドや実験をどうとらえるかという態度的な要素が介在する余地はあまりないのかな、と思う。

で、ふたつのメソッドで同じものを見ているのかどうか、という点はよくわからない。

ただ、ハーディングの実験の場合にはいつも同じものが見えるはずだが、ジョンのメソッドの場合は、錯誤状態でおこなう最初のときに見えるものと、メソッド実行後に繰り返したときに見えるものはだいぶ違うのではないか、ということは感じる。だから、方向としてはこちら側を見るという点では共通しているけれども、見ているものはちょっと違うのではないかなという気はする。

それから、ダイレクトパスの本をいま訳しているせいで頭に浮かんだのだが、ダイレクトパスも「民主的」という意味では、このふたつのやり方とけっこう共通している。何かを変えることで、あるいは他から何かを教わることで何かを得るのではなく、今どうなっているのか、ということをただ見る。それによって、「ただ見る」ことがいかにできていないかを知り、それを知ることによって何かが正常化する。

ただし、ダイレクトパスの場合、成功率はわりと低いのかなあというのが僕がこれまでいろいろ見ていた中での感想だ。

ダイレクトパスは置いておくとしても、ジョン・シャーマンのメソッドをやってみて以来、ダグラス・ハーディングの方法への関心が再燃したのは事実で、どこかが関係しているからなのかなあという気はしている。

それと、どれかひとつを選ぶという話でもないんだろうとは思う。

マサさん、いま思いついたのはこんなところですが、いかがでしょうか?

追記: ジョン・シャーマンのメソッドについてミナトさんが解説されている記事もすごく参考になるはず。(ジョン・シャーマンのメソッドについてのご質問)

ラマナとクリシュナムルティ by ダグラス・ハーディング

 
ジョン・シャーマンのメソッドをやってから、いわゆる非二元のメッセージやアプローチに対する関心がだいぶ消えてしまっている。それはひとつには、そういう教えで使われているいろいろな語彙が、見ることの前ではほとんど無意味な音声にしか聞こえないからだ。

といっても、別に何かがわかったとか、何かが落ちたとか、そういうことでもない。むしろ、わからないという解放感が楽しい。見ることが起こるとき、どうでもいいことが本当にどうでもよくなるという、多分そういう単純なことだと思う。

でも、ダグラス・ハーディングの方法、彼が指していることについてだけは興味が高まっている。「現在の証拠に基づいて」という言い方があるけれど、それしかありえないということが明白だからかもしれない。所有も距離も関係も過去も、それを示す証拠がない。証拠を探そうとしているわけでもないが、証拠なしに前提になっているという状態は、特殊な設定であるようにも思えてしまう。

ともかくそのハーディングが、ラマナ・マハルシとJ・クリシュナムルティを例にとって、スピリチュアルの教えにおける違いについて書いている文章がある。違いについて書き始めながら、違いの生まれようがない場所が示されていて、面白い。Look for Yourselfという著書の一部だ。

訳してみたが、前半部分は相当「超訳」気味なのに (今回初めてやってみた)、後半はなぜか逐語訳になっているという妙な構成 (暑さで頭が変になっている気がする)。

原文: Ramana Maharshi and J. Krishnamurti

== 以下、訳 ==

ラマナ・マハルシとJ・クリシュナムルティ

スピリチュアルの世界では区別が曖昧にされることがある。表現は違うけれども同じことを言っているのだと。だが、それでいいのだろうか。

ラマナ・マハルシとJ・クリシュナムルティを例にとる。彼らの信者や弟子の中には、両者が同じことを言っているのだと主張する人たちもいるが、私はそうは思わない。スタイルだけではなく、内容も大いに異なっているというのが私の見方だ。

クリシュナムルティは、自分を理解すること、思考の性質、思考の内容、条件づけの性質を理解することは不可欠だと言う。マインドのプロセスを知る必要があるのだと、いたるところでクリシュナムルティは主張する。

対してラマナは、知るもなにもマインドなど存在していないと言う。マインドの源泉をたどってみればその姿は消える、というのがラマナの言っていることだ。これはニサルガダッタの「マインドがあると言っているのはマインドだ」という言葉と似ている。

ラマナとクリシュナムルティの講話録を隅々まで調べてみれば、両者の違いが薄まるような言葉もあるいは見つかるかもしれないが、実践の上では大きな差がある。一方は自分が本当は誰であるのかを見ることにがむしゃらに取り組み、他方は自分は誰であるのかを見えなくしているとされる精神的なあれこれを全部どうにかしようとする。このふたつを混ぜることはできないし、同時に両方に取り組むのは無意味だ。

問題になるのは、たった今、今あるとおりの自分にそれを見ることはできるのか、それとも一生を費やすかもしれない準備をしないかぎりは見ることができないのか、という点だ。クリシュナムルティは「それは単純に聞こえるけれども非常に難しい」と言う。それに対してラマナは「〈自己〉(Self)でいることほど易しいことは他にない」と言う。

クリシュナムルティによれば、偉大な聖典はどれも罠だということになる (聖典は一切読んだことがないと言っている彼がなぜそう言えるのかは不明)。グルは自分のシステムに信者を囲い込むだけだからグルにも頼ってはいけない、とも言う (自分はグルではないらしい)。かわりに彼が勧めるのは、マインドの動きを調べることによって自己認識に近づくという方法で、それはきわめて段階的なものであり、クリシュナムルティ自身の言葉を借りれば「終わりのない川」だ。

ラマナ・マハルシはだいぶ違う。ラマナは聖典を読んでいたし、聖典は自己探究を促進すると考えていた。それから自分の内側にいる真のグルの重要性を強調した。自分の本質を直接見ろと促し、それができない人たちに対してはグルに明け渡すことを勧めた。いずれの道も段階的ではない。ラマナによれば〈自己〉を部分的にしか認識できないということはないし、まして見逃すことはありえない。なぜなら、〈自己〉を見るのは〈自己〉であって人間ではないからだ。

スピリチュアリティについて言うと、東洋と西洋、ふたつの基質、ふたつの種類の教師や教義を区別することができる。このふたつのあいだの隔たりは大きい。前者においては、〈現実〉あるいは〈目標〉 (こちらの派の人たちは括弧でくくったりしないだろうが) は絶対的に非個人的なものであり、素晴らしき〈実在〉ではなく単なる不在であり、〈無 = すべて〉としての〈それ自体〉にはっきりと目覚めている驚くべき〈何でもないもの〉ではなくまったくの無であり、あまりにも空っぽで空っぽさすら欠けている空っぽさであり、非神秘であり、消滅だ。自己などないし、まして〈自己〉などとんでもない。

後者においては、〈現実〉とはこうしたすべての正反対のものだ。〈自己〉のみが完全に実在し、それは超個人的で、けっして非個人的ではなく、崇敬すべきもの、驚くべきものであると同時に言語に絶するほど神秘的であり、サット (存在)、チット (意識) である以上にアーナンダ (至福) だ。 前者にとっては「神」は何よりも忌み嫌うべき言葉だが、後者の流れの人たちが「神」という言葉を口に出すときに歓喜を表すことに何も不思議はない。当然ながら、〈愛〉そのものである神について、この世界に自分をまさに誕生させてくれた〈唯一者〉について、そう、あなたと私のために消えるその御方について語り始める人々もいる。

正確さよりも簡潔さを重視して、前者を霊的・心理的、後者を霊的・宗教的と呼んでもいいだろう。もちろん、こうした対極のあいだには中間的立場がいろいろとあるし、その隙間を埋めようとする試みもなされている。それでも隔たりは変わらない。

隔たりのどちらにマハルシがいて、どちらにクリシュナムルティがいるかはまったく明白だ。もし無理にせがまれたとしたら、私は認めざるを得ない。みずからの気質 ― 子どもの頃からの強いキリスト教的条件づけと言ってもいいかもしれない ― によって、私自身は〈大いなる隔たり〉の霊的・宗教的な斜面の方にいるということ、そしてその立場を支えるための私の主張は事後的なものだということを。つまり、自分の信じるところを支持する理由を私はいずれにしても直感によって発見し続けているのだ。

とは言っても、幸いなことに話はそれで終わりではない。あなた方と私が、それぞれの気質がどれほど違っていようとも、自分の注意の向きを180度回転させれば、そこでこちら側に見えるものはどちらにとってもまったく同じひとつのもので、そこにはまったくどんな条件もない。なぜこのことはそれほど確かなのだろうか。それは、ここでは、つまり〈隔たり〉の両側の斜面が出会う谷底では、意見を異にできるようなものは何も残されていないからだ。ここにおいては、マハルシのすべての弟子たち、クリシュナムルティのすべての弟子たち、あらゆる先生やそうでない人の弟子たちが、すべての人々を永遠に融合させる本質的な認識を自由に分かち合えるのだ。

そしてついにここで真のエキュメニズム (世界教会主義) が見いだされ、それによって、さまざまな区別をごまかしたり、あいまいにしたりすることなく、癒しがもたらされる。ここで、争い一般の、とりわけ宗教的狂信と狭量さによる争いの、究極の和解が実現する。死に至る病に対するこれほど単純で万能な薬が自分のものになろうとは! 効果的で、無料で、いくらでもあって、私たちの右手よりも重宝な薬が!

さあ、この薬を今すぐ私たちで一緒にとろう。他の人たちを待たなくてもいい。彼らもやがて続くであろうから。

== 訳は以上 ==

「現在の証拠にもとづいて」

 
土曜日にダグラス・ハーディングの実験の集まり (私とは本当に何かを見る会) に初めて参加した。

最近、J. C. Ambercheleの本を毎日のように読んでいるが、彼のどの本でも headlessness (頭がないこと) がテーマになっている。今年出版された Cracked Open という本を読んでいるときに、広げた両手の間に全宇宙があるという言葉に衝撃を受け (ハーディングの本でその言葉は何度も読んでいるはずなのに)、それを確かめたい思いが高まっていた。

5、6年ほど前だったかに自分の頭 (があるとされているところ) を指差す実験を初めてしてみたとき以来、たまに思い出して指差しはしていたけれど、複数の人が必要な実験はひとつもしたことがなかった。

9月に髙木悠鼓さんの別の会に出た際、実験の会が1年ほど休みになると聞いていた。それで、「お休み期間」に入ってしまう前にと、出かけてきた。

で、参加してみて本当によかった。

この日は最近としては例外的に参加者が少なかったということで、しかも僕以外はみなさん初めてではなく、かなりリラックスした親密な雰囲気だった気がする。

ダグラス・ハーディングとの出会いや般若心経について髙木さんの興味深い話を聞かせてもらいながら、いくつかの実験をしたが、「あ!」という瞬間が何度かあった。

自分に性質があるということなどありえないという感じ、境界のない広がり、それは誰かに所属しているものではないという感覚を一瞬とはいえ体感した。

それから、「頭がない」というのを個人的なことがらとしてとらえていたことにも気がついた。愉快な発見だった。(と言っても、途中、あまりのことに動悸が激しくなるほど気が動転したりもした)

あとは、「何かを獲得したり、どこかに到達したりすることはありえない」と非二元の本などでよく言われているけれど、はじめからすべてである自分に何かを足すとか、すべてである自分がどこかに動くということがありえないという直感的な理解もあった。

実験をするときには、「現在の証拠にもとづいて (on present evidence)」と言われる。ハーディングの本や実験動画で接したことのある言葉ではある。でも、実験をしているときに繰り返し言ってもらうと、概念の世界がいったん後退し、実際に目の前にあることだけに集中できる。バイロン・ケイティの「それは本当でしょうか?」という問いにも似た効果があるけれど、概念に手を伸ばすことが自然になくなるという点では相当強力だ。

ジョーイ・ロットが本のなかで「概念抜きで (without concepts)」とか「概念を参考にせずに (without consulting concepts)」とよく言っているけれど、「ピンクの象のことを考えるな」と同じで、そう言われると「自分はどんな概念を抱えているんだろう」と概念に注意が向かってしまったりもする。でも「現在の証拠にもとづいて」と言われると、簡単にそれだけになる。シンプルで美しい。

あと思ったのは、「見ている人」が同じ場にいることの効果。と言うと、なにかトランスミッション(伝授、伝送)的な意味でとらえられかねないが、そうではなく、起こることが何であれそれを信頼している感じ、想定された落としどころに無理に持って行こうとしないオープンな感じがあることで、「現在の証拠にもとづいて」という指示が一層クリアに入ってくる気がした。

ともかく、これまでいろいろなミーティングやリトリートに出てきたが、短い時間で面白い発見が今回のように相次いだというのは初めてのことだった。

髙木さんと、ご一緒した参加者の方たちに感謝。また機会があれば参加してみたい。

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