悟りはすでにある スティーブン・ノーキスト

 
スティーブン・ノーキストの「悟りって何?」(2003年) と「セックスと悟り」 (2007年) に続き、2010年に書かれた文章を和訳して紹介したい。

Already Enlightened

この文章が掲載されているサイト http://www.hauntedpress.net/

== 以下、訳 ==

悟りはすでにある

いまこの瞬間、ありえるすべての真実があなたには100パーセント完璧に見えている。自分には見えていないと思っている人もいるだろうが、どうやっても見るのを避けることはできない。あなたは完全に悟っているし、そうでないことなど絶対にありえない。

世界に存在している何か、あるいは心の中の何かに気づいているそのなんの変哲もない普通の気づきが真実なのだ。気づきのなかに現れているもの、あなたがそれを自分のものにしてしまうより「前」のその現れこそが真実なのだと直接わかること。それが悟りであって、悟りとはそれだけのことだ。

〈究極の現実〉とは、気づきの対象を自分のものにできるようなあなたは存在していないし、これまで一度も存在していなかったということだ。

自己はない。悟りとは、単純に、瞬間瞬間に現れるすべてに気づいている純粋で自己のない気づきのことだ。それは存在しないことの不気味な感覚に、明晰さの直撃が組み合わさったようなものだ。そしてそれは空 (くう) によって感じられている、地上の言葉を超えたゆらめく美なのだ。

あなたはその空であり、これまでもずっとそうだった。悟りがずっとあっただけだ。存在・気づきがあっただけなのだ。

宇宙が無限へと拡がっている今、その空、自分の非存在を感じるといい。人でいっぱいの部屋に入っても、自分自身を見つけられないはずだ。それがわかったとき、自分はもう悟っていると気づくだろう。そしてそのとき、自分にはずっとそれがわかっていたことに気づく。そして、それをわかることができるような自分は一度も存在していなかったことにも気づくだろう。

無知の中にあろうと、認識の中にあろうと、あなたはすでに到着しているのだ。

スティーブン・ノーキスト (2010年)

== 訳は以上 ==

2003年の興奮が伝わってくる文章、それなりに長い文章と比較すると、この2010年の文章のあっさりぶりは際立っている。

なお、ノーキスト氏本人に、最初のふたつの文章の和訳完了について連絡した際、ぜひ日本の人にも彼の著書のサイトのトップページにあるトレーラーを見てほしいと言われた。ここにある。

僕の好みからすると大仰すぎて、逆に本を買う気持ちが萎えてしまう。それに、上の文章の「悟りはすでにある」という文脈とは矛盾だらけの宣伝文句 (これを読めば何かが起こるだろう、的な) も気になる。だが、こういうのが好きな人もいるのかもしれない。

pariさんのメルマガ「アセンション館通信」で「悟りって何?」が取り上げられた。訳に対する過分な評価はありがたく頂戴しつつ横に置いておくとして (と言いつつ本当は横に置くことなどできないのだが 笑) 、響くべきところにはおおいに響くのではないかという予感があっただけに、面白いと思った。

『アセンション館通信』2013/7/21(第485号)

(2014年7月26日追記: 太郎さんという方から、スティーブン・ノーキストの講演動画に日本語字幕を付けたという連絡があった。彼の言うことに関心がある人におすすめしたい。Steven Norquist Speaks at the 2010 SIG )

セックスと悟り スティーブン・ノーキスト

 
2003年の文章「悟りって何?」に続き、スティーブン・ノーキストが2007年に書いたものを訳して紹介したい。

SEX AND ENLIGHTENMENT

これらの文章が掲載されているサイト http://www.hauntedpress.net/

== 以下、訳 ==

セックスと悟り
(TATファウンデーションのために執筆。2007年)

悟りへ向かうための手法としてセックスは効果的で実行可能なものだと熱心に主張する人たちがいる。彼らはタントラの道は至福の道であり、神であることの本質とは恍惚感と至福であって、性的な結びつきは神の二つの極性 (男と女など) がつながってもう一度ひとつになるために与えられた方法なのだと言う。

そうした人たちは、この結びつきが起こったとき、すべての現象を具現化させている創造の力が解放され、この性的エネルギーを注意深くコントロールし表現できれば悟りに至れると強調する。

また一方には、禁欲主義、純潔、清らかさのグループがある。そのグループの人たちは、性的なエネルギーは肉体的な関心から離れるように方向づける必要があり、それを神への愛と献身という高次の目的へと直接向け直さなくてはならないと言う。このエネルギーを利己的で下劣であることも多い単純な肉体的結合に使ってしまうのはエネルギーの浪費であって、たいていそれは人を神から離し、肉体的な満足感と耽溺という暗黒世界へ導くと彼らは主張する。

新聞を少し眺めてみれば、離婚率、成長著しい巨大なポルノ産業、未婚の母の数、性行為で感染する疾患の現状など、禁欲主義グループを支持すべき材料には事欠かない。

個人的には、セックスで悟った人にも、セックスで悟ったと主張している人にも会ったことはない。だがセックスを喜んで受け入れて表現したことで人生を駄目にした人たちなら数えきれないほどいる。

つまり純粋に証拠という観点から言うと、世界の歴史の大部分を考慮すれば、セックスを通じて悟りに達する可能性はきわめて低いと言える。

さて、現実はこうだ。

どちらのグループも完全に間違っている。セックスも禁欲主義も悟りを得るためにはほんの少しも役に立たない。悟りは、何かを得るためのスピリチュアルな探求とは関係ない。何かを得られるような従うべき方法というものはまったく存在していない。

究極の性的絶頂感が人を溶かして純粋で神聖な気づきに変えることはない。そしてそれと同じように、完全に真っ暗な洞窟のなかで飢えと闘いながら禁欲と苦行を貫いても神の光が現れることはないのだ。

最初の生物が出現し、性的結合や禁欲主義について考えるより一兆年も前に、すでに悟りは完璧にあった。理解すべきなのは、悟りはこうしたものに先立つものでありながら、こうしたものと別のものではないということだ。

これまでに語られた最大の嘘は、探求、追求というものがあるということだ。探求も追求も一切ない。あるのは純粋意識だけで、それは完璧な平安と完全性のなかで絶えずあり続けている。

それだけではなく、悟りを追い求めている人も、セックスをする人も、純潔に生きる人も誰も存在していない。自発的に完璧に現れている宇宙が存在しているだけだ。

探求している人たちも、結びつく恋人たちも、純潔に生きるマスターたちも存在していない。

あるのは絶え間ない完璧さだけだ。そこにはマインドも個性も魂もない。

悟りを求めている人は、黙って、よく冷えたジンのグラスを手にとって、静かに座り、ジンを飲むだけでいいのだ。

悟りはすでにある。悟りはあるだけだ。

求めてはいけない。掴んではいけない。

船から海に落ちて命綱が投げられたら、ただこう言うといい。「ありがとう。でもいいです」

この行動だけで、純潔と飢えによっても素晴らしいセックスによっても不可能だったところまで、悟りに近づく。

だがこの行為すら、行為ではないのだ。

思い出してほしい。行為している人はいないし、行為できるような人は存在していない。世界には多くの活動があるが、そこには行為者はいないのだ。あるのは宇宙だけで、それが自然発生的にやみくもに生命なしで完璧に現れている。これに早く気づいた人ほど、洞窟や売春宿にさっさと戻れる。

注意して聞いてほしい。このことをわかってほしいからだ。宇宙を経験している人間はひとりも存在していない。存在している宇宙という経験があるだけで、経験する者はどこにもいないのだ。

意識とは何かに気づいているということではない。意識とは純粋な存在だ。私たちが宇宙と呼んでいる現れは意識であり、それだけが存在なのだ。

現れと意識はひとつのもので、同じものだ。

存在と意識はひとつのもので、同じものだ。

これを日々の生活の現実として感じ、知ることが、いわゆる悟りだ。

悟りとはそういうことで、それ以外には何もない。

悟りとは、なかったことが一度もないものを感じ、知ることだ。

存在している人はひとりもいないし、存在したことがある人もひとりもいない。そして、自分がこれを知らなかったことはないということを誰もがずっと知っていたのだ。

だから、セックスを選んでもいいし、拒んでもいい。どの立場をとってもそれは悟りとはまったく関係ないし、これまでも関係したことは一度もない。

なにかの道に従いたければ、そうすればいい。そして楽しむのだ。

だが一瞬たりとも忘れてはいけない。存在しているのは、そしてこれまでに存在してきたのは宇宙だけで、それが永遠に一つしかないという孤独のなかで生命なく完璧に現れているということを。

== 訳は以上 ==

この文章では、なんとなくテーマがあちこちへ行ってしまっている感じが多少ある。

次は2010年の文章を訳したい。

(2014年7月26日追記: 太郎さんという方から、スティーブン・ノーキストの講演動画に日本語字幕を付けたという連絡があった。彼の言うことに関心がある人におすすめしたい。Steven Norquist Speaks at the 2010 SIG )

悟りって何? スティーブン・ノーキスト

 
いくつかすることがあり、このスティーブン・ノーキストの文章を訳すのは後にしようと思っていたのだが、始めてしまった。ちょっとした長さがあるから2回か3回に分けようと思った。が、最後まで訳してしまった。

人によってはもしかしたら方向感覚を失ってしまうかも、と予感させるような文章だ。ノリが伝わるといいのだが。

WHAT IS ENLIGHTENMENT, NO, I MEAN REALLY, LIKE WHAT IS IT?

この文章が掲載されているサイト http://www.hauntedpress.net/

== 以下、訳 ==

悟りって何? いや、っていうかホントに悟りってどういうこと?
(2003年のオリジナル版)

悟りについて私が経験したこと、理解したことについて何か書いてみたらと、友人や家族から催促されるようになってからしばらく経つ。だが、書こうとは思わなかった。悟り自体が言葉にしづらいものだから、というわけではない。そうではなく、悟ってしまうと人はたいていかなり怠惰になるからだ。

変化が起きる前、私は動きまわっていることが多く、読んだり書いたり音楽を演奏したりスポーツをしたり、とにかく積極的に外に出ていた。でもいわゆる「変化」のあと、そういう活動がどれほど馬鹿げたものか、それから、そういう活動をするためにどれほど途方もない努力が要るかがはっきりとわかった。

だが先走る前に、基本的な事実を明らかにしておこう。私は目覚めている。1年ほど前に目覚めた。自分が何であるか、自分がずっと何であったのか、存在しないことが絶対にありえないものとは何かを、私は知っている。これを悟りとか、究極の真理とか、単一意識とか、無限の精神といった名前で呼ぶ人たちもいるだろう。でもどんな名前をつけたとしても、その名称が目覚めていない人にそれが何かを伝えることはない。それを「変化」と呼ぶことさえ、実際のところは正確とは言えない。というのは、何も変化しなかったからだ。だが逆説的ではあるが、とてつもない変化が起こった。

簡単に言えば、かつて私は自分の人生を生きているスティーブだったが、いまの私は人生を生きているスティーブという経験だ。これは視点の転換だ。この視点の転換が起こる前、私は3年ほどのあいだ、そこそこ熱心に瞑想を続けていた。呼吸の観察、ちょっとしたマントラの繰り返し、ラマナ・マハルシ式の軽いセルフ・インクワイアリー (自己探究) といったことをした。こうしたテクニックに取り組みながら、真実を見出したい、真実を知りたいと私は激しく望んでいた。

悟りに関する本を手当たり次第に読んだ。

そういうことを3年ほど続けた後、いわゆる「非二元」の経験を初めてした。

そのとき私はケン・ウィルバーの『意識のスペクトラム』の中の一節を読んでいたのだが、そこでウィルバーは普通の意識が究極の意識だと述べていた。その部分が私を捉えた。本を置いて、目の前のテーブルに置いてあった紙をじっと見たのだが、1分か2分ほど経ったとき、刺激的で恐ろしいことが起こった。自分が消えたのだ!

どういうことかと言うと、等式から真ん中の部分が消えたのだ。普通ならこちらにスティーブがいて、向こうにある机の上にある紙を見ているものだが、いまや「紙」という経験があるだけで、こちら側で紙を見ているスティーブがいなかった。通常であればスティーブと紙を分けている真ん中の部分が実際は存在していないことは明白だった。「紙」という経験、あるのはそれだけだった。

このことがもっとはっきりと分かるように、例をあげて説明してみよう。

できるだけはっきりと思い描いてほしい。あなたは今までに一度も足を踏み入れたことのない大きな家に入る。あなたは落ち着かず、多少びくびくしている。家具やカーテンはあるが、人の気配はない。

大きな家に独りでいる気味悪さを感じながら、うろうろと歩く。ひと部屋ずつ歩いてまわるが、何が見つかるかは分からない。あなたは不安になり、大きな家に独りでいるのが少し怖くなる。誰もいなくなってからどのくらい経っているのだろうとあなたは考える。

そのうち、家の大きさと空っぽさの感覚が重くのしかかってくる。ついにそれが我慢できなくなった瞬間、ぎょっとするような事実にあなたは気づく。あなたも存在していないのだ! 「家」という経験があるだけなのだ。

これが非二元の感覚であり、存在の本当の真実だ。

「隻手の声」の公案を知っているだろうか?

いま、あなたにはその答えがわかったはずだ。

つまり、悟りによってもたらされるのは、世界では多くの活動が進んでいるものの、そこには行為者がいないという認識だ。

ある意味では宇宙には生命がない。誰も存在していない。起こっていること、そしてその経験があるだけだ。

悟りによって、宇宙は自然に現れることが明らかになる。

宇宙の出現とパターンは、厳密さと調和の点で完璧であり、そこに偶然は微塵も関わっていない。

でたらめなものはひとつもない。すべてがあるべきとおりに現れる。でたらめな偶然もなければ、偶然に基づく進化もない。

宇宙は完全なのだ。

間違ったことは何もないし、ありようもない。

人間の視点からは、偶然や予測できないことがあるように見える。だがそれは、人間の時間枠という基準からは、宇宙は現れてからほんの数分でその寿命を終えるということがわからないからにすぎない。そのことがもし分かったら、すべての出来事が完全で必要であるということだけではなく、予測可能であることさえはっきりと理解できるはずだ。ここまでのところをまとめてみよう。宇宙は完全で、誰も存在していないが、「宇宙」という経験は繰り返されている。

どうしたらそんなことがありえるだろうか?

意識だ。

意識が気づいているのだ。

もし意識が存在していなければ、宇宙は存在できないだろう。存在の本質そのものが、意識の存在を示している。意識も宇宙もお互いの存在なしでは存在できない。

意識が関係していない宇宙は絶対にありえない。意識がないところに、宇宙も次元も存在しえない。物質も形も、意識がなければ生じることはありえない。

宇宙と意識、マインドと物質、波と粒子、それを何と呼んでもいいが、事実はこうだ。現れ、つまり宇宙と私たちが呼んでいる見かけそのものが意識なのだ。

ここで誤解しないでほしい。観察している存在はいない。宇宙を経験している誰かが存在しているということはない。

それだけでなく、宇宙を見守っている〈究極の人〉も〈究極の神〉も〈究極のマインド〉も何も存在していないのだ。存在している宇宙という経験だけがあって、経験する主体はいない。

これは矛盾しているように聞こえるかもしれないが、そんなことは知ったことではない。それが事実なのだ。

経験は「ある」。それだけだ。

それが宇宙のあり方だ。誰にも経験されていない経験。

宇宙は意識から自然に生じる。だが、それと同時に宇宙そのものが意識なのだ。

意識と呼ばれる何かが物質を観察しているという観念を捨てなくてはならない。それは事実ではないのだ。

観照者、つまり一瞬一瞬すべてを見守っている究極の不動の精神について語る先生たちもいる。それは、こっちにいる観照者が向こう側にある宇宙を見守っているという一種の分離を意味している。だが、事実はそうではない。宇宙という経験があるだけなのだ。

見守っている主体は存在していない。

現れが何もないとしても、感覚は変わらない。

もう一度はっきり言っておこう。意識が宇宙に気づいているわけではない。意識は宇宙として気づいているのだ。

この最後の文を誤解してはいけない。こう考えてはいけない。「ああ、そうか、スティーブ。わかったよ。意識は、肉体から離れた魂みたいに宇宙から切り離された視点から宇宙に気づいているわけじゃないってことだろ。そうじゃなくて意識は宇宙に存在している無数の存在のひとつ、たとえば人とか犬とか魚とか、そういう存在のひとつとして気づいているってことだな」

違う! それは間違いだ。

意識は宇宙として気づいている、と私が言っているのは、存在という振る舞いそのものが意識だという意味だ。

ニンジンはそれ自体が意識で、それ自体が気づきだ。それ自体がニンジンであることに気づいているニンジンが存在しているわけではないし、ニンジンという物質から分離した目に見えない意識がニンジンとしてニンジンに気づいているわけでもない。ニンジンという経験があるだけなのだ。それが意識で、それが悟りだ。

見守っている主体は存在していない。

では、このことが人間としての生活にどう当てはまるのかについて話そう。

何が起こっているのかに気づいていない人たちは、自分は個人であって、自分には思考と欲求と希望と夢、身体と家があって、妻と子どもがいると信じている。それ以外にもこうした要素はいろいろあるだろうが、言いたいことはわかるはずだ。

でも真実はこうだ。

上に書いたようなことが起こっているのは確かだが、それは自動機械なのだ。宇宙 / 意識から現れ、偶然が介在しない厳密なパターンに従っている。もっと重要なのは、それをしている人は誰もいないということ、そして今起こっていること、それが宇宙 / 意識だということだ。

もっと分かりやすく言えば、ものごとは起こっているが、それをしている人はいない。現れは生じ、意識は気づいている。

目覚めていない人、何が起こっているかが分かっていない人は、自分が行動していると信じ、そして人間としての「自分」が存在していると信じている。事実は違う。身体は存在し、思考は存在し、記憶は存在し、それが意識で、それがすべてだ。

身体の経験や記憶の経験が人間であるかのように意識が一時的に勘違いしているのだと言う人たちもいる。それは一見もっともな答えのようにも思えるかもしれないが、実際のところ勘違いなどまったくない。

宇宙 / 意識はこれまで一度も混乱したことがない。

人はいつでも脱落することがある。そして物と意識という元の状態に戻るが、意識が実際に何かに覆われていたことは一度もない。

これは私に起こったことだが、それが起こったときに失われたものは何もない。なぜなら何かを失えるような「自分」が存在していたことはないからだ。あったのは、正されるべき混乱状態だけだ。が、そのような混乱状態も存在したことはなかった。

これを知ること、知的な意味ではなく日常生活における直接的な経験として本当にこれを知ること、それが悟りだ。

そして、このことが一度知られると、絶対に戻ることはできない。

一度でもカーテンを引いて、その後ろにいるオズの正体を見破ってしまえば、もういちど隠して真実を知らなかったふりをするのは無理だ。

では知ってしまったら、どうすればいいのだろうか?

経験が何の邪魔もなく現れるのをそのままにするのだ。

こう言われてきた。「宇宙は完全だ。干渉するなら自分の責任で」

悟った人が行動することは絶対にない。これはカルマの謎が解けるということだ。つまりカルマはない。あったこともなければ、そもそもありえない。輪廻はない。どうして輪廻などありえるだろう? 生まれ変われるような誰かがどこにいる? 人はいないし、誕生も死もなく、現れ / 気づき以外には究極的には何もない。

ちまたのスピリチュアルの本と教師の99.999パーセントは完全に間違っている。それはたったひとつの理由のためだ。つまり彼らは悟っていない。何が起こっているのか知らないのだ。

だから、自分が個人として存在しているという幻想、そして物や人が存在しているという観念を維持するために、彼らはストーリーや理論や観念をでっち上げ、特別な服を着て、いくらかの儀式をする。彼らはそういうことを教える。だが真実はきわめて単純で、笑ってしまうほどだ。

さて、はっきりとさせておきたいことが一つある。

神秘体験は悟りではない。

神秘体験をした人もいるだろう。神に会ったり、宇宙人にさらわれたり、天使からメッセージを受け取ったり、自分のガイド的存在と出会ったり、他にもあるかもしれない。だがどんなときも、そしてこれからもずっと、何が起こっていようが、真実はこうだ。経験は、それが神秘的であろうがありふれたものだろうが、それは例外なく宇宙 / 意識の出来事なのだ。

私が世界に一つ教えることがあるとしたら、こうなる。何を経験したとしても、かならずこれを思い出すこと。

「経験している者はいない。見守っている者はいない」

これを長いあいだ、そして何度も繰り返し思い出していると、いつの日か、何が起こっているかが分かるだろう。

その日が来ると、何も変わっていないのに、すべてが変わったことに気づくだろう。それは感覚であり、認識でもある。虚偽が必然的に脱落する。自分は分かったと考えているなら、分かっていない。分かったら、分かる。本当に分かったら、誰もそれをあなたから取り上げることはできない。

明らかにしておく点がいくつかある。悟っている人は決して行動しないというのは、洞窟に座って飢えと体調不良で死んでいくという意味ではない。身体はきわめて活発に動き、あらゆる善行や悪行をするかもしれない。マインドは思考と感情でいっぱいになっているかもしれない。だが、その意識はいまや悟っていて、それをしている人が誰もいないことに気づいている。ただ宇宙が自然発生的に完璧に花開いているだけなのだ。

意識として、あなたは身体の感覚、物理的感覚や感情的な感覚に以前よりも気づいている。そうした感覚を感じるのではなく、気づいているのだ。というのは、感覚と意識のあいだには何の分裂もないからだ。

宇宙と意識は同じものだ。この等式を忘れてはいけない。

U = C (宇宙 = 意識)

それから、個性とかエゴと呼ばれているものが完全に消えることはない。個性もエゴもそのまま身体とともにあり続ける。悟っても、エゴは反応し、他者と交わり、時間とともに変化し、それは普通と同じだ。だが、悟っている人は自分がエゴではないことを知っている。

エゴの破壊だけが解放への唯一の手段だと強調する流派もある。だが実際に必要なのは、自分はエゴではないという認識だけだ。エゴは本当は存在しておらず、ある種の幻想にすぎず、勝手にさせておけばいいという認識だけなのだ。エゴは本当は存在しないが、存在しているように見えるだけだ。でもそれは別にいい。心配は無用だ。エゴが消えはじめたとしたら、それもまたけっこうなことだ。忘れないでほしい。経験する者はいない。

修練について少し話をしよう。瞑想や本の学習は役立つし、人を目覚めに向けて成熟させることもある。だがなによりも重要なのは視点を変えることだ。本当は何が起こっているのかを自分で見ることができるようにならなければいけない。

わかってほしいのは、実際には誰もが悟っているのだが、それに気づく方法を全員が知っているわけではないということだ。それは、悟りがあまりに自然で明白なせいで、人はそれを無視して現れの方に注意を向けるのが生まれたときから習慣になってしまっているからだ。

瞑想をすればマインドを鎮めて集中を増すことができるようになるが、それが悟りをもたらすわけではない。視点の根本的な転換が起こらないといけないのだ。習慣的な気づきの向け方や知覚の方法が変わる必要がある。

本をいくら読んでもそこには至らない。ショックが必要だ。

私が知っているかぎり一番簡単な方法は、悟った人にこの視点の転換へと導いてもらうことだ。私の読んだ本のうち最も優れたものは、読者を納得させ悟りへ導くものだ。

前に書いた大きな家の話のような感覚の実験をするのは、悟りの感覚を喚起する優れた方法だ。

「存在しない」というのはどんな感じかを感じるのだ。

真実を「感じる」とき、真の突破が起こる。

それは気味の悪い感覚だ。喜びに満ちてもいないし、法悦状態でもない。怖くなるはずだし、身体は身構えるはずだ。あるいはもしかしたら、自分がずっとどれだけ間抜けだったかに気づいて笑い出し、抑えられなくなるかもしれない。

これは例の3Dステレオグラムのようなものだ。絵をじっと眺めて、眺めて、ビンゴ! 隠れていた絵が現れる。一度見えると、いつでも簡単に見ることができる。忘れようとしても無理だ。悟りもそれと同じだ。

基本的には、あなたをびっくりさせて実際に何が起きているのかを見えるようにするものであれば、何でもいい。でも理解しておいてほしい。何が本当は起こっているのかを知って、それを感じ、リアリティに触れなければいけない。

時間はかからないだろう。長くても数年、もっと短い人もいるだろう。

10年もしくは20年かかるという方法、あるいはそういうことを薦める先生に出会ったら、別の方法や別の先生を見つけたほうがいい。

忘れないでほしい。あなたは自分の救世主なのだ。究極的には自分を目覚めさせるのは自分だ。びっくり仰天して何が実際には起こっているのかが分かるようになる方法なら何でもいい。だが、視点の転換は必ず起こる必要がある。

悟りと倫理というテーマについて明確にしておきたい。

悟りは慈悲と愛を生むとか、悟った多くの人たちが解脱を見合わせてすべての魂が悟りを開くまで何度でも生まれ変わってくる、つまり菩薩の誓いというものがあるなどと言われてきた。

そういうことは悟りとはまったく関係ない。

悟りは倫理とも誓いとも関係ない。悟りとは真実にただあること、それだけだ。

悟りには何も要求されないし、悟りは何も期待しない。宇宙は現れる。ただそれが悟りなのだ。

幸せになるため、人生に意味付けをするため、至福や恍惚感を感じるために悟りを追い求めるわけではない。

愛国心が悟りであるわけでも、愛が悟りであるわけでも、憎しみも悟りであるわけでもない。

こうしたものが悟りの成果だと考えているとしたら、それは思い違いだ。

そうではなく、こうしたものひとつひとつが悟りそのものなのだ。それらはすべて意識からのそして意識としての自然な現れだ。

行為、感覚、創造、動作、愛、憎しみ、殺人、救済、慈悲、そのそれぞれが悟りそのものだ。

行為者も、経験する者もいない。現れだけがある。

それが真実だ。

これが悟りだ。

わかってほしいのは、突き詰めれば何も変化していないにもかかわらず、人間としての視点から言うと多くの変化が起こるということだ。なぜ変化が起こるかと言えば、何が起こっているかが分かると、人生を突き動かしている主要な動機が脱落しはじめるからだ。

どれくらい脱落するかは人によっておそらく異なるが、自分がどれだけリアリティに消えたいかということに直接比例している。

どういうことかと言えば、悟っているとしても、人間として状況に関わるためにある程度の無意識状態を保とうとすることはありえるという意味だ。時間が経つにつれ、この状態を保ちつづけるのは次第に難しくなっていく。

これは映画を観ているときに疑念を保留するようなものだ。起こっていることの真実性を信じているふりをする。登場人物と共に泣き、共に笑い、共に希望を抱く。そうするのは楽しむため、映画のチケット代の元をとるためだ。

悟ったとき、現実の生活はこれと同じになる。誰も存在していないことを知っている。世界がただの見かけだということ、それが意識からの機械のような現れ、意識としての現れだということに気づいている。だが、あるレベルではそれを信じなくてはならない。さもなければ、世界と関わることがまったくできなくなるだろう。

悟った人たちが社会から離れたり世捨て人になったりする理由がわかる気がする。この1年、私はこの問題と苦闘していた。真実を知りながら、世界が存在していると信じているかのように世界と関わり続けるにはどうしたらいいか?

基本的にはオーウェルの『1984』的な二重思考を用いる必要がある。真実にいつも気づいていながら、気づいていないふりをしなくてはいけないのだ。

当然だが避けられないこともいくらかある。私は読書が大好きだったが、今では本を開くことはめったにない。ギターが大好きで何年も弾き続けてきたが、今ではまったくギターを手にする気にならない。こういう文を書くことでさえ、とんでもない手間だ。

なぜか? 意図的な努力はリアリティとはかけ離れたものだ。実際には意図的なことは何もなく、すべてが自然に起こり、そしてまったく何も起こっていない。

でも誤解しないでほしい。行為はリアリティに反しているから行為を減らさないといけないというルールを自分で決めたわけではない。悟りによって自然に起こったのだ。つまり行為はしだいに少なくなっていき、思考もしだいに少なくなっていく。

これは悟った人における自然な展開だ。やがてあらゆる行為は自然に生じるようになり、人が行為することはなくなる。

当然だが、この表現は本当は真実ではない。それと言うのも、実際のところは行為したことがある人はひとりもいないからだ。だが人間の視点からは、そのように展開しているように見えるというだけだ。

記憶もまた一筋縄ではいかないものだ。自分の人生の記憶はまだあり、意識に入り込んでくることがある。だが時間が経つにつれ、悟りがあなたを溶かしはじめる。そして記憶にアクセスすることが次第に難しくなる。

意識はいま現れている出来事に集中するようになる。これは自然なことだ。それは、実際には現在の出来事だけが存在しているからだ。人もエゴもただ溶けていく。人もエゴも本当は存在していないが、存在しているという幻想はしだいに気づきから消えていく。

思い出せなくなるが、それが気にならない。

ここで禅の呼吸の観察について一言。

これがわかっている人はほとんどいないし、生徒がわかりやすいように教えている禅の流派もほとんどない。禅の瞑想についての本はたくさんあるし、絹の服、クッション、鐘、香、ほかにも呼吸の観察に役立ついろいろなものを並べたカタログも多い。でも、そうしたものを手に入れて、やっと床に座り、目を閉じて自分の呼吸を見守るとき、あなたは一体何をしているのだろうか? なぜそんなことをしているのだろう? 私はいつもそう尋ねて、相手をイライラさせている。

「なぜ瞑想するのか? 何を成し遂げようとしているのか? なぜ呼吸を見守っているのか?」 この問いに正解した人には一度も会ったことがない。

答えが分からないのは、彼らが悟っていないからだ。悟っていれば、瞑想などすっかりやめてしまうこともあるかもしれない。続けるかもしれない。どちらにしても違いはない。

いいだろうか。瞑想する人のほとんどが見逃している単純な真実はこうだ。座って自分の呼吸を見守っているという行為そのものが悟りなのだ。それだけだ。あなたは何かを得るために何かをしているのではない。ただそこに座っているのが悟りなのだ。

あの心が落ち着いた静寂の状態、それが悟りだ。そして向こうから聞こえてきて瞑想の邪魔をする噂話、それが悟りだ。通勤時間帯の道路であなたに向けて指を立てたあの男、それが悟りだ。

行為する者も、経験する者も、行動できる誰かもいない。

現れが現れ、そこには行為がなく、マインドもない。ただそれが悟りなのだ。

今日、人々は瞑想するが、それは瞑想が人気だからだ。あるいは神秘的な経験を求めているのかもしれないし、ただリラックスすることを求めているのかもしれない。普通の人たちにとっては、後者の理由がもっともあたりまえのものだろう。だが私の知るかぎり、意図的に行動のない行動をするため、あるいは存在の偽の感覚を解消して存在のない存在になるために瞑想しているという人はいなかった。瞑想する人は多いが、その大半が驚愕するのではないだろうか。もし私が彼らに、道路で指を立ててきた男はあなたよりも悟っているんですよと伝えたら。

ここで言おうとしているのは、そして言おうとしてきたのは、悟りはあまりに自然で簡単なせいで、悟りに意図的に向かおうと試みることによって、かえってそこから離れてしまうということだ。だが逆説的なことに、あなたは悟っていなかったことは一度もないし、悟りに向かってどれだけ不自然で意図的な努力をしたとしても、あなたは決して行為したことがないのだ!

締めくくりになるが、悟りは語ることもできるし、理解することもできるし、神秘的ではないし、秘密の「女人禁制」の会の内部だけの言葉で覆い隠す必要もない。

悟りとは、あなたを含めて誰も存在していないという感覚と理解、起こることはすべて自然に完璧に起こっているという感覚と理解のことだ。

悟りとは、存在しているものは宇宙 / 意識だという感覚と理解だ。

宇宙と意識は同じものだ。

U = C (宇宙 = 意識)

存在はそれ自体が意識であり、それが、何も存在していないわけではなく、何かが存在している理由だ。これがものごとの本当の状態だ。そしてそれはとても自然で、とても単純で、とても明白であるせいで、私たちは絶えずそれを見逃している。

== 訳は以上 ==

この2003年の文章のあと、2007年と2010年の文章が公開されているのだが、これとはちょっと毛色が違って面白い。

(2014年7月26日追記: 太郎さんという方から、スティーブン・ノーキストの講演動画に日本語字幕を付けたという連絡があった。関心がある人におすすめしたい。Steven Norquist Speaks at the 2010 SIG )