ジョーン・トリフソンの翻訳記事一覧

 
あることのシンプルさ 1 / 2 / 3 / 4 / 5

何もつかめない

依存症について 1 / 2 / 3 / 4 / 5 / 6

自由意志はあるか

気づきのシンプルさ

死と不死

ハッピーエンドという幻想

ジョーン・トリフソンのインタビュー 2004年 1 / 2 / 3

今を探究する 1 / 2

マインドと物質

悟りとは 1 / 2 / 3

信念をこえて

身体

真実とは何か?

止まるということ

いろいろな道

複雑さと単純さ

望みなし – トークと対話 1 / 2 / 3 / 4

意図をもたずに聴く ― 方法を超えた気づき

気づきとその内容

何が残る?

死の恐怖

道元のこと

先生は必要か

疑いえないこと

屈辱

 

屈辱 ジョーン・トリフソン

 
昼間に非二元の書籍を訳している反動で、夜になるとエッセイや文学が読みたくなる。特に秋風が涼しくなってきた近頃は、ベッドに寝転がって虫の声をBGMに本を読むのがすごく幸せな時間だ。

最近とても面白かったのが村上春樹と河合隼雄の対談本で (読むのはたぶん二度目)、後半のどこかのページを読んでいたとき、何だかわからないものすごい解放感と不可思議さと「これだ!」という感覚が一瞬やってきた。

感覚だから1秒で去っていったけれど、それはたしか10代後半にも何度か起こったことだった。高3の夏に知床のキャンプ場で『共同幻想論』を読んでいたとき、それから大学1年のときにネパールの山の村で『共産主義の系譜』を読んでいたときにも、それは来た。何かがパッと開く。耳の中の水が抜けたような、存在にも気づいていなかった塊が崩れたような快感。

そのいずれもがまったく予期しないときに起こり、そしてその箇所を読み返してみても、何がどうその原因になったのか全然わからない。

そのミニ版が昨晩も起こったのだが、それはジョーン・トリフソンのBare-Bones Meditationの最後の数ページを読んでいたときで、読み返してみても、やはり「これの何が?」という気がする。

でもそのことは関係なく (関係ないのかよ!) 、印象的だったから1ページ半ほどのその文章を訳してみたい。p.236の終わりからp.238のはじめ。

なおこれは、ジョーンがいくつかの出版社に送っていたこの本の原稿が、正式に本になることが決まって、ジョーンが浮かれると同時に不安にも襲われてアップダウンが大変で、という話の続きとして出てくる部分。

== 以下、訳 ==

私は失敗には馴染んできたものの、成功には不慣れだ。まったく新しいテープの音声が流れはじめ、まったく未体験の課題がやって来て、そしてこれまでにない屈辱を受ける可能性が出現する。ユベール・ブノワの本の一節、読んだときに心を打たれたその一節がよみがえる。ブノワは、否定的な心理状態はそのすべてが根本的には屈辱であり、屈辱は目覚めへの入り口だと言う。

屈辱は、ブノワいわく、自分の無力さを見ようとしないところから生まれ、全体性から切り離されながらどうにかして勝利を手にしようと奮闘している「自分」の像にしがみつくことから生まれる。真のグルとは「今あるままの現実、我々の日常生活」であって、それは必ず私たちの野心を打ち砕き、コントロールの不可能さを明らかにする、とブノワは主張しつづける。素晴らしく成功した本もいつかは塵になり、その作者も消えてしまう。そしてその過程では、こんな本は紙の無駄であって、これを書いた奴は薄ら馬鹿だという考えの人たちに、作者はどこに行っても出会うことになるだろう。ブノワは指摘する。私たちが意図的におこなうスピリチュアルな「行為」は目覚めを妨げることが多く、それはそうした行為のすべてが直接的にせよ間接的にせよ「高い場所」を目指している一方、実際には目覚めは「下」に、私たちが半狂乱になって逃れようとしてきた最低の敗北をついに完全に経験しきるところにあるからなのだと。この絶対的な敗北こそ、架空の制限のすべて、架空の束縛のすべての終わりであり、架空の救済のすべて、救済されるべき誰かがいるという思い込みのすべての終わりだ。

ここで絶対に理解しておかなくてはならないのは、謙虚さは身につけられるような外見でも練習できるようなメソッドでもないということだ。「もしそのことを理解していなかったら、」とブノワは言う。「私は屈辱を役立てるかわりに屈辱を避けることになるだろう」。エゴが膨張したりプライドがくすぐられたりする状況に置かれるのを単純に控えることは、実際には自分の安全とイメージを守っているにすぎない偽の謙虚さを育てようとする試みにほかならず、それは真の空っぽさとはまったく何の関係もない。真の謙虚さは、火に飛び込むこと、生がもたらす大火災を十全に経験しきることから生まれる。目覚めとは、よくなろうとする希望を全部捨てること、何かもっと良いものを手にしたいという必要を全部捨てることだ。目覚めとは、いま完全にここにじかにあるということであって、今あるそのままのものから逃げないことだ。想像上の成果を目指すメソッドとしてではなく、一瞬一瞬の可能性として。

私たちはグル、理想の状態、悟り、もっと良い人生、もっと完璧な自分を求める。私たちは分析し、考え、ついに完全に「わかる」こと、答えを知ること、正しい方向に導く行動をすることを目指して必死になる。そして最後には ― 眠りの中で、死の中で、目覚めることの中で ― そのすべては静寂に溶けて消える。

== 訳は以上 ==

と、今気がついた。「ジョーンの本は非二元の本じゃないの? 反動とか言いながら夜も読んでるじゃん」と。

でも、Bare-Bones Meditationはたぶん違う。テーマはもちろん非二元や目覚めだけれど、教えの本ではない。教えの逆な気がする。苦しみの吐露であり、駄目さの自覚の連続。だから、寝る前でも疲れずに毎日読めた。

ジョーン・トリフソン『つかめないもの』発売日

 
本の告知です。

翻訳を担当させてもらった『つかめないもの』(ジョーン・トリフソン著、原題Nothing To Grasp) の発売日が2015年7月9日に決まったようで、すでにAmazonでは予約が始まっている(ここ)。

見本が昨日手元に届き、初めて現物を見たけれど、「つかめない」という主題にぴったり合ったカバーデザインで、すごくいい。

つかんでますが・・・

これの原書は2012年に出版されたジョーンの4作目で、彼女の伝えていることのエッセンスという感じのもの。以下は目次。

===

はじめに / 生 / これがそれだ! / 想像上の問題 / 本来の面目 / それで全部? / 何が自分の目から見ているのか? / 自己がないということ / 身体は実在するか? 私は身体か? / 人生を個人的に受け取らないとは? / これは何なのだろう? / 無から何かを作らないこと、無を何かにしないこと / 一でもなく、二でもなく / 何をすべきか? / 選択できるか、できないか / 気づき / すべきことはあるのか? / コントロールと明け渡し / 流れ― 吸うこと、吐くこと / まったく今のままで本当に完璧だとしたら? / 〈ここ・今〉への道なき道 / どこにも行かない技術 / 探究「それは何なのか?」 / 想像上の虎と向き合う / 私はもう悟っているんだろうか? / いろいろな帰り道 / 今あるものという単純さ / わかった瞬間、もう終わり! / 謝辞 / 訳者あとがき / 著者紹介

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このブログでは、頼まれもしないのにいろんな人の文章を訳して紹介してきたが、反響という意味では、これまでのところジョーン・トリフソンとジョーイ・ロットが圧倒的だ。ジョーンの文章 (まとめはココ。彼女の本を買う必要がないくらい沢山訳した) は、彼女が「迷妄」と呼ぶものに気がつかないうちにひっかかっている状態にじんわり効くのかな、という印象を持っている。

ただ、キャッチーな要素は何もなく、派手な覚醒のストーリーもなく、アジャシャンティやガンガジのようなわかりやすいスター性もない。すぐに取り組めるテクニックを教えてくれるわけでもない。海外のミーティング等で出会った人から「どの著者が好き?」と訊かれて、「ジョーン・トリフソンかな」と言うと、必ず「それ誰?」と返されるくらい一般的には知られていない人だ。

そう考えると、どんな人が手に取ってくれるのか、正直なところあまり想像がつかない。それに、ここ数年はこの分野の翻訳書の出版ラッシュのようになっているから、どんな本も簡単に埋もれてしまう。それでも届くところに届くといいなあと思う。

あと、本の帯には「読んでいるといつのまにかノンデュアリティ(非二元)がわかる本」とあるけど、僕にとっては「読んでいるといつのまにかノンデュアリティ(非二元)がわからなくてもよくなる本」と言ったほうが近い。

おまけ。下のは、20年以上前にジョーンが当時の師 (とは言ってないけど) のトニ・パッカーをインタビューしている動画 (右側がジョーン)。当然ながら今よりも若くて、どこかに固さ、神経質さも感じられる。


 
これと比べると、最近の様子 (2012年のConscious.tvのこれとか) はかなりリラックス感が目立つ。

(7月9日追記: ミナトさんからとても嬉しい推薦の言葉をもらいました。こちら)