ジョン・シャーマンの翻訳記事一覧

 
自分自身を見るには

あるメソッドの紹介 (直接見るメソッド)

幼少時記憶メソッド

恐れよさらば、不安よさらば 1 / 2 / 3

生に対する恐れ 1 / 2 / 3

回復期の困難の軽減

よくある質問

一度だけで十分

ジョン・シャーマンのワークは何が違うのか

見ることはスピリチュアルか?

ジョン・シャーマンのストーリー

ジョン・シャーマンについて

心について
 

ジョン・シャーマンとダグラス・ハーディング

 
マサさんという方から、

「ジョン・シャーマンの自分を見るということとダグラス・ハーディングの顔を指差すということはかなり似ていると思ったのですがヒロさんはどう思われますか?」

というコメントがあった。

荒川良々とハライチの澤部は似ているのかどうなのか、という疑問と同じで、正解がなさそうな問いだ。並べてみれば意外と似てなかった、と思うかもしれないし、やっぱり似てるなあと思うかもしれない。見る人の数だけ見解がある。

ただこの、見る人の数だけ見解がある、という点が、まさにジョン・シャーマンとダグラス・ハーディングの方法の共通点なのではないかと思う。

ふたつの方法では、自分で見るということが徹底されていて、外部の権威は完全に排除される。想定された正解はないし、そのときに見えることが見えるだけだ。民主主義、主権在民などとSEALDsばりのスローガンが頭に浮かぶが (あのどこか苛立たしいリズムと一緒に) 、本当にそうで、そこで見えるのは絶対に他の人には見ることができないものだ。

別の言い方をすれば、本来はすべてのものが今の自分にしか見えていないのに (他人は別のものを見ているはずというのは完全なる想像)、どこか他に自分の知らない正解、自分に見えていない真実があるのではないかと思ってしまうという異常事態 (錯誤と言ってもいい) を正常化するのがジョン・シャーマンのメソッドであり、ダグラス・ハーディングの実験だと思う。そこは共通している。

じつは、僕はジョン・シャーマンの「生に対する恐れ」という概念には相変わらずピンと来ていなくて、むしろ、「単純だけれども大きな見落とし」というのがキーワードなのではないかと感じている。

何を見落としているかと言えば、主体だ。対象だけに没頭してしまって、主体のことがすっかり抜け落ちている。ネイサン・ギルが繰り返し言う、「気づいているということと気づかれている内容、その気づきの方が意識されていない」ということと同じだ。

気づいていることに気づく、とはよく言われることだけれど、それをややこしい瞑想や修行にせずに、単純に自分自身を見るという1行&1分で終わる方法にしたのがジョン・シャーマンのすごいところだと僕は思う。

自分は対象ではなく主体だ、身体というモノではなくモノを見ている側なのだ、というのを自分自身でたしかめることによって、錯誤の上に築かれていたものが一気に、もしくは徐々に崩れる。そして「正気」になったあと、新しい土台が出現する。

この見落としや錯誤の正常化について言うと、ダグラス・ハーディングの実験は、たぶんだが、それ以上のことをしている。見落としていたものを見るだけではなく、その見落としていた主体とずっと見ていたさまざまな対象は同じものだった、さらにそれはものではなかった、そういうこともわかる。(ただしそれは、すでにそうなっていることをただ見ることだから、正常化も何も、いっさい何もしていないという言い方もできる)

ただ、人によっては、このあくまでも具体的なハーディングの実験を抽象的なものとしてとらえて、見ているものを見ないという事態も起こりえる気がする。

それに対して、ジョンのメソッドで指示されるのは、「自分が自分だというその感じを見る」といったきわめて単純なことであるため、そのメソッドや実験をどうとらえるかという態度的な要素が介在する余地はあまりないのかな、と思う。

で、ふたつのメソッドで同じものを見ているのかどうか、という点はよくわからない。

ただ、ハーディングの実験の場合にはいつも同じものが見えるはずだが、ジョンのメソッドの場合は、錯誤状態でおこなう最初のときに見えるものと、メソッド実行後に繰り返したときに見えるものはだいぶ違うのではないか、ということは感じる。だから、方向としてはこちら側を見るという点では共通しているけれども、見ているものはちょっと違うのではないかなという気はする。

それから、ダイレクトパスの本をいま訳しているせいで頭に浮かんだのだが、ダイレクトパスも「民主的」という意味では、このふたつのやり方とけっこう共通している。何かを変えることで、あるいは他から何かを教わることで何かを得るのではなく、今どうなっているのか、ということをただ見る。それによって、「ただ見る」ことがいかにできていないかを知り、それを知ることによって何かが正常化する。

ただし、ダイレクトパスの場合、成功率はわりと低いのかなあというのが僕がこれまでいろいろ見ていた中での感想だ。

ダイレクトパスは置いておくとしても、ジョン・シャーマンのメソッドをやってみて以来、ダグラス・ハーディングの方法への関心が再燃したのは事実で、どこかが関係しているからなのかなあという気はしている。

それと、どれかひとつを選ぶという話でもないんだろうとは思う。

マサさん、いま思いついたのはこんなところですが、いかがでしょうか?

追記: ジョン・シャーマンのメソッドについてミナトさんが解説されている記事もすごく参考になるはず。(ジョン・シャーマンのメソッドについてのご質問)

ジョン・シャーマンのメソッドその後

 
ジョン・シャーマンの「自分自身を見る」をやってみてからしばらくの間、感じたこと、考えたことをいろいろとメモしていた。何かがわかったような気がして、それをどうにか言葉で残そうとした。

二ヶ月くらいのあいだに何度か書いていたのだが、そのメモの存在を昨日ふと思い出し、読んでみた。それは、まったく外している言葉の羅列だった。抽象ではないものを抽象にしようとする虚しい試み。

「はい、自分の体を両手で持ち上げてみてくださいー!」

「無理です!」

「つぎは、はい、自分の目を目で見てみましょう!」

「無理だって!」

「はい、じゃあ、つぎは自分がいま動いているその動きを動きで表現してみましょうねー!」

「え、こうやって、こう、って無理!!」

ジョンは、メソッドを薬にたとえる。抗生物質を飲むと、それが作用する仕組みは知らなくても、効果はちゃんとある。それと、見事に効くせいで、病気だったことすらさっさと忘れてしまう。

たぶんそんなことが起こっているようで、見ることに対する関心もほとんど消えかけている。もともと自分でメソッドをやってみたときから、これを他の人に紹介したいという思いはほとんど出なかったのだが、それが今では完全にない。どうでもいい感じ。何かが起こらなくてはいけないという嘘が嘘すぎて話にならない。

ジョンの書いた文章で訳そうかなと思ったものがまだいくつかあって、途中までやりかけたのだが、たぶん放置になりそうだ。

自分自身を見ることをしてみた人たちのシェア会をやったら面白いかな、などと先月くらいまで考えていた気もするけれど、それも今では「う〜ん」という感じで面倒くささが先に立つ。(回遊魚シーズンに入って釣りのことで頭がいっぱいになっている影響もあるかも)

メソッドについて最近メールをくれた方も、メソッド自体に対する関心はたぶんなくなるだろう、と書いていた。探求関連の本を全部さっぱり捨てるという、見かけ上はけっこう劇的な変化が生まれたにもかかわらず。

ディスカッションフォーラムでも同じ傾向について書かれていた気がする。メソッド実行直後はわりと興奮気味に投稿する人たちも、たいてい数週間で消えていなくなる。だから、ジョンのNPOに一度は寄付をしたとしても、その後も寄付を続ける人が少ないのも無理はない、と。

そんなことで、何がどうなったのか、何がどうもなっていないのか、その辺を整理したいというような抽象的な関心は消えてしまって、何事もなかったかのように進む日々だ。というか、何事もなかったのだろう。