伝わることの奇跡

 
ちょっと前に、NHKで松岡正剛とコムアイの対談を見た。いかにもNHKの文化担当が好みそうな人選だなあと思いながら (「何かがありそう」感があるとすぐにひっかかる) 、なかなか面白かった。

コムアイにしか開けない松岡正剛の鍵が少し開かれたような感覚。その逆方向の動きもあったのかもしれない。松岡が春日八郎の話を出したときに、コムアイが全然知ったかぶりをしないのも楽しかった。松岡は「知らないのか」と少し残念そうだったが。

それで思い出すのは、ルパート・スパイラのリトリートでプレミアリーグの話になったときのことだ。食事中だったかミーティング中だったか今では記憶が曖昧だが、プレミアリーグの選手の超越的な動きについてルパートがコメントしたときに、そこに居合わせた人たちの中にそれを理解する人はいなかった。誰かが何か別のプロスポーツを例示して、同じように素晴らしいと言うと、ルパートは首を振って「全然違う。あの素晴らしさはわかる人にしかわからない」と半分冗談、半分本気で言っていた。

味わいを共有したいという願いが満たされないことがある。

コムアイの対談を見たあと、今度はNHKのプロフェッショナルで、知床でヒグマを追い続ける久保さんという猟師の話を見た。40年以上も猟師をしているというが、ヒグマは自分にとってどういう存在か、という質問をされたときの表情が強く印象に残った。

言葉で一応の答えはしていたが、それとは違う何かがその表情には表れていたように思った。それも、容易には共有できないものなのだろう。というか、絶対に共有できない。

昨日、ジャン・クラインのI AMの邦訳『われ在り』を送ってもらって (また役得)、パラパラと眺めていたのだが、ジャンは何を共有しようとしていたのだろう、と思った。それはこの字面から伝わるものではなかったのかもしれない。

ページ上の文字の連なりにハッとすることはたしかにある。最近もズンデルのある本を読んでいてふいに恍惚感が押し寄せてきて驚いたことがあった。でもそれは、文字が運んできたものだったのかどうか。福岡の修道女の方たちが訳されたその本は、文字ではない何かを伝えていた。そうも考えられる。

I AMは、1981年に出版されたNeither This Nor That I Amというジャン・クラインの対話集を編集し直した本なのだが、まったく違う本になっている。ジャン本人も含めて「改善された」と書いているのだが、どうしてもそうは思えない。何かが失われている。こんなことを書いたら怒られるだろうが、今度の日本語の本に至ってはほとんど別物で、数行ごとに立ち止まらせて沈潜させる何か、元の本にはあったその独特のエネルギーが失われている。

以前、ルパートの本の日本語版が出ることになったとき、本人から「お前は訳せないのか」と訊かれたことがあったのだが、ルパートの言葉から溢れる美を日本語に移す力も自信もまったくなく、すぐにお断りした。

それから、J・C・アンバーシェルの本についても、すごく好きだから訳してみたいという気持ちはある。でも、あれは無理だ、という確信もある。本の7割くらいはいけそうな気もするが、残りはまず無理だ。味わいが失われる。別の意味で変な味付けをして翻訳物として一応成立させるということはできるのかもしれないが、そんなことはしたくない。

ルパートも、プレミアリーグの一件ではすぐに黙って、それ以上説明しようとはしなかった。知床の久保さんの場合も、優しい人だから問いに対して何かの言葉は発していたが、言葉では伝わらないという諦めがあるのは明らかなように思えた。

共有するとはどういうことなのだろう。

ところで、ジャン・クラインはアドヴァイタのマスターとして紹介されることが多く、リアリティの本質をインドで認識したこともあって、インド発の系譜が強調されがちだ。でも、彼の何冊かの本を読んでいて感じたのは、必ずしもそこにこだわる必要はないということだ。スーフィーやキリスト教の伝統にも親しんでいたようで (「親しむ」では言葉として足りないが)、定期誌 Listeningではその関係の文章も多く見られる。ミーティングの対話ではそういった質問が出なかったために語らなかったのだろうと推測できるが、それもまた対話の面白さであり、対話の限界だ。

ジャンのその関係の表現に関心がある人には、Listening 10号分を全部まとめた The Book of Listeningをすすめたい。

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ジャン・クラインのインタビュー
 

ジャン・クラインのインタビュー (4)

 
その3からの続き。これが最後。

== 以下、訳 ==

Q. 静寂と沈黙について聞かせていただきたいと思います。静寂と沈黙はスピリチュアルな生活の目標なのでしょうか。

A. 静寂と沈黙と言っていますが、誰かが静かになるわけでも、誰かが黙っているわけでもありません。ただ、静寂と沈黙です。この静寂はどのような人もどのようなものも参照していません。

Q. ということは、この静寂の中では行動も起こるのでしょうか。

A. はい。静寂というのはドアの蝶番のようなものです。身体はドアで、絶えず開いたり閉まったりしていますが、静寂が動くことは決してありません。

Q. T・S・エリオットはそのことを「回転する世界の静止点」と表現しました。修行に何も目標がないとしたら、まあ実際は修行すら起こっていないわけですが、スピリチュアルな生き方は一体何を目指しているのでしょうか。当然ほとんどの人たちは、私は悟っていません、解放されていませんと言うのでしょうが、そのために、今いるのとは違う場所に行かなくてはならないと感じます。そうすると、ある種のスピリチュアルな人生を送る必要があるように思えるのです。どのように考えればいいでしょうか。

A. 私に言えるのは、意識はしていないものの、私たちは根本的な自分によって絶えず誘われているということです。ですけれども私たちは勘違いをして、私たちを誘っているその感覚は、客観的な何か、あるいは努力や修行を通じて得ることができる状態や相対的な心の静けさなのだと思ってしまいがちです。私たちが追いかけるそういった状態は、真の静寂の代用品のようなものです。内なる要請に本当に誘われて、それに向き合い、そこを訪ねると、その瞬間にそこに持って行かれます。ただ一般的には、人々が探し求めているのは代用品です。

Q. あなたの言われているこのプロセスは、私たちが通常何かをするときのやり方とはかなり違いますね。普通であれば私たちはまず自分が何に向かっているかについて考えて、それから動く方向を決め、目的地に到着するために意志を用います。

A. そうですが、すべてのおこないにはある動機があります。その動機とは、自由になることだと私は思います。自分自身から自由になること、あらゆる葛藤から自由になることです。

Q. ということは、動機は良いものであるのに、していることが少し見当違いなのですね。

A. 観察の技術に熟練してくると、観察しているのは自分ではないということにまず気づきます。そして、自分が観察しているのではないということがわかると、すぐにプロセスから抜けます。ある瞬間、ある種の洞察が起こりますが、そこで自分があらゆる意志の作用から自由であること、あらゆる概念作用から自由であることがわかると、この満ち満ちたものの中で、この思考を超えた瞬間の中で、自分自身を感じるかもしれません。主に観察と注意を通じて、自分とは根本的には何であるのかを感じるようになります。

Q. 解放とはどのようなことなのでしょうか。

A. 簡潔にお答えしましょう。自分自身から自由であること、これが自分だと信じているイメージから自由であることです。それが解放です。自分はどのようなものでもないということを見て、この無に完全に調和しながら生きることは相当大きな爆発です。私の教えているボディアプローチは、言ってみれば美しい口実です。というのも、ある意味では身体は調律する必要のある楽器のようなものだからです。

Q. 私たち自身の無という曲を奏でるために調律するわけですね。

A. そのとおりです。解放とは、自分の不在という美の中で自由に生きることを意味します。ある瞬間に、見られているものも見ている者も存在していないことに気づきます。そしてそれを生きるのです。

Q. それが、あなたの言われている「心理的記憶なしに生きる」ということでしょうか。

A. まったくそのとおりです。

Q. この完全に開かれた状態で、そして自分自身のアイデンティティから自由になった状態で、すべきことをしながらこの世界で生きていくこと、家族を養いながら忙しい生活を送るといったことは本当に可能なのでしょうか。

A. ええ。自分は父親、母親であるとか、パートナー、夫であるといったイメージを抱えることなく家庭生活を完璧に送ることは可能です。子どもたちに対して自分とはどのようなものでもないのだということをしっかりと教えながら、親としてではなく友人として、愛のある関係を持つことができます。

Q. ヴィパッサナー瞑想を教えている人がいて、その人は臨床心理士でもあるのですが、こんなことを書いていました。「誰でもなくなる前に、誰かでなければならない」、つまり多くの人たち、現代の西洋では特にそうですが、機能不全の家庭で育てられた人たちは、多くの場合、非常に深刻な心理的問題、自己肯定感の根本的な欠如や、普通の意味での自己定義における葛藤や不確かさの感覚といったものを抱えていて、誰でもなくなる道を歩み始める前に、まずは心理的、感情的な強さを鍛える必要があるという意味の言葉です。究極的には私たちにアイデンティティはなく、私たちはどのようなものでもなく、この無の中で生きているのだとあなたが語るのを聞いて、振り向いて、「ああ、そうだよ、知ってるよ」と言うような人たちもいます。そういう人たちが言っているのは内側の空虚さ、自分自身が欠落した感覚や喪失の感覚のことであり、これは一種の病気です。誰でもなくなる前に誰かにならなければならないという点については、同意されますか。

A. まず見なくてはならないのは、自分がどのように機能しているかということです。そして、誰かとして、一人の人間として機能していることに気づきます。絶えず選択の中で生きています。これは好きだ、これは嫌いだといった心理構造の中に入り込んで生きていて、それは悲しみをもたらします。そのことを見なければなりません。自分の人格と一体化していれば、それは自分の記憶と自分を同一視していることになりますが、それは人格とはすなわち記憶だからです。私はそれを心理的記憶と呼んでいます。このことがわかり、この自然な明け渡しが起こると、人格は消え去ります。そしてこの無の中で生きていると、まったく違う何かが生じてきます。自分の人格の投影というところから生を見るかわりに、ものごとがあるがままに事実として自分の人生の中に現れてきます。そして、そういった現れは自然にそれ自体の分解をもたらします。人格とも心理的記憶とも一体化することがなくなりますが、機能的な記憶は残ります。そしてそのかわりに、宇宙的人格、超越的人格が、必要に応じて現れたり消えていったりします。あなたは現れる状況にしたがって反応する、ひとつの流れにすぎなくなります。

== 訳は以上 ==

ジャン・クラインのインタビュー (3)

 
その2からの続き。

== 以下、訳 ==

Q. あなたの教えているヨガ、「ボディワーク」と呼ばれているものですが、それについて聞かせてください。どのようなもので、どのようなかたちで教えられているのでしょうか。

A. あなたは身体でも感覚でもマインドでもありません。身体、感覚、マインドは、時間を超えたあなたの気づきの表現です。けれども、自分はどのようなものでもないということを完全に理解するためには、自分ではないものをまず見なければなりません。身体とは何かを知らずに「私は身体ではない」と言うことはできないのです。ですから、問い、調べ、見て、聞きます。そして発見するのは、自分が知っているのは身体の特定の部分、特定の感覚だけだったということです。そうしたものは、言ってみれば反応、抵抗です。そのうちに、これまでに一度も経験したことがないような身体感覚に出会うことになりますが、それは、耳を傾けているとそういった感覚が姿を現し、微細身、エネルギー体が現れるからです。エネルギー体を感じ、接することは何よりも重要です。なぜならば、最初の段階では身体はほとんどマインド内のパターン、あるいは皮相的な構造体のようなもので、反応や抵抗から作られているからです。それでも身体に本当に耳を傾けていると、あなたはそういった反応の共犯者ではなくなって、身体はその本来の感覚になるわけですが、それは空(くう)です。本来の状態にある真の身体とは空、つまり完全にからっぽの状態です。そうなったとき、伸縮自在の身体の姿を感じますが、それがエネルギー体です。「ボディワーク」について言えば、このエネルギー体を見つけ出すのがその主な目的になっています。エネルギー体を一度でも経験すると、物質的身体はまったく違ったかたちで動き出します。筋肉構造、皮膚、肉は完全に新しい感じられ方、見られ方をすることになります。筋肉や骨さえ、違うかたちで作用します。

Q. あなたの教えられているヨガはどのようなものですか。

A. 本当のヨガとは違ったものです。カシミールの教えにもとづいた身体へのアプローチです。カシミールの方法では、主として身体を循環する微細エネルギーを目覚めさせることをします。微細エネルギーは身体を霊化させるため、身体をよりサトヴィック (「純粋」または「精密」の意味) にするために使われます。サトヴィックな身体においては明け渡しがすでに起こっています。自分が何でないか、つまり緊張でも観念でも執着でも反応でもないということがはっきりとわかります。偽物が偽物であることがわかったとき、そこに残るのは私たちの時間を超えた存在です。身体を霊化するとは、したがって、偽物に属している散らばったエネルギーすべてを調整してまとめるという意味です。私たちがとっている方法では、意志を持たず努力もせずに調べます。それは真理そのものによって動機づけられています。自然な身体とは、この真理の表現、延長部分なのです。

Q. とはいえ、伝統的なハタヨガのアーサナもあなたは使われているようですが。

A. 身体のどのような動きもどのような姿勢もアーサナです。ハタヨガの古典でも言及されていない原型がいくつかありますが、そうしたものは身体とマインドに調和をもたらす上でとりわけ有効な原型的姿勢です。ただし、そうした原型にとりかかる前に、まずは身体の準備を整える必要があります。条件付けられた身体でこの原型的姿勢をとるのは無意味です。条件付けを放っておくとしたら、ヨガは単なる身ぶり手ぶりにすぎません。欧州や米国のほとんどでおこなわれているのは体操や身ぶりであって、身体の統合とはまったく無関係です。

Q. 「ヨガ」という言葉を使わないことには他にも理由があるのでしょうか。

A. ええ。「ヨガ」というのは「つなぐ」という意味です。つまり、つなぐ何か、成し遂げるべき何かがなければなりません。でも誰をつなぐというのでしょうか。何をつなぐというのでしょうか。ある意味で、ボディアプローチは静かに耳を傾けるのを助けてくれます。身体に本当に耳を傾けることを通じて、マインドと身体の真の落ち着きに到達します。

Q. これは毎日実践しなければならないことでしょうか。

A. これは訓練にすべきことではありません。なぜならば、訓練ということには期待があるからです。すでに目標が強調されてしまっています。そのようなものは探究とは呼べません。具体的に言うと、身体そのもののエネルギーに誘われるまで待っていてください。私たちの本来の状態をそのように思い出すということは、記憶ではありません。それは身体の要請からやってくるものであり、自動的に現れます。夕食に招かれるときのように、招かれてから行ってください。そうでなければ、身体に暴力を加えていることになります。

日常生活において、何もなすべきことがなく、避けたいこともなく、達成すべきこともないという絶対的な静けさの瞬間を経験することがあるかもしれません。そうした瞬間、あなたは何の努力もなしにこの静寂に完全に調和しています。このような時間を超えた瞬間、思考することができない瞬間に気づく機会を増やしてください。思考をすると、その瞬間はもう去ってしまっています。どのような思考からも解放された今の瞬間です。何かの行動を終えたとき、考えごとが終わったとき、夜に眠りに落ちる前、朝最初に目覚めたときなどにそういった瞬間を頻繁に経験するでしょう。ふたつの思考のあいだ、ふたつの行動のあいだのこうした隙間に慣れていってください。思考が不在になっている隙間ではなく、実在そのものである隙間です。こういった時間を超えた瞬間と自分が調和するのにただまかせてください。そのような瞬間を迎え入れることが増えていき、ついにはこの無時間の中に確立することになります。あらゆる知覚の背後にある光を認識しながらです。

Q. 日々の修行として瞑想することはすすめないということでしょうか。

A. そうです。

== 訳は以上 ==

ここで語られているボディワークについては、しばらく前に紹介したことのあるビリー・ドイルが一冊の本にまとめている (Yoga in the Kashmir Tradition)。とても実践的でありながら、ジャン・クラインの美しい言葉も散りばめられた、独特の雰囲気のある作品だ。

次がこのインタビューの最後。