SANDカンファレンス2011 その3

 
三日目は早く起きることができ、朝一番のセッションに間に合いました。

ルパート・スパイラ

ルパートがmeditationと呼んでいる、彼の静かな言葉による誘導と共に、リアリティのいろいろな側面を実際に見てみるという時間でした。

この日、初めて聞くたとえが出ていました。こんなものです。

「ある特別な地図を想像してみてください。その地図には、あらゆる知覚がリアルタイムで反映されます。身体感覚、思考、感情でも何でも。それぞれが意識に占める割合に応じて、その地図にそれぞれが描かれます。足の痛みが意識のほとんどを占めているなら、それが大きく描かれます。そのようにしばらくやってみてください。時々刻々と変わっていきます」

「次に、これを平面の地図から、立体的なホログラムにしてみてください。そのホログラムの中に、同じように意識にのぼるすべてがリアルタイムに反映されます。」

「さらに次は、そのホログラムが存在している空間に意識を向けてください。その空間を取り除いて下さい。ホログラムはそのままに。空間という感覚があったと思いますが、それがなかったらどうなるでしょうか」

という感じです。ここで、「空間内の存在である脳が、空間のない何かを想像することなどできないでしょ」というような思考が出てきたのですが、その思考もその空間を超えたところにあるホログラムにマッピングしてみました。

その時のことを今考えると、ルパートがいつも言う、すべてに浸透している純粋な認識、浸透しているというよりも、あるものすべてを作っている純粋な認識そのもの、何の性質も持たないそれというものが、何かこのことと関係あるもののように思えます。

が、思い出しながらこう書いてみると、そのエッセンスは無くなっていて、気の抜けたコーラのようになっています。面白いことです。

朝食

食事前のルパートのセッションの不思議な感覚が続くなかで、「自分にはこれは分からない。どうしても理解できない」といういつもの感覚でさえ、その普遍的な何かがそういった混乱として現れている愛ある表現の一つなのだ、という感じに打たれていました。

ジェフ・フォスター

午前のジェフのセッションは、あまり面白くないものでした。自分でも何を期待していたのか分かりませんが、いつもと似た話が独り言のように繰り返される様子には、うんざりしました。

ウンマニが言っていた、「探求はmeを中心に常に巡っている」ということを思い出し、「もしかしたらジェフの探求は終わっていないのかも。終わっていないとしたら、先生役をやらないといけない苦痛はすごいものだろうな」などと勝手なことを考えていました。

スコット・キロビー

この日、最も印象的だったセッションです。探求というものの性質について、ワークショップ風に説明してくれました。

こんな感じです。

「いま、たった今、知覚していることがあります。隣の部屋の声やエアコンの音、窓の外からの光、椅子に接する足や尻の感覚。そうした知覚の中に、何かを求めるという感じがあるでしょうか。たった今の知覚は、何の努力もなく、そのまま起こっていて、それを求めるということはないのではないでしょうか。」

「次に、何か自分が欲しいもの、求めていることを考えてみてください。それを知覚してみてください。どうでしょう。たった今の知覚と、その求めているものの間には壁や距離があるように思えるかもしれません。そして、求めているものがモノとして外部に独立して存在しているように感じるかもしれません」

「では、求めていることを考えているとき、たった今の知覚において、その求めている感じがどのように表現されているか、感じてみてください。身体のどこかの部分にその感じがあることを見つけたら、ただその感じと共に数秒でもいいので一緒にいてみてください」

「すると、どんなことに気づくでしょうか。求めている感覚がそこにあることをただ認めるだけで、何か違いが出るのではないでしょうか」

ということで、皆がスコットの誘導に従ってやってみました。このセッションの主題は中毒ということだったのですが、あらゆる中毒は「自分はこれが欲しい」という欲求の否定から始まると言っていました。

これが欲しいという感覚が生じると共に、通常はその対象が外部にモノとして独立し、同時に自分はその対象物が欠けた存在になります。そのように既に欠けた存在になっているのに欲求だけを否定することは、中毒とその苦しみを生むというのです。

ここでもし、上記のように、欲しいという求める感覚が出たらその感覚をきちんと一瞬でも知覚するということをすると、その欲求は外部の対象物に化けないかもしれないということです。

スコットは、覚醒や悟りに対する欲求、スピリチュアルな探求と言われるものも、チョコレートやドラッグやセックスに対する欲求と変わらないことも多く、上記のようなシンプルなプロセスにより、自分は悟りを求めていると思っていたが実際にはただ単に自分は何か欠けているという感覚から逃れたかっただけだ、と気づくかもしれないとも言っていました。

それが、彼が多くの探求者と接して発見したことだそうです。

その他のセッション

名前は記しませんが、昨年も出た、他の二人のセッションに今年も出ました。昨年はつまらないと思ったのですが、その後一年の間に、「彼はいい」とか「彼女のサットサンは素晴らしい」とか複数の人から聞いたので、「自分の認識が違ったかもしれない」と話を聞きに行きました。

が、全然面白くもなく、響くこともありませんでした。面白い教訓です。

その4はこちら

SANDカンファレンス2011 その2

 
二日目は、朝一番にフランシス・ルシールのミーティングに出る予定にしていましたが、風邪気味で更に時差ぼけの寝不足も重なって、見送りました。

遅い朝食をとっていると、前のテーブルにはフランシス・ルシールが仲間と座っていて、横のテーブルではジェフ・フォスターとスコット・キロビーがごしょごしょと何やら話していました。複数のグルたちがこのように集まるという意味では、こうしたカンファレンスは面白い機会だなと思います。

サンフランシスコのベイ・エリアでは、毎週のように何らかのノンデュアリティ(非二元)のミーティングが開かれていたりするそうですが、一回の週末で、しかも一日に何人もの人の話を一気に聞けるというのは、やはり貴重な場でしょう。

パネルディスカッション

その面白さが発揮されたのが、パネル・ディスカッションです。今日は、ジェフ・フォスター、スコット・キロビー、ウンマニの三人のパネルでした。

主に、苦しみと非二元、修練と非二元というテーマで話は進みました。

スコット:「世界は存在しない、苦しみも幻想だ、あなた自体がそもそも幻なのだ」と言い続けても、実際に苦しんでいる人にとっては意味をなさない。究極のリアリティは実際にそうであっても、それを例えば頭で理解させたとしても、どうにもならない。

ジェフ:自分も最初は「あなたという存在は概念にすぎない」ということを繰り返していた。が、リアリティをそのまま語るということと、何かを伝える、教えるということは異なることだと今は分かる。概念として非二元のリアリティを抱えることは、更なる苦しみを生む。

ウンマニ:それは分かるが、なぜ苦しむことがいけないのか?苦しみをどうにかして抜けようとするより、苦しみも含めてすべてが完全にOKだということを認識する方が、本当のリラックスにつながる。

これに対し、ジェフもスコットも、「それはそうだが、実際にはその認識になかなか至らないのだから、今目の前で苦しんでいる人に対して出来ることをする、そういうヘルプが起こっている、ということ」という趣旨のことを言っていました。

おそらく、非二元を概念として頭で理解してマインドがそれを抱えることの問題については、共有されています。が、実際に本当のリアリティを理解させることができるかどうか、という点が相違を生んでいます。

ウンマニは、それができる、あるいは起こりえるということを前提に話していて、他の二人はそれは稀にしか起こらないということを前提にしています。トニー・パーソンズはウンマニ型の典型で、実際に覚醒する人がどんどん出ているだけに、究極のところを語り続けることができるのでしょう。

ただし、究極の現実を一瞥する、あるいは認識するということと、その後で苦しみがどう続くかということは別問題であり、そのあたりを考えると、覚醒が起こればいいという議論も乱暴すぎるように思います。

実際、これまでいろいろなミーティングに出て分かったのは、覚醒した後の方が苦しみが増しているケースが散見されるということです。その点についても一切コントロールできないということなのでしょうが、パターンとして見えるのは、伝統的な修行に長年従ってきた人は覚醒した時点で、あるいはその後短期間で探求が終わり、そうでない人は探求が終わらず「個人」に戻って一体化した状態に長く悩まされがちだということです。単純化しすぎかもしれませんが。

今日のパネルにおいては、三人ともが、実際に教え始めてからスタイルや表現が変わってきていると言っていました。覚醒ですべて結果オーライにならない、という現象があるということも、その辺に関係するのだろうと思います。

ジョーン・トリフソン

上記のパネルの前に、午前中にジョーン・トリフソン(Joan Tollifson)のセッションに出ました。アメリカ人の女性で、禅の修行をしたり、フランシス・ルシールやセイラー・ボブやガンガジなど、多くのグルのもとで学んだ人です。生まれつき右手がなく、元アルコール・ドラッグ中毒、そしてレズビアンです。

ジョーンは普段はオレゴンの地元でしかミーティングをしておらず、貴重な機会と思って行ってみました。

とても明るく、ユーモアに溢れていて、しかもクリアで分かりやすい表現を多用します。言葉として書いてみれば各種ミーティングで聞いたことがあるような内容ですが、ジョーンから「皮膚の中に自分がいて、その皮膚の外は自分とは違う別のもの、というのはただの催眠にすぎない」「性格は、土地によって違う気候のようなもの。シカゴがLAのような気候になりたい、と思っていても仕方ない」と聞くと、催眠から醒めたようなすっきりとした自由さの中に解放された感じがしました。

フランシス・ルシール

この日の圧巻は、夕方に登場したフランシス・ルシールです。大会場で、彼の前にプレゼンテーションをしたリン・マクタガートの話が長引いたあと、彼の出番となりました。

壇上の椅子に座ると、無言で何も発しません。

ざわざわが消え、「何が起こるんだろう、彼はいつ話し始めるのかな」という思いもだんだん静かになり、15分ほど経過した頃、静かにこれだけ言いました。

「大事なのは、言葉ではない。

 どんな言葉を交わそうが、グルとどれだけの時間を過ごそうが、そんなことは関係ない。

 唯一大切なのは、愛だ」

そして、合掌した後、彼は音もなく会場を去っていきました。

その3はこちら

片面、両面

 
震災以降、半ば狂ったように原発関連のニュースを追いかけ続けています。これほど夢中になったことが過去にあったかどうか考えると、会社員を辞めた後に寝る間を惜しんで仕事をしていたことと、学生時代の恋愛くらいかな、という勢いです。

これほど現象に巻き込まれるというのもすごい話ですが、現象に巻き込まれてはいけないというアドヴァイタ的な「教義」が更に苦しみに追い打ちをかけてきます。冗談にもなりません。

ところで最近、ジェフ・フォスターが面白い動画を発表しました。『アドヴァイタの罠その2 非二元信者の決闘』というものです。

The Advaita Trap 2: The Duelling Non-Dualists

字幕付きですが、一応訳を書いておきます。

右)この紅茶、本当においしいわ。これ、本当に・・・、こんなおいしい紅茶を飲んだのは久しぶりよ。そう思わない?
左)紅茶は存在していない!
右)でも、紅茶は生 (life) の一部でもあるわ。それにすべては生の中に現れているわけでしょう。それが、何? 紅茶は存在しないって?それは否定だわ。それこそ二元性よ。
左)ジェイニー、「紅茶」はあなたが抱えてる沢山の概念のひとつにすぎないの。
右)それこそあなたの概念のひとつだわ。概念は存在しないっていう概念のことよ。あなたは教条的な思考パターンにまた嵌っているんだわ。
左)概念を持てるような人間はここには存在していないの。
右)じゃあ、誰がそのことに気づいているってわけ?
左)一体性 (oneness)。
右)へえ、「一体性」だっていうのね。
左)そう、一体性。
右)あのね、あなたの言ってることは完全なたわごとよ。
左)じゃあ、「たわごと」が一体性の中で展開してるんだわ。
右)へえ、じゃあ「たわごと」は一体性の中で展開してるけど、紅茶はそうじゃないってわけ?
(終わり)

この動画のテーマになっている生の否定ということは、ジェフ・フォスターが最近よく言うことです。すべては幻想であり、個人も世界も本当には存在していないということだけを言うのは一面的だということでしょう。(それを強調しすぎていること自体に、そういう一面的主張を非難する色彩があり、かなり二元的なニュアンスを感じてしまうということはとりあえず置いておきますが)

アドヴァイタを概念としてとらえると、上の「対決」のような滑稽なことになるのでしょうが、自分もそういう場所にいる気がします。そのあたりはうちの妻が鋭く指摘してきたりするので面白いのですが、結局マインドとの同一化とハートへの信頼とのバランスとアンバランスの中でうろうろしています。

しばらく前に、スペースまほろばの中野さんがブログでこんなことを書かれていました。(多次元的な世界と理由のない幸福感)

「すべては空(くう)」なのが真実だとすると、この世的な事柄に関わることがどうでもいいような気持ちになるのではないか、と心配する方がいるかもしれません。

ところが不思議なことに、私自身の感覚では、確かに一時的にはそんな気分になることもありましたが、真実に近づけば近づくほど、すべては夢で本当は何もないのだ、と実感すると”同時に”、日常生活の一つ一つの出来事がとてもリアルに感じられるようになります。

日常の何気ない出来事(人との関わりや自然との関わり)から感じ取る質感のようなものがとても厚みを持ってきて、それらを体験すること自体から深い満足感を得られるようになってきます。

この唯一の現実だと思っていた世界が、同時に、空(くう)でもある、夢でもあるとわかると、それまで必要以上に人目を気にしたり、結果を心配していた気持ちが小さくなって、目の前の現実だけに意識を集中させることができるようになり、結果としていろんなことがうまくいくようになったりするのです。

世界は複数の次元から成り立っている。その複数の次元を自由に行き来すること、あるいは、複数の次元を同時に意識しながら生きていくことが、とても大切です。物質的なものに過剰に頼らなくても、内側からの幸福感、理由のない幸せを感じながら生きていく道がそこにあります。

これは自分では体験したことのないことですが、ルパート・スパイラも「自分とは本当は何であるかが分かると、自分をめぐる現象はなぜか奇跡的な協力を見せるようになる」とよく言います。

個人や世界が本当はこれまで思っていたような意味では存在していないということと、そういったことが両立してしまうというのは面白いパラドックスだなと思います。

このことと、原発事故をめぐる自分の混乱がどう関係あるのか全然分かりませんが、とりあえず分かろうとせずに今日は放っておこうと思います。