否定と抱擁 SANDヨーロッパ

 
非二元(ノンデュアリティ)を表現する方法はいろいろあって、その中でも僕は現代の欧米の教師たちの表現が好きだ。

よく外国のミーティング等で、他の参加者から「日本には素晴らしい非二元の伝統である禅があるのに、なぜわざわざこんな遠くに?」と訊かれる。

だいたいは「禅のことは勉強したこともないし、座禅などの実践をしたこともまったくない。なぜか関心がわかない」と答える。実際、ほとんど関心がない。何冊かの本を読んだことはあるが、どうも響かない。

他にも多様な表現があるのだろうとは思うが、たまたま今関心がある表現に関心があるとしか言えない。

そして、その欧米のいわゆる覚醒者、悟った表現者たちの中でも好みがある。

さくらんぼを食べたことがない人が、さくらんぼの味を表現するいろいろな方法について、この表現はいいとかこれは好きじゃないとか、ごちゃごちゃ考えているような変な話なのだが、実際に好みがあるから仕方ない。

SANDヨーロッパでは、多様な表現が展開していた。特に面白かったのは、複数の表現者、教師たちによるパネルディスカッションだった。

中でも、『気づきの扉』という邦訳書があるティム・フリーク(ティモシー・フリーク)とウンマニ、そしてスーザン・ブラックモアという意識に関する多数の著書があるイギリス人女性の三人による討論が良かった。

ティムは「分かっている」人らしいのだが、一般的なノンデュアリティの先生たちとは全然違う表現をする。非二元のリアリティをダイレクトに表現するということはなく、むしろ現象の世界に現れている多様性を祝福するような感じだ。

逆にウンマニは、現象の世界に関する表現をほとんど「ストーリーにすぎない」とか「今ここ、目の前にないこと」として退けて、常に「自分」のフィクション性を鋭く指摘し続ける。

この討論では、ティムやスーザンが何を言っても、ウンマニが例のごとく「それは今ここにない」「あなたの記憶はいまでっち上げられているだけ」「脳が云々といっても、脳は存在していない」「目の前にあることだけが確かなもので、他は幻想」と繰り返した。

僕はずっとそういう表現が好きだった。が、この討論で印象が変わった。ウンマニの表現が、あまりに多くのものを否定、拒絶しているように感じたからだ。彼女は言葉の上では「すべての表現を祝福している」と言う。が、実際には世界のいろいろなものと切り離されているような感じを受けた。

それは、ティム・フリークが娘について語ったときに感じた、世界に対する彼の深い愛、すべてが幻、ストーリーにすぎないと知りながら愛さずにはいられないどうしようもない愛と、とても対照的に映った。

もちろん、二元の幻想をぶった切る鋭いナイフとして、ウンマニの表現は優れていると思う。特に彼女が対話形式のミーティングでみせる冴えは、時にめまいがするほどだ。実際、彼女のロンドンのミーティングでは、時間と空間の感覚がおかしくなるような(怖い)経験もした。

ただ、それは切る道具としては秀逸であっても、抱擁には使えないということが、この討論では明白だった。

討論の後、「自分はそもそも何を求めているのだろう」と考えてしまった。こっちだ!と思って突き進んできた道が袋小路だったことに気づいたような気分だった。あるいは、求めていたはずのものが最初から存在していなかったことを突然知らされたような気分だった。

結局これも、「どの表現がより優れているか」とか「どれが正解か」といういつもの動きの中で解釈されてしまう経験なのかもしれない。が、身体に直接効いてくるような経験でもあった。

下の動画は、ティム・フリーク(Tim Freke)の新著The Mystery Experienceの発行にあわせて作られたショートビデオ。

The Mystery Experience

ちなみに、ティムは誰でも一瞥(本当のリアリティを垣間見る体験)ができるという触れ込みのリトリートを主催している。参加した男性の話を聞いたが、「誰でも」は疑問で、その人自身も特筆すべきような体験はしなかったということだった。「すごかったよ!」と言われなくて、内心ホッとした。

SANDカンファレンス2011 その2

 
二日目は、朝一番にフランシス・ルシールのミーティングに出る予定にしていましたが、風邪気味で更に時差ぼけの寝不足も重なって、見送りました。

遅い朝食をとっていると、前のテーブルにはフランシス・ルシールが仲間と座っていて、横のテーブルではジェフ・フォスターとスコット・キロビーがごしょごしょと何やら話していました。複数のグルたちがこのように集まるという意味では、こうしたカンファレンスは面白い機会だなと思います。

サンフランシスコのベイ・エリアでは、毎週のように何らかのノンデュアリティ(非二元)のミーティングが開かれていたりするそうですが、一回の週末で、しかも一日に何人もの人の話を一気に聞けるというのは、やはり貴重な場でしょう。

パネルディスカッション

その面白さが発揮されたのが、パネル・ディスカッションです。今日は、ジェフ・フォスター、スコット・キロビー、ウンマニの三人のパネルでした。

主に、苦しみと非二元、修練と非二元というテーマで話は進みました。

スコット:「世界は存在しない、苦しみも幻想だ、あなた自体がそもそも幻なのだ」と言い続けても、実際に苦しんでいる人にとっては意味をなさない。究極のリアリティは実際にそうであっても、それを例えば頭で理解させたとしても、どうにもならない。

ジェフ:自分も最初は「あなたという存在は概念にすぎない」ということを繰り返していた。が、リアリティをそのまま語るということと、何かを伝える、教えるということは異なることだと今は分かる。概念として非二元のリアリティを抱えることは、更なる苦しみを生む。

ウンマニ:それは分かるが、なぜ苦しむことがいけないのか?苦しみをどうにかして抜けようとするより、苦しみも含めてすべてが完全にOKだということを認識する方が、本当のリラックスにつながる。

これに対し、ジェフもスコットも、「それはそうだが、実際にはその認識になかなか至らないのだから、今目の前で苦しんでいる人に対して出来ることをする、そういうヘルプが起こっている、ということ」という趣旨のことを言っていました。

おそらく、非二元を概念として頭で理解してマインドがそれを抱えることの問題については、共有されています。が、実際に本当のリアリティを理解させることができるかどうか、という点が相違を生んでいます。

ウンマニは、それができる、あるいは起こりえるということを前提に話していて、他の二人はそれは稀にしか起こらないということを前提にしています。トニー・パーソンズはウンマニ型の典型で、実際に覚醒する人がどんどん出ているだけに、究極のところを語り続けることができるのでしょう。

ただし、究極の現実を一瞥する、あるいは認識するということと、その後で苦しみがどう続くかということは別問題であり、そのあたりを考えると、覚醒が起こればいいという議論も乱暴すぎるように思います。

実際、これまでいろいろなミーティングに出て分かったのは、覚醒した後の方が苦しみが増しているケースが散見されるということです。その点についても一切コントロールできないということなのでしょうが、パターンとして見えるのは、伝統的な修行に長年従ってきた人は覚醒した時点で、あるいはその後短期間で探求が終わり、そうでない人は探求が終わらず「個人」に戻って一体化した状態に長く悩まされがちだということです。単純化しすぎかもしれませんが。

今日のパネルにおいては、三人ともが、実際に教え始めてからスタイルや表現が変わってきていると言っていました。覚醒ですべて結果オーライにならない、という現象があるということも、その辺に関係するのだろうと思います。

ジョーン・トリフソン

上記のパネルの前に、午前中にジョーン・トリフソン(Joan Tollifson)のセッションに出ました。アメリカ人の女性で、禅の修行をしたり、フランシス・ルシールやセイラー・ボブやガンガジなど、多くのグルのもとで学んだ人です。生まれつき右手がなく、元アルコール・ドラッグ中毒、そしてレズビアンです。

ジョーンは普段はオレゴンの地元でしかミーティングをしておらず、貴重な機会と思って行ってみました。

とても明るく、ユーモアに溢れていて、しかもクリアで分かりやすい表現を多用します。言葉として書いてみれば各種ミーティングで聞いたことがあるような内容ですが、ジョーンから「皮膚の中に自分がいて、その皮膚の外は自分とは違う別のもの、というのはただの催眠にすぎない」「性格は、土地によって違う気候のようなもの。シカゴがLAのような気候になりたい、と思っていても仕方ない」と聞くと、催眠から醒めたようなすっきりとした自由さの中に解放された感じがしました。

フランシス・ルシール

この日の圧巻は、夕方に登場したフランシス・ルシールです。大会場で、彼の前にプレゼンテーションをしたリン・マクタガートの話が長引いたあと、彼の出番となりました。

壇上の椅子に座ると、無言で何も発しません。

ざわざわが消え、「何が起こるんだろう、彼はいつ話し始めるのかな」という思いもだんだん静かになり、15分ほど経過した頃、静かにこれだけ言いました。

「大事なのは、言葉ではない。

 どんな言葉を交わそうが、グルとどれだけの時間を過ごそうが、そんなことは関係ない。

 唯一大切なのは、愛だ」

そして、合掌した後、彼は音もなく会場を去っていきました。

その3はこちら

SANDカンファレンス2011 その1

 
SANDカンファレンス2011のため、カリフォルニアに来ています。昨秋に続き、2回目です。

Science and Nonduality Conference 2011

公式日程は10月21、22、23日の三日間ですが、その前後にワークショップが開かれています。昨年はがつがつと前に二日間、後にも一日という感じでフルに参加しましたが、今回は公式日程以外は前の一日だけにしました。

その公式日程前のワークショップとして、今回はルパート・スパイラとウンマニのものを選びました。

ルパートのワークショップで印象的だったのは、話の指し示す先はこれまでに僕が出た彼のミーティングの時と同じはずですが、言葉の選び方がよりシャープというか、逃げを許さない感じであったことです。

例えば、分離した「私」はどのように生じるのでしょうか?という質問に対し、彼はちょっと間をおいた後、「その質問があるためです」と短く答えました。

これまで聞いていた彼の答えのパターンとだいぶ違ったため、意表をつかれた感じがしました。目には見えない磨かれた鏡を突然目の前に突きつけられたように感じました。

それから、彼が通常Awareness(気づき)とかPresence(実在)と呼ぶ<それ>について、別の呼び方を紹介していたのも面白いことでした。

それは、Unnamed no thing which is not nothingというものです。訳すとすれば、「名がなく、どんなものでもないもので、無でもないもの」となるでしょうか。Consciousness、Awareness、Presence、Being、Oneness等といろいろな呼び方をされる<それ>ですが、何の先入観もありようがないという意味で、この呼び方もなかなかいいなと思いました。(と言っても、言葉の話なので結局そこまでですが)

3時間半にわたるものだったのに、たいして内容は覚えていないのですが、架空の自己(通常これが自分と思っている「私」)が非二元の諸々の概念を自身の永続化のために巧妙に利用するという指摘は、以前聞いた時よりも強調されていたようです。

ちなみに、言葉はとてもシャープでしたが、休憩時間に廊下で会って話したときのルパートは本当にスイートで、相変わらず幼児のようなキラキラした目がとても印象的でした。

午後は、ウンマニです。もともとフランシス・ルシールのワークショップに出ようとしていたのですが、しばらく前に気が変わって彼女のほうに変えていました。

いつものホットシート形式(質問などある人が前に出て彼女の隣の椅子に座る)で、相変わらず優しくも鋭すぎる眼差しで、ドキッとすることを連発していました。

特に覚えているのは、こんなことです。

「概念としてのノンデュアリティ(非二元)には意味がないとは分かっていても、道理にかなっているから手放すことができない」というコメントに対して、ウンマニは「もし非二元について語られている何かをあなたが理解できると思ったのであれば、それは分かってないということ。非二元というのは(マインドから見れば)狂気そのものだ」と迫力のある顔でビシっと指摘していました。

それから、自分の探求のストーリーを語り続ける女性に対し、彼女は「探求とは、me(私)に取り付かれることだ。常にmeを中心にして巡っている」と、これも厳しく言っていました。

ただ、これを言った後、「そのストーリーがないとき、たった今、あなたは誰か?」と瞳の奥を見通す目で尋ねました。すると、質問者の女性は一瞬動揺を見せた後、大きくため息をついて、何かから解放された軽さを表していました。

ウンマニのメッセージは常にラディカルで、表現も直接的、しかも逃げ場を残さない手厳しいものです。が、半端で止めないということには、トニー・パーソンズに似た愛情も感じました。

夜は大ホールでルパートの30分ほどの話を聞き、それで初日を終えました。

その2はこちら