三浦海岸のエックハルト

 
エックハルト・トールの名前を目にすると、反射的に聖子ちゃんずが浮かんでしまう、あるいは青森のあの羽柴秀吉。本人たちは真剣なのだとは思うが、どうも真面目に受け取るのが難しい。

聖子ちゃんずについて言うと、三浦海岸フェスティバル (?) で歌っているのを小6だか中1だかの頃に見かけたことがあって、会場はだいぶ盛り上がっていた。盛り上がりという意味では、世界中で本が何百万部も売れているエックハルト・トールも相当なものではある。

ただやはり、本家と比べると「う~ん」となる。

こんなことを書いているのは、最近訳にとりかかった本でマイスター・エックハルトの説教の引用があったからだ。エックハルト・トールはマイスター・エックハルトからその名前を借りたというが、「ほら、全然違うじゃん!」と思わず言ってしまうくらい、その引用文はかなりズバッと刺さってきた。そして、しばらく響いていた。

それで、図書館で『エックハルト』(上田閑照著、講談社学術文庫) を借りてきて、説教部分を中心に読んでいる。まだ途中だが、しびれた部分をいくつか引用してみたい。

 人は如何なるものをも求めてはならない。認識も、知も、内面性も、敬虔も、平安も、一切求めてはならない。ただひたすら神の御意志(みこころ)のみ求めなければならない。あるべきように正しくある魂は、神が自分に神性の全体を与え給わんことを願いはしない。また、与えられたとしても、魂は神が一匹の蚊を与え給うた時のようにそれによって何ら慰められることはないであろう。神の御意志によらずして神を認識しても、それは無である。すべては神の御意志のうちに在る。そこにこそ何か在るものがあり、それはすべて神に適い完全である。神の御意志の外ではすべては無であり、神に適わず、不完全である。(説教 一 「ひらすら神の御意志のみを」)

 さて私は、未だ嘗て語ったことのないことを、今語りたいと思う。神は自分自身を味わい給う。そして、自分自身を味わい給うその賞味において、神はすべての被造物を味わい給う ― 被造物としてではなく、被造物を神として。このように、自分自身を味わい給うその賞味において神はすべての物を味わい給うのである。
(略)
 神 (got) は生成する。すべての被造物が神と言うとき、《神》が生成する。私が未だ神性 (gotheit) の根底、神性の地盤、神性の源流と源泉のうちに在った時、何人も私に、私が何処に行こうとするのか、何をなしているのか、尋ねなかった。そもそもそこには、私に尋ねようにも何人も居なかったのである。私がしかしそこから流出した時、その時すべての被造物が《神!》と言ったのである。もしその時誰かが「兄弟エックハルトよ、何時お前は家から外に出たのか」と私に尋ねたならば、実は、私はたった今まで家の中に居たわけなのである。〔即ち、今はじめて外に居るのである。ということは同時に、今はじめて内と外の区別も区別として成立したわけである〕。
(略)
 誰かこの説教をよく理解出来たものがあれば、その人に私は喜んでこの説教を捧げたい。もし此処に誰一人居なかったとしても、私は今の説教をこの賽銭箱に向ってでもしたに違いない。これから家に帰って、そして「私は自分の慣れた場所に居て、パンをしっかり食べて、それから神に仕えたい」と言うようなあわれな人たちも多いであろう。私は永遠の真理にかけて言うが、このような人たちは、いつまでも迷いつづけなければならず、貧と異郷のうちで神につき従う人たちが到達するところに決して至り得ないのである。アーメン。(説教 四 「神と神性 ― 神は生成し、そして還滅する」)

 人が放下(捨離)し得る最高にして究極的なことは、神を神のために放下することである。聖パウロは神を神のために放下した。彼が神から得ることが出来た一切を放下し、神が彼に与えることが出来た一切、彼が神から受けることが出来た一切を放下した。聖パウロがこれらを放下した時、彼は神のために放下したのであった。そしてその時、彼に残され留まったものは、まさに、それ自身において自体的に自存する (istic sîn selbes) 神であった。すなわち、受け取られ獲得されるあり方においてではなく、それ自身においてあるという自存する自体性 (isticheit) における神が聖パウロに留まり現前したのである。彼は神に如何なるものも与えず、また神から如何なるものも受けなかった。そこにあるものは、一つの一(いつ)即ち一なる一 (ein ein) であり、一つの純なる一化である。ここに至って人は一箇の真なる人間、一真人(いちしんにん) であり、このような人には、神の存在に苦悩が生じ得ないと同じく、如何なる苦悩も生じない。
(略)
 さて、このように神の意志のうちにある人は、神と神の意志であるところのもの以外を意志することはない。彼が病気であるならば、彼は健康であることを欲しないであろう。彼が正しく神のうちにある限り、すべての苦痛は彼にとって一つの喜びであり、すべての多様性は彼にとって純露なる一性である。まことに、地獄の苦がそこにあるとしても、それは彼にとって一つの喜びであり浄福であるであろう。彼は自分自身を空却し自分自身から脱却している。われわれが受け取るべきすべてのものからわれわれは脱却していなければならない。私の眼が色を見ようとするならば、眼はすべての色から脱却していなければならない。そして、私が青とか白とかの色を見ている場合、色を見ている私の眼の視作用、すなわち見つつある働きと眼で見られているところのものとはまさに同一である。私が神を見る眼は、神が私を見るその同じ眼である。私の眼と神の眼、それは一つの眼であり、一つの視作用であり、一つの認識、一つの愛である。(説教 九 「神のために神を捨てること」)

勝手に名前を拝借しちゃだめでしょとか、そんなこだわりがどうでもよく感じられて畏れ入ると同時に、大きな可能性がつねに目の前に広がっていたことに気づいて非常に救われる。

広告