レベカ・マルーン発見

 
このブログの存在をふと思い出し、今月は記事を書かずに終わるのかなと思いつつ、でも新しい発見もなければ、衝撃の一瞥もないし、まあいいやと考えていた。

2月の山梨は空気がすごく澄んでいて、朝日に照らされた甲斐駒ケ岳や八ヶ岳は「神々がおわすところ」という感じに輝く。これ以上何かを求めるというのは明らかにおかしい。探求? いらないでしょ。そんな気分になる。

本は面白いものが何冊か今月もあったけれど、非二元本はヒットなし (というか、読んでない)。一番良かったのはこれ。北欧のイメージがガラガラ崩れた。

非二元本は読んでないと言っても、Amazonで注文していたティム・フリークの Deep Awake という新刊はちょっと前に届いた。カバーデザインがポップで、ジャケ買いしてしまった本。ただ、読もうとしても数ページで止まってしまう。

ティムの場合は本よりもトークの方がはるかに面白い。そう思って、この本の出版前後にティムがロンドンのWatkins Booksで開いた会の模様をYoutubeで見た。(これ)

相変わらずのオーバーアクションを楽しみながら、ティムのキラキラの目を見ていて、急にある人のことを思い出した。

それで、もしかしたら見つかるかもと思って、彼女のファーストネームと当時彼女が住んでいたイングランドの都市の名前で検索すると、なんとすぐに見つかった。2012年のトニー・パーソンズのレジデンシャル (リトリート) で会った人で、その人のことは記事にしたこともある。(奇妙なのはどちらか?)

タイミングよく去年ノンデュアリティ本を出していたらしい(This is God)。ウェブサイトも作っていて (ここ)、新刊の告知動画も載っていた。

英語が得意じゃない人はレベカの話している言葉の意味はわからないかもしれないけれど、雰囲気は伝わると思う。開始から01:35〜02:40くらいの感じは、ジェフ・フォスターの初期に似ていて、ぞくぞくしてしまう。トニーのレジデンシャルの帰りの乗換駅で、30分か40分ほど二人で話をしたのだが、そのときの表情そのままだ。

そのびっくりの勢いで、こうしてブログに記事を書きはじめた。

が、「先生活動はじめちゃったのね」という残念さをどこかで感じているのも事実 (まさか始めるとは思わなかった。それに先月はティルヴァンナマライでサットサンをしているようで、それも「いかにも」でがっかり)。立ち位置をそこに置くと、どうも変な要素が入ってくる気がする。特に生活のためにメッセージを発信しはじめるときの独特な変質は「もったいないなあ」と思ってしまう。彼女の場合はわからないが。

生活のためじゃなくても、「教える側」「伝える側」というポジショニングは特有の力学を生む。他の先生たちとの競争、差別化の必要も出てくるかもしれない。それにそもそも、「わかっていない人」の存在を想定するというスタート設定がどうなんだろう。

リック・リンチツが、覚醒からしばらくは「なんでこれが見えないんだ!? 本当は見かけと全然違うんだ。おい!オレの話を聞いてくれよ!君らには真実が見えてないんだよ!!」という感じが続いて、相当うざい人になってしまっていたと前に話していたが、「他者」が存在しているという認識が覚醒後もそのままになる場合もあるんだろうか。

まあ、自分のことを考えれば、おいしいコーヒーを売る店を見つけただけで有頂天になってブログに書きたくなるくらいだから、他人のことは全然言えない。それに、ルパート・スパイラを知った直後に彼の文章を毎日和訳していたのも、自分がしていた感じはなく、自分を通してそれが起こっていたといった方が近いから、世の「先生方」も単にお役目を割り当てられているだけということなのかもしれない。だから、「わかっていない人」の存在を想定した上でそれに対して何らかのアクションを起こしている、という見方自体が間違っているのかも。多分そうだ。

でも、レベカが先生活動を始めたおかげで、あのイッちゃってる目をまた見ることができたのだから、良しとしましょう。何度も見てしまうなあ。また会えて良かった。

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