悟り一丁! ジョーイ・ロット

 
久々にジョーイ・ロットのブログ記事の翻訳。今、ジャン・クラインの教えを中心に書かれた本を訳していて、その落ち着いた雰囲気からちょっとだけ離れたくなった。

原文: Instant Enlightenement

== 以下、訳 ==

即席悟り

「即席悟り」という言葉は、これ以上ないほどひどく安っぽく響く。ファストフードのドライブスルーで買えるものみたいに。

不味いコーヒーのような感じ。それか、乾燥マッシュポテトのような何か。

「即席悟りが今ならたったの1.99ドル。手軽で手間いらず。水と混ぜるだけでOK」

でも僕がここで伝えようとしているのは、即席悟りは可能だってこと、そしてそれは想像するようなものとは違うってことだ。

即席悟りと聞くと、安っぽい消費財のイメージが湧いてくるけれど、僕が言っているのは君を消費する (消滅させる) ものの話。

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それは君を跡形もなく消滅させる。そしてそれは一瞬で起こる。

でも問題点がある。瞬間的なものなのだ。つかもうとしたり、自分のものにしようとしたりすると、消えてしまう。

まずは悟りを (脱) 定義しよう。

悟りを一番必死に追いかけていたころ、どうしてもすぐに悟りたいという気持ちがあまりにも強すぎて、本当の問題は何なのか、そこで求めている解決策 (悟り) が一体どんなものなのかについて、僕はじっくり考えてみようとはしなかった。

わかっていたのは、耐えがたい慢性的な心理的苦痛のように思えるものを自分が経験しているということだけだった。そして僕はそこから抜け出したかった。

最初に僕が経験しはじめたのは、奇妙な強迫観念と衝動だった。ものごとは13回繰り返さないとダメだとか、時計回りにしか回ってはいけないとか、そういうことで、まだ子どものときだ。

年が経つにつれ、それは考えられないような悪夢に変化した。その問題を解決するために自分がしたことすべてが、問題を悪化させるだけだった。

毎日何時間も瞑想をした。それとは別に何時間も祈りと詠唱をした。スピリチュアルの本を読んだ。サットサンやリトリートに参加した。

それでも事態は悪化し、良くなりはしなかった。

すべてを手放して、貨物用ワゴン車で生活しながら完璧な状態を求めて全国を放浪する風変わりな旅を始めるまで、自分は悟りを間違って定義していたのかもしれない、という考えを本当に受け入れることはなかった。

そして、ライム病にかかって文字通り動けなくなり、飢えに苦しみだすまで、悟りとは実際にはどんなものなのかを直接調べ始めてみようという気持ちになることはなかった。

多くの人たちが知らず知らずにしているように、僕も自分の目標、つまり悟りを、望ましくない状態が根絶されることとして捉えていた。

恐怖、怒り、悲しみ、不安、憂鬱、無価値感、そして望ましくないこと全部を一掃するのは可能だし、好ましいことなのだと、何も考えずに信じていた。

それが僕にとっての悟りの定義だった。それが僕の目標だった。

僕の人生のすべては、その目標を達成することを土台としていた。

その目標はなかなか達成できず、僕はそれが問題なのだと思い込んでいた。うまくいかなければいかないほど、真剣に努力を重ねた。でも最終的には努力できることが何もなくなった。あまりにも疲れ果てていたのだ。

それで、自分が避けようとしていたものと正面から向き合わざるを得なくなった。正面から向き合うだけではなく、自分の子どもたちを待ち構えるときのように腕を開きながらそれを迎え入れるしかなかった。

徹底的に迎え入れているうちにようやくわかったのは、自分が向き合っていたのは恐怖や怒りや悲しみといったものじゃないってことだった。それは自分自身だった。向き合っているのは自分自身の顔だったのだ。

これは自分の顔だ。

そしてこのことが僕の言う真の悟りだ。いろんな意味で、それは多くの人たちが想像している悟りとは正反対だ。

これはどんな気持ちや感情が生じようと、それを完全にそのままにしておくことだ。

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即席悟りを得るには

悟り、つまり存在を完全にそのままにするという悟りはすぐに可能だと僕は言った。

「なるほど、じゃあ証明してみてよ」と言う人もいるかもしれない。

いいだろう。悟りとは何か (何でないか) についてここまで話してきたから、今度はどうやってそれをするか (または、言ってみればどうやってしないか) について話そう。

基本的に、悟りというのは (少なくとも僕が言っている意味での悟りは) しないことだ。起こっていることに抵抗しようとする不必要な努力をすべて手放すことだ。もっと正確に言うと、努力は必要ないし、問題は現実には存在してないってことを発見すること。

だから、この不必要な努力を自分がどのようにしているかを見ることが、その始まり (そして終わり) になる。

不必要な努力をいったん認識すれば、ある意味ではそれで十分だ。というのは、それが必要ないってことをただ知ること、それだけしか必要ないからだ。そうすれば、それは自分に対してなされているわけではなかったとわかる。それはもはや苦しみじゃない。

でも最初は、ほとんどの人がこの認識を相手にしない。そうやってまったく取り合わないのは、僕らは望ましくない感情がまったく存在していない幸福感を期待して追い求めるようにたいていは条件付けられているが、その認識をしたとしても、そういう幸福感は生まれないからだ。

要するに、「単にこれだけなの?」という感じで反応する。そしてさっさと興味を失い、幸福感を求めて、望ましくないものが存在しない状態を追いかける。

この一回の認識が実際には即席悟りなのだが、それでも僕たちは今あるものにまた抵抗する。

思い出してほしいが、この記事のはじめに僕が言ったのは、即席悟りはすぐに可能だけど、それをつかんだり、何かの努力をしたりすれば、それは消えてしまうように見えるってことだった。

即席悟りを持続させたいのなら、その秘密はこの瞬間としてあり続けるってことだ。「あの」瞬間じゃない。記憶になってるあの瞬間とは違う。この瞬間だ。このたった今だ。

それをするための僕が知るかぎり最善の方法は、今起こっていることにただ直接注意を向けるってことだ。

ほとんどの人は思考を注視するのが習慣になっている。今起こっていることについてのストーリーを求めて、いつでも思考に頼る。

でも、今起こっていることに直接注意を向けて、それに注釈をつけず、ストーリーもつけずにいると、今起こっていることに抵抗したり、そこから逃げたりしようとする衝動に気づきはじめるはずだ。

そして念押しだけど、そう認識するだけで十分だ。

この実験を実際に自分でやってみようとはしない人たちが、すぐに思考の方に向きを変えて、反論に夢中になることもたまにある。よくある反論のひとつが (他にもあるのは間違いないけど) 、僕の勧めていることは難しく冴えない感じに聞こえるというものだ。

僕に言えるのは、それは僕の経験とはまったく違うってことだけだ。今起こっていることに抵抗するのは難しいし冴えない。今あるものにただ注意を向けると、その難しさと冴えなさが取り除かれる。

そこで見つかるのは、楽で生き生きとした感覚だ。

と言っても、僕の言葉をそのまま信じるのはダメだ。

自分で試してみてほしい。

このテーマについてさらに調べたい人は、僕の電子ブック Lose All the Wayを読んでみてほしい。すぐにダウンロード可能だ。ここをクリックすれば入手できる (※ 英文ページ)。

== 訳は以上 ==
 
ジョーイのebookへのリンクがところどころに置かれているが、英語だから読むのが大変な人も多いかもしれない。そういう人には、ジョーイの本の日本語版『これのこと』がおすすめ。またはもう少し大人な感じの表現が好きな人には、ジョーン・トリフソンの文章「今を探究する」『つかめないもの』を。

ちなみに、以前どこかに書いた気もするが、ジョーイのウェブサイトのリンクページには三つだけ非二元関連のリンクがあって、それはジョーン・トリフソン、トニー・パーソンズ、そしてガンガジだ。

 
【連絡】本や記事の感想など、メールで送っていただいた方々、ありがとうございます。最近あまり返事を書けていませんが、ありがたく読んでいます。皆さんに来年も良いことが起こりまくりますように!(または、御心がなされますように)

【おまけ】『オープン・シークレット』がミナトさんに読まれ、記事にされている。写真がなんとも言えず美しく、ため息。
自由の味わい (ITSELF)

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