ニサルガダッタのバクティ

 
インドのラマカント・マハラジを知り、彼の本を読んだり、動画を見たりしていた時期に、あることに気がついた。

ラマカント・マハラジが語る内容には、ニサルガダッタが I Am That (アイ・アム・ザット 私は在る) では言っていないようなことが含まれていた。信仰的要素というか、帰依的カラーが強いというか、ともかくニサルガダッタなら言わないだろうなあという感じのことを話す。

その頃、それと同時にニサルガダッタ・マハラジの本も読んだ。それまでは I Am That くらいしか読んでいなかったのだが、他の本も拾い読みしてみた。ラマカント・マハラジの教えに見られる帰依者的要素を探していたのかもしれない。

それで気がついたのが、ニサルガダッタ初の著書と言われている Self Knowledge and Self Realization という本の存在だった。(本の紹介ページ)

その本の目次にはこんな見出しが並ぶ。「神のビジョンと帰依者」「帰依者と神の祝福」「霊的至福」「バラクリシュナへの帰依と彼の保護」。ちょっと読んでみると、バクティ色が強く、ラーマクリシュナの言葉だと言われたら信じてしまいそうだ。

そしてこれは、ニサルガダッタがグルとして人々に教え始めて以降の1963年に出された (元はマラーティー語のものを後から英語に訳した) ものだから、自己を認識する前に書かれた戯言ではないはず。

後年のニサルガダッタからこのバクティ色が消えているのはなぜなのか、それはわからない。でも、ラマカント・マハラジがこの本の出版当時からニサルガダッタの教えを受けていたのは確かで、当時はそういう色合いが濃い教えだったのだろう。

なにかの理由でその要素を封印したのかもしれない。あるいは、ニサルガダッタも聴衆の需要に応じていただけ (または聴衆や場の要請に応じた形の非個人的メッセージが自動的に発出した) とも考えられる。

ともかくそのあたりの事情は推測してもわからない。わからないけれども、こういうのは面白い。こんなことを書くと怒られるかもしれないが、けっこういい加減なものだったりするのかも。この分野では必要以上の生真面目さ、深刻さは意外と役立たないのではないかなと、そんな気もしてくる。

それと、結局のところ、教えやメッセージとして形になったものはやはり真実ではありえない。どうやっても無理なんだろうと思う。自分の腕で自分の体を宙に持ち上げようとするのと同じで、原理的に不可能だ。その不可能性こそがそのまま真実を示しているのかな、などと考えると少しニヤニヤしてしまうのだが。

などと書きつつ、Self Knowledge and Self Realization の内容を思い返していると、無心で強烈な帰依に対する憧憬の念がどうしても湧き上がってくる。そういうモードに入りやすい時期なのだろうか。
 
 
【おまけ】「神様のかくれんぼ」で、トニー・パーソンズの『オープン・シークレット』に絡めて、彼と初めて話したときの話が紹介されていた (オープン・シークレット 2)。いろいろな「先生」がいるが、無料でいつでも電話の相手をしてくれるという一点で、トニーはやはりちょっと違うと改めて思う。お金を求めたらいけないとは思わないが、分かち合うことに対する情熱には素直に感動する。

【おまけ2】「changelog.biz」でも、トニーの本の関連記事が。ネタバレ回避の配慮、ありがとうございます (笑)
あることの非特別さ
 

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