フィリップ・ルナールさんの話 (4)

 
その翌々日だったか、フィリップの許可を得て、また彼の家に向かった。

その日にした話については、じつはあまりよく覚えていない。実際、イギリスでサッカー記者をしている息子さん (僕と同じ年代) の話をしていたくらいだから、半分は世間話だったのかもしれない。

ひとつ覚えているのは、アレクサンダー・スミットの否定的な側面について彼が書いたエッセイの話題だ。そのエッセイのなかで、アレクサンダーにも女性関係、金銭関係、そして権威的な面で問題があり、それはグルと弟子という力学のなかでは簡単に生じてしまう性質のものだから、教える側も教わる側も十分注意すべきであるとフィリップはユーモア混じりに訴えている。

アレクサンダーの分厚い対話集にかなり熱心な感じの序文を書いている人にしては、ずいぶん率直な批判だなと思い、よくそんな勇気がありましたね、と尋ねると、「あれは他の生徒たちからはずいぶん批判された。書いたことは今でも正しいと思っているけれども」ということだった。

ただし、グル的な存在の意義についてはフィリップは大いに認めていて、認識が伝播するという側面に関しても肯定的なようだった。それでも、依存的な関係が生じてしまえば、そこには真理探究とは別の力学が生じてしまうので、やはり注意深さは必要だという見方を示していた。

そんな感じでいろいろと話しながら、自分は何を求めてここに来たんだろう、と思っていた。Holy Sequenceの第二以降を「極めた」人がどんなふうなのか実際にたしかめてみたかったのか、それとも何かの方法を教えてほしかったのか。

最初の意図がどうであったとしても、その日の帰り道に感じていたのは、自分で見つけるしかないんだなという当たり前のことだった。もちろん対話や本には意味があるし、ミーティングにも娯楽以上の意味があるはずだ。それでも、最後は自分で見るしかない。どこかに何かを預けられると思っているかぎりはだめだ。

そんなことを考えていると、妙にすっきりして、それが心地よかった。

おしまい。

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