フィリップ・ルナールさんの話 (1)

 
グレッグ・グッドの『ダイレクトパス』の翻訳を進めながら、シュリ・アートマナンダ関係のことを調べていた時期があった。

その過程で、それまでは名前しか知らなかったフィリップ・ルナール (Philip Renard) という先生に関心を持った。ニサルガダッタ・マハラジのもとで目覚めたとされているアレクサンダー・スミット (1998年没) という人がいるが、その人を師と仰ぐオランダ人で、本をオランダ語で何冊か出している (今のところ英語の本はない)。

フィリップは、‘I’ is a Door という4部構成の作品をラマナのアシュラムの機関誌 Mountain Path に以前発表している。オリジナルはオランダ語だが、それを関係者が英語に訳したようだ。ラマナ・マハルシ、ニサルガダッタ・マハラジ、そしてシュリ・アートマナンダのそれぞれの教えにおける「I (私)」について論じているもので、それだけを数年前に読んだときはあまりよくわからなかった。

昨年の後半にその作品を再読すると同時に、彼の別のエッセイ (が英語に訳されたもの) をいくつか読んでみて、そのなかで示されている Holy Sequence (聖なる順序) という考え方に強く関心を持つことになった。

いま考えると、それはジョン・シャーマンの「自分自身を見る」メソッドを初めて実践してから半年くらいたったころで、混乱がいよいよひどくなっていた時期だったと思う。それで、何らかの指針のようなものを求めていたのかもしれない。

どんな混乱かは今もよくわからない。たぶん、どんな混乱かを説明できたらそれは混乱ではない気がする。

Holy Sequence とは何かといえば、それはまず自分とは誰なのか、自分とは何なのかを知ることが一番で、それ以外のことはその後でという考え方だ。逆に言うと、「それ以外のこと」を否定しないし、「その後」に何かすることがあるという意味にもなる。

昨日見たばかりのリチャード・ラングのインタビューでも繰り返し語られていたが、「自分とは何かを見ること、自分とは空っぽの空間であってどんな属性もないというのを見ることは本当にシンプルで、いつでも誰にでもできる」。それはたしかだと思う。それが強烈な至福体験や「別のリアリティ」として経験されるか、それとも当たり前の事実として静かに見られるかは別としても、そのこと自体はまったく争いようがないほど明らかだ。

それでも現に混乱が生じているとしたら、それは「見ること」だけでは十分ではないということになるのではないか、そんなふうに感じていた。

それが、第一に優先されるべきこと、そしてその後に起こることについて長年教え続けてきたフィリップ・ルナールという人に会いたくなった理由だったように思う。

それだけでなく、彼の書いたものを読んでいて、バクティ的な要素を感じたことも大きかったかもしれない。具体的にどの部分が、ということはないけれども、明け渡しの美、みずからを捧げきる潔さのようなものが端々に滲んでいる気がした。

その2に続く。

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