ジャン・クラインのインタビュー (4)

 
その3からの続き。これが最後。

== 以下、訳 ==

Q. 静寂と沈黙について聞かせていただきたいと思います。静寂と沈黙はスピリチュアルな生活の目標なのでしょうか。

A. 静寂と沈黙と言っていますが、誰かが静かになるわけでも、誰かが黙っているわけでもありません。ただ、静寂と沈黙です。この静寂はどのような人もどのようなものも参照していません。

Q. ということは、この静寂の中では行動も起こるのでしょうか。

A. はい。静寂というのはドアの蝶番のようなものです。身体はドアで、絶えず開いたり閉まったりしていますが、静寂が動くことは決してありません。

Q. T・S・エリオットはそのことを「回転する世界の静止点」と表現しました。修行に何も目標がないとしたら、まあ実際は修行すら起こっていないわけですが、スピリチュアルな生き方は一体何を目指しているのでしょうか。当然ほとんどの人たちは、私は悟っていません、解放されていませんと言うのでしょうが、そのために、今いるのとは違う場所に行かなくてはならないと感じます。そうすると、ある種のスピリチュアルな人生を送る必要があるように思えるのです。どのように考えればいいでしょうか。

A. 私に言えるのは、意識はしていないものの、私たちは根本的な自分によって絶えず誘われているということです。ですけれども私たちは勘違いをして、私たちを誘っているその感覚は、客観的な何か、あるいは努力や修行を通じて得ることができる状態や相対的な心の静けさなのだと思ってしまいがちです。私たちが追いかけるそういった状態は、真の静寂の代用品のようなものです。内なる要請に本当に誘われて、それに向き合い、そこを訪ねると、その瞬間にそこに持って行かれます。ただ一般的には、人々が探し求めているのは代用品です。

Q. あなたの言われているこのプロセスは、私たちが通常何かをするときのやり方とはかなり違いますね。普通であれば私たちはまず自分が何に向かっているかについて考えて、それから動く方向を決め、目的地に到着するために意志を用います。

A. そうですが、すべてのおこないにはある動機があります。その動機とは、自由になることだと私は思います。自分自身から自由になること、あらゆる葛藤から自由になることです。

Q. ということは、動機は良いものであるのに、していることが少し見当違いなのですね。

A. 観察の技術に熟練してくると、観察しているのは自分ではないということにまず気づきます。そして、自分が観察しているのではないということがわかると、すぐにプロセスから抜けます。ある瞬間、ある種の洞察が起こりますが、そこで自分があらゆる意志の作用から自由であること、あらゆる概念作用から自由であることがわかると、この満ち満ちたものの中で、この思考を超えた瞬間の中で、自分自身を感じるかもしれません。主に観察と注意を通じて、自分とは根本的には何であるのかを感じるようになります。

Q. 解放とはどのようなことなのでしょうか。

A. 簡潔にお答えしましょう。自分自身から自由であること、これが自分だと信じているイメージから自由であることです。それが解放です。自分はどのようなものでもないということを見て、この無に完全に調和しながら生きることは相当大きな爆発です。私の教えているボディアプローチは、言ってみれば美しい口実です。というのも、ある意味では身体は調律する必要のある楽器のようなものだからです。

Q. 私たち自身の無という曲を奏でるために調律するわけですね。

A. そのとおりです。解放とは、自分の不在という美の中で自由に生きることを意味します。ある瞬間に、見られているものも見ている者も存在していないことに気づきます。そしてそれを生きるのです。

Q. それが、あなたの言われている「心理的記憶なしに生きる」ということでしょうか。

A. まったくそのとおりです。

Q. この完全に開かれた状態で、そして自分自身のアイデンティティから自由になった状態で、すべきことをしながらこの世界で生きていくこと、家族を養いながら忙しい生活を送るといったことは本当に可能なのでしょうか。

A. ええ。自分は父親、母親であるとか、パートナー、夫であるといったイメージを抱えることなく家庭生活を完璧に送ることは可能です。子どもたちに対して自分とはどのようなものでもないのだということをしっかりと教えながら、親としてではなく友人として、愛のある関係を持つことができます。

Q. ヴィパッサナー瞑想を教えている人がいて、その人は臨床心理士でもあるのですが、こんなことを書いていました。「誰でもなくなる前に、誰かでなければならない」、つまり多くの人たち、現代の西洋では特にそうですが、機能不全の家庭で育てられた人たちは、多くの場合、非常に深刻な心理的問題、自己肯定感の根本的な欠如や、普通の意味での自己定義における葛藤や不確かさの感覚といったものを抱えていて、誰でもなくなる道を歩み始める前に、まずは心理的、感情的な強さを鍛える必要があるという意味の言葉です。究極的には私たちにアイデンティティはなく、私たちはどのようなものでもなく、この無の中で生きているのだとあなたが語るのを聞いて、振り向いて、「ああ、そうだよ、知ってるよ」と言うような人たちもいます。そういう人たちが言っているのは内側の空虚さ、自分自身が欠落した感覚や喪失の感覚のことであり、これは一種の病気です。誰でもなくなる前に誰かにならなければならないという点については、同意されますか。

A. まず見なくてはならないのは、自分がどのように機能しているかということです。そして、誰かとして、一人の人間として機能していることに気づきます。絶えず選択の中で生きています。これは好きだ、これは嫌いだといった心理構造の中に入り込んで生きていて、それは悲しみをもたらします。そのことを見なければなりません。自分の人格と一体化していれば、それは自分の記憶と自分を同一視していることになりますが、それは人格とはすなわち記憶だからです。私はそれを心理的記憶と呼んでいます。このことがわかり、この自然な明け渡しが起こると、人格は消え去ります。そしてこの無の中で生きていると、まったく違う何かが生じてきます。自分の人格の投影というところから生を見るかわりに、ものごとがあるがままに事実として自分の人生の中に現れてきます。そして、そういった現れは自然にそれ自体の分解をもたらします。人格とも心理的記憶とも一体化することがなくなりますが、機能的な記憶は残ります。そしてそのかわりに、宇宙的人格、超越的人格が、必要に応じて現れたり消えていったりします。あなたは現れる状況にしたがって反応する、ひとつの流れにすぎなくなります。

== 訳は以上 ==

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