ジャン・クラインのインタビュー (2)

 
その1からの続き。

== 以下、訳 ==

インタビュー

Q. ジャン、いくつかの点であなたとあなたの教えを興味深く感じています。第一に、最近では欧米の人たちがインドに行くことは珍しくなくなりましたが、そうなるよりもずっと前に西洋人であるあなたがインドへ渡ったこと、それからそこで高いレベルの認識を得たということです。どのようなきっかけでインドに行くことになったのでしょうか。

A. 葛藤のない状態で人々が生きている社会を見つけたい、と思っていました。それと、葛藤から解放された中核を自分自身の中に見出したいという気持ちもおそらくあったのではないかと思います。真実の予感、前触れのようなものです。

Q. インドにいるあいだに師と出会い、あなたはその人のもとで数年にわたって学ぶことになりました。スピリチュアルな生き方において、師の価値とは何でしょうか。

A. 師とは、自分は誰かであるという観念やイメージを持つことなく生きている人のことです。そこにあるのは機能だけです。機能している誰かは存在していません。それは愛情に満ちた関係であって、師は友人と似ています。

Q. スピリチュアルの道を歩んでいる人にとって、そのことが重要であるのはなぜでしょうか。

A. 一般的に言って、他人との関係には、何かを頼んだり要求したりすることが関わってきます。セックス、お金、それから心理的安全、生物としての安全といったことです。それが突然、あなたに何も頼まず、何も要求しない人に出会います。その人がするのは与えることだけです。

真の師は自分を師であるとは考えませんし、弟子を弟子として見ません。師と弟子の両方が、自分とは何かであると考えていないとき、そこには一体化、一体性があります。そしてこの一体性の中で、伝授が起こります。そうでない場合には、師は弟子の存在を通して師として存在し続け、弟子はいつまでも弟子のままでしょう。

自分は何かであるというイメージが存在していないとき、人は完全に世界にいながら世界に属してはいません。完全に社会にいながら、それと同時に社会から自由です。そのようなかたちで社会にいることができると、私たちは真の意味での創造的要素になります。

Q. あなたの先生はどのようなことを教えてくれたのでしょうか。

A. 師はマインドに明晰さをもたらします。それはきわめて重要なことです。マインドが何も参照せずにただ自然に単純に止まる瞬間が来ます。そこには静寂があり、その静寂を認識しながら生きられるようになってきます。

Q. 師がそのやり方を示してくれるというわけですね。その先生から瞑想やヨガの手法を学んだのですか。

A. いいえ。というのも、本当の自分というものは手法を通じて手にするものではありえないからです。手法を使えば、自分であるものから離れることになります。

Q. スピリチュアルの道という概念そのものについてはいかがでしょうか。道を歩みはじめ、決められた修行法に従い、やがて何らかの目標に到達するという考え方です。

A. そうした考えは心理学、マインドの領域に属しています。マインドを喜ばせるお菓子です。

Q. 修行をしなければ何も獲得することはできないという主張についてはどうでしょうか。

A. まず見なければいけないのは、あらゆる修行において目標、結果を投影しているということです。何らかの結果を投影していると、自分が投影しているものという概念作用の中に絶えず居続けることになります。根本的な意味で自分とは何かといえば、それは自然な明け渡しです。マインドは明晰になり、明け渡しが起こり、静けさがあり、愛の流れで満たされます。瞑想をしている誰かがいるかぎり、瞑想は起こっていません。瞑想者が消えたとき、そこには瞑想があります。

Q. つまり瞑想のテクニックを実践してしまうと、それによってそうした明け渡しを何らかのかたちで邪魔することになるわけですね。

A. まったくそのとおりです。

Q. どういう仕組みになっているのでしょうか。

A. それが邪魔になってしまうのは、獲得すべきことが何かあると考えているからです。ですけれども実際には、根本的な自分とは何かといえば、それは獲得できるものでも到達できるものでもありません。達成できるものが何かあるとしたら、それはマインドの中、知識の中にあるものだけです。その違いを見なければなりません。自分自身でいることは、知識を蓄積することとは関係がありません。

Q. いくつかの伝統では、禅もそのひとつですが、マインドを疲れさせるために瞑想をしなければなりません。瞑想を通じて、マインドは最後には消耗して、停止します。そうなったときに、言ってみれば何かが開きます。でもあなたが言っているのは、瞑想のプロセスがそうしたことの邪魔になってしまうということです。

A. ええ。そういった修行は結局のところ意志の力によって生み出されています。私にとって瞑想に意味があるとすれば、それは瞑想をしている誰かを探すということに尽きます。瞑想者が見つかったとしたら、つまり神、美、平安を探している誰かが見つかったとしたら、それは脳の産物にすぎず、そこには見つけられるものはありません。あるのは明け渡しです。そこに残っているのは静寂の流れです。修行を通じて、獲得を通じてこの静寂にたどり着くことはありえません。悟り、つまり理解として存在することは、瞬間的に起こります。

Q. この悟り、あるいはこの流れに達したあとは、つねにその状態の中に存在することになるのでしょうか。

A. つねにそうなります。ただ、それは状態ではありません。状態があるとき、そこにはマインドがあります。

Q. ということは、この流れの中にいるときにも活動は起こりえるという意味でしょうか。

A. ええ、そうです。活動と非活動です。時間を超えた気づきが、すべての活動と非活動の背後にある生命です。活動と非活動は事実上、この生命に重ね合わされているもので、存在を制約しています。この生命は目が覚めた状態、夢見の状態、睡眠の状態という三つの状態の背後にあって、吸う息と吐く息のかなたにあります。もちろん、「背後」や「かなた」といった言葉には空間的な意味合いがあるわけですが、そうした空間的性質はこの存在にはありません。

Q. ということは、あらゆる活動の只中で、この実在、この明晰さにあなたは気づいているわけですね。

A. ええ、「実在」はいい言葉ですね。あなたは実在なのですが、そのことに気づいていません。

Q. あなたは自分の教えをダイレクトウェイ (直接の道) とよく呼んでいて、古典的なヨガの伝統や仏教の大半の教えのような、あなたの言うところの漸進的な教えと対比させています。漸進的な教えの危険とは何でしょうか。直接の道がより真理に近いと考えているのはどうしてでしょうか。

A. 漸進的な道では、さまざまな手法を用いて、徐々に高次の状態を達成していきますが、マインドの中、主体と対象の関係の中にずっととどまることになります。最後に残った対象を手放したとしても、主体と対象の二元性の中に居続けます。ある種の空白の状態にとどまるわけですが、その空白の状態そのものが非常に精妙な対象になります。この状態にあると、主体と対象の関係を手放すのは非常に困難です。その状態に至ると、そこに囚われて、固定されてしまいます。そこにはある種の静けさはありますが、風味も味わいもありません。その状態から、対象が消え去って存在の中にある状態に移るためには、途方もなく実力のある師か、あるいは例外的な環境が必要になります。直接的な方法においては、究極的なものと直接的に接することになり、条件付けはその影響を徐々に失います。時間はかかります。

Q. 究極的なものが条件付けを溶解させるわけですね。

A. そうです。明け渡しが起こり、最後には存在にとどまります。

Q. どのような修行も妨げになるということですが、一方ではあなたは人々に修行をすすめています。ある種のヨガを生徒たちに教えていますし、一部の生徒に対しては、「私は誰か」と問うような自己探究をするように言います。これは矛盾しているように見えます。修行はするなと言いながら、修行の方法を教える。どのような修行方法を教えているのでしょうか。そして修行をするのは一体なぜなのでしょうか。

A. 修行をしようとするのも、修行をしないようにするのも、どちらも修行です。むしろ私が言っているのは、聞きなさい、注意を向けなさい、それから本当には注意を向けていないことに気づきなさいということです。日常生活の中で、自分が注意深くなかったということにある瞬間に気づくことがありますが、そうした瞬間においては注意深くなっています。その上で、自分がどのように機能しているかを見ます。それはきわめて大切なことです。完全に客観的になります。裁かず、比較せず、批判せず、評価もしません。聞くことに徐々に熟達できるようにしていきます。何も判断せず、何も参照せずに、自分の身体に耳を傾けます。ただ聞きます。日常生活のあらゆる状況に耳を傾けます。心全体で聞きます。ポジティブとネガティブとに分割して考えるマインドを使って聞くのではありません。全体から、包括的なところから見ます。生徒たちが普通気がつくのは、大半の時間はこのようなかたちでは聞いていないということです。この聞き方が私たちの自然なあり方なのですが。

Q. あなたの説明されている道は、「手すりのない高所の道」と称されることも多く、もっとも困難な道です。いま言われたようなことを始めようにも、どこから手をつければいいのか、普通の人間には見当もつかないはずです。おそらく、自分が不注意になっていることに気づく程度のことであれば、できる人も多いのかもしれませんが、その上で何をすればいいのでしょうか。理解すべきことが何もありません。

A. ええ、理解すべきことも、見つけ出すべきことも何もありません。ただし、困難な道であると言っても、それは見かけだけです。実際には一番易しい道だと私は思っています。

Q. どういう意味でしょうか。

A. 何かに耳を傾けるのは簡単です。というのは、それはマインドを経由しないからです。聞くことは私たちの自然な行動です。評価、比較は非常に難しいことですが、それはマインドの努力がそこに関わってくるからです。マインドを経由しないこのような聞き方をするとき、そこでは起こるすべてを迎え入れるということ、開かれていくことが起こっています。このように開かれていくこと、迎え入れることは時間を超えています。あなたが迎え入れることはすべてこの時間の無さの中に現れていますが、ある瞬間、自分自身を時間を超越したものとして感じ、迎え入れの中で自分自身を感じ、聞くこと、注意の中で自分自身を感じます。そのようになるのは、注意にはそれ自体の味わい、それ自体の風味があるからです。何かに対する注意があり、そうした注意以外にも何の対象もない注意もあります。見えるものがなく、聞こえるものがなく、教えることもなく、注意だけがあります。

Q. その純粋な注意の瞬間に、注意をしている主体を認識するということでしょうか。

A. 言ってみれば、選択や考えから完全に自由になったこの注意がそれ自体を参照します。なぜなら、それは本質的に時間を超えているからです。

Q. 禅の師である道元は、「逆方向を向いて、みずからの光を内側に向け、自己を照らしなさい」と言いました。この言葉はあなたの言われていることに似ている気がします。

A. そうですね、ただし気をつけなければいけません。頭を内側に向けるというのはまだ何かをしています。内側も外側も実際には存在しません。

Q. あなたは「注意」という言葉を使われていますね。これは仏教で言うマインドフルネスと同じことでしょうか。あらゆる瞬間、あらゆる感覚、あらゆる思考に鋭敏に気づいているという。

A. マインドフルネスで主に強調されているのは、対象、つまり知覚されているものの側であり、知覚することそのものではありません。知覚することは対象には決してなりえませんが、それは、何かを見ている目がその見るという行為そのものを見ることができないのと同じです。私がお話している注意には対象がなく、方向がなく、その中には知覚されるあらゆるものが潜在的に存在しています。マインドフルネスは主体と対象の関係を示していますが、注意は非二元的です。マインドフルネスは意図的なものですが、注意は心の真の状態であり、意志の働きから自由です。

== 訳は以上 ==

次へ続く。

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