ジャン・クラインのインタビュー (1)

 
数ヶ月前に本棚の整理をして、段ボール二箱分の本を処分した。古い雑誌や実用書と一緒に、非二元の本もけっこう手放した。が、ダグラス・ハーディング、ニサルガダッタ・マハラジ、そしてジャン・クラインの著書は迷わず全部キープ。合わせると30冊以上あって、かなり場所を取っているが、この3人のものは捨てられない。

2000年以降に量産されたいわゆる「ネオ系」は味が足りないというか、読みものとしてイマイチなものも多く、今後読み返しそうな気がしない本は売却した。

それはいいとして、ジャン・クラインの本を読んでいると唸ってしまう。2行か3行読むごとにストップして、宙をにらむ。そして呼吸をしていることの面白さを唐突に思ったりする。だから全然進まない。

そのジャン・クラインのインタビュー記事は、だいぶ前から訳してみたいと思っていたが、いろいろあってズルズルと手をつけられずにいた。「いろいろ」の中には、日本語にするのが恐れ多かったという理由もある。

でも、訳してみることにした。Wake Up Nowのステファン・ボディアンによるインタビューで、Yoga Journal誌に掲載されたもの (冒頭の紹介文は後になって追加されている)。長いので何回かに分かれる予定。ジャン・クラインは1998年に亡くなっている。

原文: Be Who You Are: An Interview with Jean Klein

== 以下、訳 ==

自分であるものとしてある – ジャン・クラインのインタビュー

ステファン・ボディアン

ジャン・クラインと初めて会ったのは1988年の春で、彼の対話の集まりに行ってみないかと仏教徒の友人から熱心に誘われたのがきっかけだった。当時の私はアドヴァイタ・ヴェーダーンタについては何も知らなかったし、先生を探すつもりもまったくなかった。それどころか、仏教の修行を20年近く続けた結果、仏教の伝統の中核をなしている師弟関係という考え方に幻滅するようになっていた。当時の私が知っていた師たちの多くが、弟子たちを操り、食い物にするために権力と権威を利用していたし、私が禅僧であるのをやめたのも、次第に自分に押し付けられるようになっていた師というアイデンティティや役割がしっくりこなくなったからだった。ジャン・クラインの対話の会に初めて参加したとき、私の内側では好奇心と懐疑心が混じりあっていた。はじめ私は、ジャンの言葉の使い方 (それはそのころの私が親しんでいた仏教の用語とはまるで違うものだった) 、そして弟子たちのうっとりした様子やあからさまな追従ぶりにうんざりした。参加している人たちは伝統に従った瞑想をしていなかったし、世間から離れることが強調されているように思えた点も愉快には感じられなかった。たしかに、単純さや直接性、そして儀式も袈裟も香もないという点については気に入ったが、これはカルトなのかもしれないとも感じた。それでも、形式にとらわれない自由の感覚を感じることができ、ジャンの集まりには何度も足を運ぶことになった。

ジャンという人をもっと知るため、そしてヨガに関する彼の独特な見方を読者に紹介するためのひとつの試みとして、私はジャンにインタビューをしてヨガジャーナル誌の記事にすることにした。彼が滞在している家に着くと、パステルカラーのジャンプスーツに身を包んだジャンは私に向かって階段を駆け下りてきたが、そのときの力強さとしなやかさは76歳という彼の年齢の半分程度の人のものだった。話をしている最中、彼が毎瞬見せる開かれかた、くつろぎかた、愛嬌、そしてものすごい集中力に私は惹きつけられた。ジャンはまったく何も守ろうとしていないように見えたし、どんな立場も意図も持っていないようだった。そして彼が発する言葉は、頭脳や学んだことからではなく、静寂という深い源泉から現れ出て来ているように感じられた。私は興味をそそられた。(そのインタビューの様子はこの紹介文のあとに掲載している)

それから何ヶ月かたって、8日間のリトリートの途中で一緒にお茶を飲んでいるとき、私は直感的に気がついて衝撃を受けた。この人は私のことを自分の生徒だとは思っていないし、自分のことを先生だとも思っていないのだ。それどころか、彼は自分をひとりの人間であるとも、何らかのものであるともまったく考えていない。ひとつのアイデンティティの中にしっかりと落ち着きながらさまざまな意図を持っている教師たちから、彼ら自身の体系の中で生徒をどう扱うかという観点で見られることに当時の私は完全に慣れてしまっていた。だが、いま自分の目の前にいるのは空っぽで、透明で、何も求めていない人 ― 別の言葉で言うと、私が出会ってきた仏教の師たちの大半とは違い、空の教え、無我の教えをまさに体現している人だった。それが、探していたとは自分でも認識していなかった師に出会ったことに私が気づいた瞬間だった。

それからの10年間、私はジャンの教えを学ぶこと、そして彼が触媒となってはじまった目覚めのプロセスにみずからを捧げた。禅でかなり謎めいた表現方法や修行が重んじられているのとは違い、ジャンの言葉は言葉を超えた真実を直接指すもので、彼の対話の集まりやリトリートでは沈黙が長く続くことも多かったが、それは私にとっては特に示唆に富むものとなった。このあと紹介するインタビューは、ヨガジャーナル誌に掲載された二度のインタビュー (何年か間があいている) をつなげたものだが、ジャンが「ダイレクトアプローチ」と呼んでいた方法について簡潔に説明されている。(このインタビューと元の序文は私の著書 Timeless Visions, Healing Voicesから抜粋した)

序文

ジャン・クラインは、ヒンドゥー教の哲学的頂点であるアドヴァイタ・ヴェーダーンタのマスターだ。この究極の非二元の教えによると、宇宙全体が本質的にはひとつの現実、意識、あらゆる存在の真の自己であり、その真実に目覚める力は私たちすべてに備わっている。

ラマナ・マハルシ (1879〜1950) やニサルガダッタ・マハラジ (1897〜1981) のような20世紀の傑出した先行者たちと同じように、ジャンも伝統的な用語や教義は使わず、自身の経験から直接語る。実際、同じ単語や言い回しを長期間にわたって使い続けると、学ぶ側はそれに執着するようになり、そうした言葉が指している現実をとらえそこなってしまうことがわかっているため、表現を超えたものを表現するための新たな方策をジャンはつねに探している。真のアドヴァイタの様式にしたがって (そして禅の初期の師たちの「直接的指し示し」とほとんど同じかたちで)、彼の話しぶりそのものに、私たち自身の本質にそれがたとえ一瞬であったとしても目を開かせてくれる力がある。

直接会うと、ジャン・クラインには子どものような活力、若々しさ、注意深い好奇心がある。彼は英語をゆっくり話すが、そのアクセントには母語であるチェコ語、学校時代に学んだドイツ語、大戦の前から住んでいたフランスとスイスで話したフランス語が混ざり合っている。若い時代の話を彼はほとんどしないが、それは自己の本質を知るという重要なワークにおいてはそのことは重要でないと信じているからだ。

最新刊である Transmission of the Flame の中で、ジャンは二つの大戦に挟まれた時期にチェコスロバキア (のちにウィーン) で過ごした幼年時代の牧歌的な生活について書いているが、生涯続いている音楽への強い関心はその時期に育まれ、バイオリンの練習をはじめたのもそのころだという。ベルリン大学では音楽の勉強を続けながら、医者になるための準備もしていた。ナチスが政権についたとき、ジャンは家族を連れてフランスへ逃れ、それからアルジェリアへ移り、終戦までアルジェリアに留まった。

だが、青年期に彼の内側ではじまっていた内なる探求は西洋では成就せず、1950年代の初頭に妻と二人の娘を連れてインドに渡り、そこで自己探究を助けてくれる文化を見つけようとした。インドに着いて間もなく、バンガロールでジャンはサンスクリット語の教授に出会い、その人の落ち着いた率直さ、謙虚さ、力の抜け具合いに感銘を受けた。何度か訪ねたのち、ジャンがパンディジと呼んだその教師は彼に自身の真の性質を直接認識させ、そのあと3年間にわたって彼はその認識を深め、明確にすることになった。

この期間、クラインは不知の中できわめて真剣に生きながら、開かれた態度と感受性とともに、「結論を組み立てることなく」世界を見ていた。そしてパンディジとも定期的に会い続けたが、それはときに「思考を疲れ果てさせる」ような長い会話というかたちをとることもあれば、沈黙の中でただ一緒にいるというかたちをとることもあった。「パンディジの存在が伝授でした」とクラインは言う。「真の師の場合、それが伝授のすべてなのです」

そしてボンベイにいたある日、クラインは空を見上げ、飛んでいく鳥の姿を見たが、そのとき一瞬にして、それまでは一時的なものにすぎなかった開放性の中で永遠に目覚めている自身を見出したのだった。

1957年に、パンディジのすすめにより、自身の認識をほかの人たちと分かち合うためにクラインはヨーロッパへ戻った。だが何年ものあいだ、彼はどんなセンターも組織も作らなかった。そのかわりに好んでいるのは、ヨーロッパ6ヶ国と米国をまわって、彼に教わろうと集まった人たちの質問に答えたり、独自のハタヨガを教えたりするスタイルだ。Who am I? や The Ease of Being など、対話を集めた本がこれまでに6冊出版されている。

クラインが教えているヨガの手法を彼はボディワークまたはボディアプローチと呼んでいるが、それは物質的な身体とエネルギー体あるいは微細身のあいだの接点を丁寧に非指示的に調べるというものだ。「感覚に寄り添いなさい」と、彼はアーサナや準備のポーズを指導しながら生徒たちに言う。「頑張ろうとか、何かを得ようという態度で臨まないように。生き生きとした感覚をそのままにして」。

クラインによれば、目指しているのは柔軟な身体でも正しいポーズでもなく、くつろいでいて、開かれていて、広がりをもった心身であり、それによってスピリチュアルな洞察や目覚めが受け入れやすくなるという。たしかに、クラインにとってハタヨガは言ってみれば「教育上の仕掛け」であり、自己認識の「炎を伝授する」というもっと大きなワークにおける合理的手段なのだ。それでもクラインは彼の言うところのこの「気晴らし」を熱心に続けていて、その教え方は精力的であると同時に細やかなものだ。

クラインが思考や感覚と身体の動きのつながりに最初に関心を抱いたのは、大学で音楽と医学を学んでいたときだった。インドへ向けて出発するころには、彼はすでに「身体内に散らばったエネルギーに方向づけをするための動き方」を探究しはじめており、パンディジのもとで学んでいた期間にも、ハタヨガを学ぶために世界的に著名な賢者シュリ・クリシュナマチャリヤのもとへ何度か足を運んだ。そして、エネルギー体に働きかけるカシミール式の方法の手引きを、バンガロールで出会った遊行僧 (沈黙の聖者) から受けた。だが、身体に関する理解を正確なものにするのをこの二人が助けてくれたことは認めながらも、彼にとっての真の師は現実の本質を認識させてくれたパンディジその人だけであると、クラインはすぐに指摘した。

== 訳は以上 ==

次へ続く。

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