最新刊からの抜粋 トニー・パーソンズ

 
昨秋、トニー・パーソンズが新刊を出した。This Freedom (この自由) という本で、ミーティングやリトリートでのトークと質疑応答をまとめたものだ。

3年か4年前にウェールズでのリトリートに参加して以降、彼のトークにはほとんど接していなかったのだが、表現の様式に変化はあるんだろうかという興味で入手した。

面白かったのは、質疑応答集の前にトニーの文章が載っていて、そこに奥さんのクレアへの賛辞がかなり率直に書かれているという点。

「クレアはすごい」「トニーと話すよりもクレアと話すほうがいい」といった言葉はリトリートで何度か耳にしたことはあったが、トニー本人が手放しとも言えそうな賞賛を彼女に対して送っているのを見た記憶はない (リトリートやミーティングの事務的な面での功労に対する一言は毎回あるが)。

80代の半ばに近づきつつあるトニーが、「後継者」としてのクレアを宣伝しているのかな?などという穿った見方もできる。でも、単純にそう思っているんだろう。ただ、「そんなのはストーリーにすぎない。絶対的に無意味だ」といつも言い放っている人だけに、そんなことを本に書くのかと意外な気はした。

そんな本の抜粋がウェブサイトに少しだけ載っている。訳してみた。

原文: Excerpts from the new book ‘This Freedom’

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新刊『この自由』からの抜粋

今日ここで皆さんと一緒にしようとしているのは、「自分」という偽りの構造物、その構造物は実在しているし本当に自分で選択できるのだという錯誤的感覚、そして充足を求めてその構造物がおこなう努力の馬鹿馬鹿しくも素晴らしいくだらなさ、そうしたものの正体を暴露することです。「自分」は有限の世界にいるんだ、主体と客体で構成された世界に生きているんだという観念に光を当てていきます。「自分」はそうした世界の中でしか存在することができません。「自分」が存在できるのは、自意識を持つことによってです。きわめて幼い時期に、自意識は「わたしは自分自身に気づいている」と言いながら主導権を握ります。その自意識は大きくなって、さらに発達していきますが、そうなったときにそれが求めるものは、収縮した現実という個人的経験によって制限されたものになります。自意識は、これこそ現実にちがいないと勘違いしている偽の有限な経験の中で無限を探し求めることになります。

そして探求者は、自分が主体だという視点からずっと探し続けます。探求者が絶えず探しているのは、自己充足という名のひとつの対象です。私たちが今日ここで話し合うのは、こうした努力全体が、「自分」というものの性質のために、まったく完全に無意味だということです。ここから出てくる応答は、つねに、そこに「自分」が存在しているという錯誤的な夢について指摘し、別の可能性が現れうるということに注意を向けさせるものになるでしょう。

Q. つまり、探求者は探求をやめなさいと言っているわけですか?

A. このメッセージは、探求しなさいとも探求するのをやめなさいとも言いません。「自分」のエネルギーには、家を探してそこに戻ろうとすることしかできません。それ以外には何もできません。全体性を失ってしまったように感じたときに、「自分」のエネルギーにできるのは、全体性をどうにか見つけ出そうとすることだけです。清らかさの極限に達することができれば、まあそんなことはマインドの創作話にすぎないわけですが、そうすれば自由を手にするのにふさわしい人間になれるはずだと人々は考えています。それが「自分」の抱えている問題です。清らかになるという考えは「自分」のお気に入りですが、それは自分には価値が無いと「自分」が信じているためです。何かになることについての教え全体が、「自分」は変わる必要があるという誤った考えをもとにしていますが、実際のところ「自分」というのは、全体性が「自分」という見かけをとっているだけです。「自分」には意味もなければ目的もありません。

見かけ上の自己は、その個人的経験、認識、自意識を通してしか現れることができません。そのため、より深い意味を見つけ出そうとする探求は、その見かけ上の自己が自分で認識できる範囲、経験できる範囲から絶対に出ません。そうした制限を受けながら、さまざまな教義、セラピー、イデオロギー、スピリチュアルな教え、信念体系に探求者は出会うことになります。それに加えて、静寂、沈黙、至福、気づき、とらわれの無さといった認識や経験が起こることもありますが、そうしたものすべては日が暮れてまた日が出るのと同じように、やって来ては消えていきます。

そのような教え、勧め、処方箋は、いずれも探求者に対して答えや方法を与えようとしますが、それが与えようとしているのは、知りようのないことについての答えであり、一度も失われたことがないものを見つけ出す方法です。

Q. エネルギーが収縮しはじめる場合、危機状態にあるという感覚が必ずそこにはあるのではないですか?

A. 分離の瞬間というのはきわめて強力で非常に恐ろしいものですから、私たちはそれを忘れてしまいます。全体性から切り離されるほど嫌なことは他にありません。誰かに恋をしたのにその人に冷たくあしらわれたとしたら、それはものすごくつらいことです。ですが、全体性から追い出されるつらさは、それよりもずっと強烈です。「自分」にはその分離の瞬間を思い出すことは絶対にできません。奇妙なのは、そのストーリーの背後に、何か別のものの感覚、失われたように感じられる何かとの共鳴の感覚があるということです。「自分」はいつかまたそれを見つけるはずだという確信があります。「自分には大きな力があるんだから、人生がうまくいくように自分でどうにかできる。思考や感情が自分のものである以上、悟りも自分のものにできるんだ」。それは、「自分」が悟るということをめぐる教えを学ぶというストーリーの一部になります。ですが、ある意味では、「自分」がしようとすることすべてが、その分離というひどい喪失に対する埋め合わせなのです。

Q. 分離、気づき、瞑想についてもう少し話してください。

A. 気づきは分離の仲間です。気づきはひとつの機能であり、その機能が生じるためには気づいている対象が必要になります。気づきが生じるとき、そこには対象に気づいている主体があります。それが気づきです。気づきを深めなくてはならないというのは誤った考えです。自己探究という仕組み全体が分離を強化します。一般的に、集中した気づきの状態、または集中した認識の状態にとどまろうとするのは不可能だとされていますが、それはそうしたものはいずれも機能的な状態であり、それはその本質から言って永続しないものだからです。集中した気づきの状態にとどまろうとしてもうまくいきませんが、その失敗によって自分には価値がないという感覚が強まります。

瞑想はそれとは少し異なった概念です。でもやはり何かを手に入れようとしています。ここで伝えられているのは、誰も存在していないし、できることは何もないということ、道はないということ、それだけです。

Q. でも「私/自分」はどのようにしてそんな大きな誤りを犯すことになったのでしょうか。

A. 誤りを犯した人はどこにもいません。エネルギーが個人として現れただけです。誰の仕業でもありません。「私」は何かを失ったかのように感じて、そのためそれはひとつのアイデンティティとなって、自分には何か間違った点があるに違いないと感じます。そうなると、「私」は何が間違っているのか、そして自分を良くするにはどうすればいいのかを見つけ出そうとしはじめます。これは誤った前提にもとづいた、まるっきり無駄な行為です。

Q. それはわかりますが、それでも私は探し出したいんです。

A. 「私」とは探求です。その探求は無意味なんですが、「私」には探すことしかできません。というのも、「私」は絶えず気づいているから、つまり分離しているからです。何かの拍子にこの絶対的ジレンマの本質が明らかになり、こうしたことすべての馬鹿馬鹿しさが認識されることがあります。すると、「ああ!」という瞬間があって、もしかしたら何かが崩壊する可能性もあります。見かけの上で。

Q. 恐れによってそれが起こらなくなることはありえますか?

A. 「自分」はその認識、崩壊が起こらないようにするためにあらゆる手を尽くします。「自分」がこのメッセージを受け入れることは当然ありませんが、それは、このメッセージが意味しているのが「自分」の死だからです。これが起こるのを止めることができるものは何もありません。なぜなら、それは起こることではないからです。「自分」がふいに崩壊するとき、そこで瞬間的に認識されることがあり、その認識は誰のものでもないわけですが、それは、崩壊できるような誰かも何かも一度も存在したことがなかったという認識です。大変な恐怖が生じることもありえますが、それは「自分」が明らかに非個人的なものだからです。「自分」は、自分は大丈夫だと確かめたいのです。

つまり、自己とは全体から切り離された探求者であり、それは知ることができること、することができそうに思えることなら何でもしようとします。自分自身の不在だけは別ですが。その不在が空っぽさであり、それは理解を超えたものですが、逆説的なことにその不在はまさに満ち満ちたものであり、ずっと探していた全体性なのです。

== 訳は以上 ==

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