実感の話

 
『体の知性を取り戻す』 (尹雄大著) を読んだとき、もっとも興奮したのが、実感に関するくだりだった。実感は間違いのもとになりうるのだという。

それまでは肯定的にしかとらえたことがなかったから、実感が大きな問題になりうるという指摘には驚いたが、それと同時に頷ける部分がどこかにある。

どう頷けるのかなあと少し考えてみたものの、ここには実感を欲しがっている自分がたしかにいる。生きる実感。自分が何かをしている実感、わかったという実感、うまい!という実感などなど。

たぶん、実感そのものが問題になるというよりも、実感をどう扱うかという部分が誤りを生むという話なのかなと思う。実感を対象化してしまうような扱い方。

実感は、起こった途端に過去のものになる。ただ、実感だけに残響がある。絶対につかまえられないものなのに、つかまえられるものであるような気がしてしまう。

さらに、それを未来にまた起こることとして期待する。実感中毒だ。そうやって今が「お留守」になり、まんまと実感の罠にはまる。

でも、そんな単純な話なのだろうか。ちょっと違う気もする。

実感は、そこに注意が集中することによって、それに気づいている主体のほうへの気づきがおろそかになりがちだ。対象への関心が過剰になって、前のめりになり、主体がお留守になる。

そう考えることもできるだろうか。ちょっとわからない。

何がきっかけだったか覚えていないが、アレクサンダーテクニック教師の芳野香さんという人の『アレクサンダー・テクニックの使い方』を最近読んだ。2003年の本。まえがきの段階で「これは10年に1回しか会えないすごい本だ!」という感慨で深いため息をついてしまったほどだったが、夢中になって読んだ。

その本にも、実感についてのこんな記述が出てくる。使われているのは「実感」ではなく、センセーションという言葉だ。

しかし、そのセンセーションにおぼれることは、全く本質的ではない。感覚的な落差やインパクトにのみとらわれることは、新たなとらわれを生み出すだけである。

よみがえるのは、大学2年か3年のころの記憶だ。何かのきっかけで、圧倒的な理解、「そうか!そうだったのか!」という認識がつぎつぎとやってきて、狂喜した。後になると、その内容が何だったのか思い出せないという不思議な体験だったが、その快感が忘れられず、そのときと同じような環境を準備することでその実感の再現を目指す時期が続いた。

20代後半に自己啓発系のあるセミナーに出たときにも、合間の休憩時にそんな経験があった。それは理解ではなかったが、自分が溶けるような、背景にあったものが突然前面に出てきたような体感をともなう時間だった。たぶん1分ほどで終わったが、それを再現したくてしかたない時期もけっこう続いた。

または、2年ほど前のできごと。車で走っているとき、「これしかないんだ!すでに全部あったんだ!答えを求める必要なんてなかったのか!」という認識がいきなり押し寄せてきて、涙がドバドバ溢れ、嗚咽し (呼吸困難気味)、世界がギラギラと輝いた。数分続いたあと、それはどこかへ消えた。強い印象が残ったが、そのときは「体験は過ぎ去るもので、それはどうでもいい」ということをジョーン・トリフソン等からすでに繰り返し聞いていて、それがなんとなくわかっていたから、再現を望んだり、追いかけたりということは起こらなかった。

「自分はいない」とか「自分は世界だった」とか「時間はない。今があるだけ」という一瞥を得た人が、それを何年も追いかけるという話はよく聞く。それだけ強烈であり、快感なんだろうと思う。でもやっぱり、それは体験、経験で、抱えられるものではない。抱えられるとしたら、その時点ですでに別のものになっている。

数年前のロジャー・リンデンのリトリートで、彼の「エネルギー」のせいなのか、クラクラするような体感に満たされて、世界の枠組みがあやふやになり、それが何かを意味するような気がして、彼に「すごく深い経験をした」とかそんなことを伝えた。

すると彼は5秒ほど黙ったあと、一言だけこう言った。

There is no deep experience. (深い経験というものはないんだよ。)

そのあと、キョトンとしている僕を見ながら、ロジャーが少し説明してくれたような気もするが、どういう言葉だったかはあまり覚えていない。ただ、深さはなく、深いという感じがひとつの感じとして起こっているだけで、実際にはそれは深さではなく、そういう「深い」という内容を伝えているひとつの感覚なのだ、という意味だと理解した。

それが実感とどう関係あるのか、今のところはどうもよくわからない。なんとなく関係している気もするし、そこを追究すること自体が実感を求めることなのかも、という感覚もある。

それと、過去の「実感」の再現を求めるとき、その求めることの中で見逃されていること、見落とされていることこそが、じつは本当に求めているものであって、その見逃しているものとは何かといえば、今の僕の印象では、それこそがジョン・シャーマンが見ようと提案している自分自身なのかなと思う。

そう感じたのは、20代のころのあの体験は何だったんだろう、というひっかかりが、ジョン・シャーマンのメソッドをやったあと消えてしまったからだ。(逆に、そのこだわりがずっとどこかに残っていたことにそのとき気がついたとも言える)

誰かは忘れたが、一瞥のあとの理解、認識を、出てくるたびにポイポイ捨てています、と伝えてくれた人がいた。それを思い出す。

捨てちゃうのー!?とそのときは思ったが、そこに自由があるんだろうなと今は思う。実感からの自由は、抱えることからの自由なのだろうか。

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実感の話」への8件のフィードバック

  1. ヒロさん

    実感がリアルでないなら、何がリアルなんだ?ってことになると思うのですが、「ありありと実感している」状態は「実感に注目している」だけで、実は大きな見落としをしている状態なんだと思います。

    私この1年程武術的な身体の使い方や、身体を「当たり前に使う」ことを探求する講習会に通っていて、尹さんが続けてらっしゃる韓氏意拳も一度体験したことがあるのですが、そこで教わる概念や観念に囚われない自然な動きが出来た時にはいわゆる実感が無く、何処から湧いてくるのかも、またどんな感じとも形容し難い爽快感なんです。もしかしたら、「頭のない」感じに近いのかもしれません。
    頑張って出来る様になるものでは無いし、日常の様々な刺激に曝されたらとても保てない感覚なのですが、その実感を伴わない感覚の体験を重ねていったことで、自分自身の質感が以前より軽やかになった様に感じます。実感を求めることから解放されて楽になったのかもしれません。
    ワクワク、ドキドキ、キラキラ、的な感覚とはすっかり縁遠くなって、良くも悪くもフラットに、どんな感慨もサラサラと流れて行ってしまって留められない、最近すっかりそんな状態です。
    (あまりにも淡々とし過ぎやしないかと、自分でも半ば呆れていますが(苦笑))

    しかも気づいたら自分という感覚を時系列でまとめられなくなってしまっていて、まぁ(自分では)それほど困ることは無いから良いか、という。。。(笑)
    ひとつだけ地続きで残っているのは、時折心も体も調子の良い時に感じられる「沁み渡る様なせつなさ」で、これさえあれば生きていけるなぁと思います。浸りっぱなしだと社会復帰出来なそうな危うさのある感覚ですけれど(笑)。

    韓氏意拳、理解不能(笑)な面白さがありますよ。ぜひ一度体験してみて下さい。

  2. inglewolfさん、貴重な体験談、どうもありがとうございます。

    形容し難い爽快感、とはいいですね。尹さんの本に書かれている境地と同じ感じがします。僕は超運動嫌いなので、韓氏意拳はしないと思うのですが、理解不能な面白さとはかなり魅力的に聞こえます。

    やっぱり、目ウロコ的な実感、落差を求めているのかもしれません(笑)

  3. ヒロさんこんにちは
    私もアートの世界に身を置いている事もあり、ずいぶん長い間
    感動、感激、実感(またその表現)というものを求めてきたようにおもいます。
    インドでOSHOに会ったとき、自分でも訳がわからず号泣してしまい、人前ではずかしいにも関わらず、涙、鼻水が止まらず、
    魂が喜んでいるような実感を体験をしたことがさらにわをかけたかもしれません。
    おととしくらいにメルボルンでボブに会って以来、すべてのこと
    がどうでもよくなりました。こういうと投げやりに聞こえますが
    高尚なことも、下品で俗なことも、いままで価値があると信じていたことも、無価値だったものも大差なく、フラットに切れ目なく感じるようになりました。
    仕事も日常生活も楽しいですが、自分でもこのフラットな感覚は意外だったので、ボブに再会したときに「モーツァルトの感動的な曲を聴くのも、往来の騒音を聞いているのも、本質的にはまったく同じ体験なの?」と聞きました。
    ボブは「Real experience is No experience.」(本当の体験は無体験だよ)と応えていたのを思い出します。

  4. あんつさん、こんにちは。

    強烈な実感は、ものすごく偏ったものが正されるとか、とんでもないことを見落としていたと気づくとか、何らかの落差がそこにあったからこそ起こるという面があるように思います。そうだとすると、その実感を再現するのはけっこう難しいはずです。

    フラットさは、あまり追いかける気にはならなそうですが、切れ目のなさというのはとてもいいですね。実感がないというよりも、すべてが実感になるというか。Real experience is〜という言葉に通じるような気もします。

    コメントどうもありがとうございました。

  5. ヒロさん、こんにちは。

    どうしてもお礼がしたくて、コメント欄に書きます。

    「これのこと」を拝読しました。

    苦しみの中、たくさんの本を読み、もがき続け、
    探究してきましたが、「これのこと」を読んで、
    ついに、探究の終わりを迎えたようです。

    覚醒体験や、見性体験といった劇的な体験が生じては
    いませんが、読み進めて、ジョーイ言うの通り調べていったら、「これ」と「自分はいない」が腑に落ちました。

    私にとって、救いの本になりました。
    素晴らしい本です。

    ありがとうございました。

  6. はじめまして
    (はじめてだったか、以前コメントしたか忘れました)
    グレッグ・グッドの「気づきの視点に立って~」を読んでいるのですが
    途中に出てくる(注1) (注2) … というのは著者による注なのでしょうか?
    それとも訳者による注なのでしょうか?

    (注3)にある「ラクナウ病」というのが読んでいて驚くのですが
    最近話題になってるある方も、文章に何故か「私」という表現を使わないのが
    気になりました。

  7. 秋映さん、こんにちは。「訳注」となっていないかぎりは、すべて原注(著者による注)です。

    本の中のラクナウ病云々は、古い思い出話の体裁を借りたジョークのようなものなので、今の時点でそんな人がいるとしたら冗談にもならないですね。

    takaさん、こんにちは。

    わざわざどうもありがとうございます。本がひとつのきっかになったようで、とても嬉しいです。ジョーイにも伝えておきますが、彼も喜んでくれるのではないかと思います。

  8. ラクナウ病はジョークですか。 てっきり精神医学用語かと思いました。(笑)

    韓氏意拳は数回体験したことがあります。 実感とか手ごたえを求めるのとは違うワークといったらいいでしょうか。 その頃、ストレス解消したい状況にあった私にとっては、あまり役に立たず止めてしまいました。

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