屈辱 ジョーン・トリフソン

 
昼間に非二元の書籍を訳している反動で、夜になるとエッセイや文学が読みたくなる。特に秋風が涼しくなってきた近頃は、ベッドに寝転がって虫の声をBGMに本を読むのがすごく幸せな時間だ。

最近とても面白かったのが村上春樹と河合隼雄の対談本で (読むのはたぶん二度目)、後半のどこかのページを読んでいたとき、何だかわからないものすごい解放感と不可思議さと「これだ!」という感覚が一瞬やってきた。

感覚だから1秒で去っていったけれど、それはたしか10代後半にも何度か起こったことだった。高3の夏に知床のキャンプ場で『共同幻想論』を読んでいたとき、それから大学1年のときにネパールの山の村で『共産主義の系譜』を読んでいたときにも、それは来た。何かがパッと開く。耳の中の水が抜けたような、存在にも気づいていなかった塊が崩れたような快感。

そのいずれもがまったく予期しないときに起こり、そしてその箇所を読み返してみても、何がどうその原因になったのか全然わからない。

そのミニ版が昨晩も起こったのだが、それはジョーン・トリフソンのBare-Bones Meditationの最後の数ページを読んでいたときで、読み返してみても、やはり「これの何が?」という気がする。

でもそのことは関係なく (関係ないのかよ!) 、印象的だったから1ページ半ほどのその文章を訳してみたい。p.236の終わりからp.238のはじめ。

なおこれは、ジョーンがいくつかの出版社に送っていたこの本の原稿が、正式に本になることが決まって、ジョーンが浮かれると同時に不安にも襲われてアップダウンが大変で、という話の続きとして出てくる部分。

== 以下、訳 ==

私は失敗には馴染んできたものの、成功には不慣れだ。まったく新しいテープの音声が流れはじめ、まったく未体験の課題がやって来て、そしてこれまでにない屈辱を受ける可能性が出現する。ユベール・ブノワの本の一節、読んだときに心を打たれたその一節がよみがえる。ブノワは、否定的な心理状態はそのすべてが根本的には屈辱であり、屈辱は目覚めへの入り口だと言う。

屈辱は、ブノワいわく、自分の無力さを見ようとしないところから生まれ、全体性から切り離されながらどうにかして勝利を手にしようと奮闘している「自分」の像にしがみつくことから生まれる。真のグルとは「今あるままの現実、我々の日常生活」であって、それは必ず私たちの野心を打ち砕き、コントロールの不可能さを明らかにする、とブノワは主張しつづける。素晴らしく成功した本もいつかは塵になり、その作者も消えてしまう。そしてその過程では、こんな本は紙の無駄であって、これを書いた奴は薄ら馬鹿だという考えの人たちに、作者はどこに行っても出会うことになるだろう。ブノワは指摘する。私たちが意図的におこなうスピリチュアルな「行為」は目覚めを妨げることが多く、それはそうした行為のすべてが直接的にせよ間接的にせよ「高い場所」を目指している一方、実際には目覚めは「下」に、私たちが半狂乱になって逃れようとしてきた最低の敗北をついに完全に経験しきるところにあるからなのだと。この絶対的な敗北こそ、架空の制限のすべて、架空の束縛のすべての終わりであり、架空の救済のすべて、救済されるべき誰かがいるという思い込みのすべての終わりだ。

ここで絶対に理解しておかなくてはならないのは、謙虚さは身につけられるような外見でも練習できるようなメソッドでもないということだ。「もしそのことを理解していなかったら、」とブノワは言う。「私は屈辱を役立てるかわりに屈辱を避けることになるだろう」。エゴが膨張したりプライドがくすぐられたりする状況に置かれるのを単純に控えることは、実際には自分の安全とイメージを守っているにすぎない偽の謙虚さを育てようとする試みにほかならず、それは真の空っぽさとはまったく何の関係もない。真の謙虚さは、火に飛び込むこと、生がもたらす大火災を十全に経験しきることから生まれる。目覚めとは、よくなろうとする希望を全部捨てること、何かもっと良いものを手にしたいという必要を全部捨てることだ。目覚めとは、いま完全にここにじかにあるということであって、今あるそのままのものから逃げないことだ。想像上の成果を目指すメソッドとしてではなく、一瞬一瞬の可能性として。

私たちはグル、理想の状態、悟り、もっと良い人生、もっと完璧な自分を求める。私たちは分析し、考え、ついに完全に「わかる」こと、答えを知ること、正しい方向に導く行動をすることを目指して必死になる。そして最後には ― 眠りの中で、死の中で、目覚めることの中で ― そのすべては静寂に溶けて消える。

== 訳は以上 ==

と、今気がついた。「ジョーンの本は非二元の本じゃないの? 反動とか言いながら夜も読んでるじゃん」と。

でも、Bare-Bones Meditationはたぶん違う。テーマはもちろん非二元や目覚めだけれど、教えの本ではない。教えの逆な気がする。苦しみの吐露であり、駄目さの自覚の連続。だから、寝る前でも疲れずに毎日読めた。

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屈辱 ジョーン・トリフソン」への7件のフィードバック

  1. 生のなかに自分のすべてを燃やし尽くすほどに、我を忘れる一時こそ 本当の謙虚さが表れる瞬間かもしれないなあと、ジョーンの言葉を読みながら感じました。…なんか激しい (^_^;)

    ドキュメンタリー系の本をよく読むんですが、村上春樹でサスペンスものとかがあったら読んでみたいなと思いました。

  2. ヒロさん
    いつも素晴らしい記事を、ありがとうございます。
    この記事、すばらしいです。(^^;)
    ジョーン・トリフソンという方は、こういう文脈で書いているときが独壇場ではないでしょうか。ほんとに人助けです。いちばんありがたい感じがします。「目覚めを妨げること」ばかりやっている人間として、つくづくそう思います。(*^_^*)

  3. pariさん、こんにちは。いつも読んでいただいて嬉しいです。

    コメントを読んでいたら、なぜか涙が出てきました。Bare-Bones Meditationはときどき涙を誘う本ですが、pariさんのメルマガにも僕は喜びや輝きと一緒に何かの哀しみを感じることがあって、それが少し重なったような気がします。

    ジョーンの独壇場については、本当にそうですね。そう思います。

    どうもありがとうございます。

  4. ヒロさんこんばんは。

    不意に訪れるカタルシスか、意図的に起こすカタルシスか、どっちにしろ脳が安らぎを求めてるのかな、と思ったりしますね。

    普段から脳が興奮しすぎてるのかなあ。

  5. いつも楽しみに読ませていただいています。
    このジョーンの記事も面白い視点ですね。

    特定の「個人」にとっては、すべての起きること、
    突きつけられる現実は
    絶えず諸行無常、一切皆苦ということですね。

    この文中のブノワという人を知らないのですが
    ググってみても出てきません。
    よろしければ元の綴り教えてください

  6. あんつさん、こんにちは。ここで引用されているのはHubert Benoitです。https://en.wikipedia.org/wiki/Hubert_Benoit_(psychotherapist) 「ブノワ」は、日本語だとブヌワあるいはベンワと表記されることもあるようです。(Hubertはヒュべーは僕の間違いで、調べてみたらユベールだとのことで、直しました)

    ジョーンによると彼はフランスの外科医で、主著 Zen and the Psychology of Transformation: The Supreme Doctrine (禅と変容の心理学 – 至高の教義) は、友人だったWei Wu Weiによって英語に訳されたということです。

  7. ヒロさんありがとうございました。
    わかりました。

    「至高の教義」「手放し」・・・
    OSHOが近代西洋で最高の本と絶賛していたものです。
    (まあOSHOの言葉なんかあてにはなりませんがww)

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