ラベルもろとも

 
できたら訊かないでくれるといいなあ、という質問がある。「大和田さんと阿部さんの最近の動きをどう思いますか?」というやつ。

実際にはそういうデリカシーのないメールを送ってくる人は誰もいない。幸いなことに。(というか、質問メール自体がほとんどない)

でも、「もし送られてきたら…」という考えが浮かんできて、運転しながら脳内問答をしてしまった。

そうしたら、「ああ、そうなのかも」という感じになって、そのことについてここに書いておこうと思った。

***

オウム真理教の拠点が強制捜査を受けたころ、僕はサイババ (サティヤのほう) に夢中になっていた。会社の寮の自室に小さな祭壇をつくり、『光明瞑想』という冊子を参考にしながら瞑想の真似事をしてみたり。

強制捜査の朝、キャスターの興奮気味の声が響くなかでニュースの画面に大写しになったのは、サティアンと呼ばれる建物で、その壁にはオームのシンボルが描かれていた。そして自分の部屋のテレビの横の壁に貼ってあったのも、そのオームのマークだった。

オウムの信者だったわけではなく、聖音オームを表すそのシンボルがただ好きだった。中学のときに購入したジョージ・ハリスンの『ダークホース』のジャケットに描かれていたその不思議なシンボルに一瞬で魅せられて以来、それはずっと大切なものであり続けていた。(中学や高校の授業中にはオームのシンボルをノートの余白に大小びっちり書きまくっていたほど)

一連の捜査によって発覚したオウム真理教の実態は、だから、僕にとってはオームというシンボルの悲しい墜落を意味した。それ以来、「オーム」という言葉を聞いたときに僕が連想するのは、聖なる原初音ではなく、ガネーシャのかぶりものと例の妙なダンスだ。

インドでワンネス・ムーブメントというものが起こっていると聞いたのは、それからだいぶたってからだった。何なの?と思って少し調べてみたら、いかにもという夫婦がディクシャというものを伝授しているらしく、そこにたくさんの人が集まっていると知って、吹き出してしまった。インドを少しでも旅したことがある人なら、あの人相が何を意味するかくらいすぐにわかるはずなのに、と。ともかく、「こういうものにワンネスって単語を使っちゃうんだなあ」と、かなり残念な気がした。

また少したって、「いまここ塾」というサイトがあることに気づいたとき、そのオウムとディクシャのことを思い出した。いまここ、というのはニューエイジの世界でもよく言われていたけれど、20代のはじめにラム・ダスの『Be Here Now』に出会って以来、それは特別な輝きを持つ言葉であり続けていた。そのずっと大切にしていたものがここで使われるのか、と少し悲しくなった。

で、その最近の大和田さんと阿部さんの動きというやつでは、「これからはノンデュアリティでいきます」という感じのことが言われているようで、それを知ったときには似た種類の哀しみが浮かんできた。あまり遊ばなくなっても愛着だけはそれなりにある大切なおもちゃが、どこかに投げ捨てられてしまったような。

自分のものとして大事に抱えられると思っていた何かが、オームも真理もワンネスもHere Nowも非二元も、すべて無理心中のように川底に沈められてしまう。もちろん、それはどれも沈むことなどありえないものだけれど、それに自分が付けていたラベル、呼び名のほうは泥まみれだ。

ただ、自分が抱えていたもの (シンボル) を見事に取り去ってくれたのかなという感じもある。

その「最近の動き」というものによって、概念としての非二元、ひとつの様式としてのノンデュアリティに相変わらずしがみついていた自分の姿に気づいた気がする。オウムやディクシャのときは、あんなことしてくれちゃって、と完全に否定的にとらえていたが、今回は違う。すっきりした、と言ってもいい。

ジョーイ・ロットが『これのこと』の前半でしているのも、宗教、瞑想、真理、系譜、食事制限、その他あらゆるラベルを「引っぺがす」ということだ。

でもそんな本を読まなくても、何かに対する不自然なこだわりとか、本来動き続けているものを固定した何かに変えてそれにしがみつくといったことが起こったときは、日々の出来事が、あるいはトリックスター的な役割の人たちが、「何してはりますのん?」と気づかせてくれる。

それと同時に、ダグラス・ハーディングの言う「頭のなさ」を見るとき、そういう「抱えかた」、「手放しかた」についてのおしゃべりはすっかり意味を失って、ここにあるのはただ現れ続けるこれ、カップに残ったコーヒーの香り、窓から差し込む光、隣の家の掃除機の音、そして静けさだ。

まあ、とは言っても、金銭的な問題とか、精神的な依存とか、「現れ続けるこれ」では済ますことのできない現実的側面も当然ありそうだから (悲惨な被害につながったオウムのケースを挙げるまでもなく)、「起こることが起こっているだけ」で片付けることなく、ときにはあくまでも現実的な対処が必要になるのは当然だと思う。

以上、脳内問答おしまい。

ちなみに、最近の「ノンデュアリティ騒ぎ」で自分の大切な何かが傷つけられている感じがするとか、否定的に反応してしまう自分が嫌だといった場合、それについてたぶん一番効果的なのは、バイロン・ケイティもいいけれど、僕が知るかぎりではミナトさんのすべてのメソッド (この流れで僕を登場させちゃいます〜?とか言われそう。すみません)、それとダグラス・ハーディングの各種実験だ。

もやもやが嫌ではなくなるだけじゃなく、素敵なおまけも付いてくる。かも。

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ラベルもろとも」への9件のフィードバック

  1. 「ノンデュアリティは特別なものではない」と彼等がいくら声高に語ろうとも
    結局集まって来るのは特別を(特別感を?)求める人々ばかりでしょうね。

    「ノンデュアリティ騒ぎ」のことが気になって文句も言いたくなりますが、
    そんなことは放っておいて私は勝手にくつろぐことにします(笑)

  2. ミナトさん、早速拝見しました。ちょっとしかまだ読んでいませんが、あるがままの現実感?私も同じように捉えられます。

    そのように思考が浮かび、正しいとか正しくないとかの議題ではなく、それを観れる?位置に、意識がいつでも居られます。

  3. ミナトさん、どうもありがとうございます。三郎くんシリーズもすごく好きなのですが、最近書かれている一連の記事のストレートさにも非常に強く惹かれています。

    ぞんさん、それは僕も耳が痛いです。特別を求めて何回飛行機に乗ったことか。でも、それはそれで楽しかった面もあるので、いまサットサンやリトリートで盛り上がっている方々もかなり楽しいんだろうなあとは思っています。

    iyさん、こんにちは。書かれていることを読んで、いま気がついたのですが、ミナトさんが指しているのは、たぶん、現実感ではなく現実です。「ノンデュアリティ騒ぎ」は、どちらかというと「感」の部分に感応させている側面があるのかもしれません (僕がひっかかりを覚えているのもそこかも?)。ミナトさんも、ダグラス・ハーディングも、そしてアルファ野郎さんも、徹底して現実のことしか言っていなくて、そこには「感」が媒介する余地がない気がします。

  4. あの方々も、私達も1つの意識の表現なんだという見方。行為者がいるようにみえて実はいないという見方でこの騒動をみたら、結構府に落ちました。

  5. ヒロさん、ありがとうございます。私も今ヒロさんのコメントを読んで気がつきました。

    私もこの“騒ぎ”(良くも悪くも思わないのですが)に影響されているのですね。

    禅の話で、全ては「空で、幻想です!」と言っている弟子に、師匠がいきなり杖で頭を打つのですが、

    その途端弟子は「ギャッ」っと叫んで痛がります。

    師匠は、全てが「空」で幻想であるならば、なぜ痛がるのか?と言って立ち去るのですが、

    私も常々どんなことでも、“起きる”ことの仕組みは、理解しても、リアルティとか、現実の認識は、いつもこの師匠の側にありましたし、

    その現実に翻弄される人たち、苦しむ人たちは消えない。心の痛みや身体の痛みを感じる人たちは、(人間だけではないでしょうが)現れ続けると言いったりするのですが、

    皆さん、見てみぬふりをされるようにもみえます。そういうものなんでしょうけど。

  6. こんにちは
    僕いはワンネスムーブメントにしばらく関わっていて
    違和感を感じて今は距離を置いていますが
    ヒロさんの言う
    「インドを少しでも旅したことがある人なら、あの人相が何を意味するかくらいすぐにわかるはずなのに、と。」
    これについて、詳しく教えてもらえるとうれしいです

    もしよかったらですが・・・

  7. Dさん、こんにちは。

    詳しく説明すると相当失礼なことになりそうなので、勝手ながら控えます。「おいヒロ、お前、他人の人相のことをどうこう言える顔かよ!」という無言のつっこみも数十人単位ですでに入っていそうなので・・・。

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