ある教会

 
7月の下旬に家族旅行をしたとき、有数の赤レンガ建築としてガイドブックに紹介されていた、ある教会を訪ねた。

レンタカーのナビにその名称を入れても一致するものが出てこなかったから、近くの小学校か何かの名前をセットして、「どうせ大きな教会だろうから、走っていればわかるはずだ」と思っていたら、通り過ぎてしまった。そんな感じのあまり目立たない佇まいだった。

入り口の説明によると、その天主堂は信徒たち自身によって100年ほど前に建てられたということだったが、100年という月日を感じさせない新鮮さがそこにはあった。貼ってあった当番表(?)を見ると、毎朝のようにミサがおこなわれているらしい。

扉を開けて入ってみると中には誰もいなくて、風が静かに通り抜けているだけだった。でも、そこで手を合わせてみたとたん、何かに貫かれた。包まれた、もしくは開かれた、と言ったほうがいいかもしれない。

それはフィンドホーンにあるサンクチュアリと呼ばれる瞑想スペースで感じたのと似た感覚だったが、それよりも方向性がはっきりしていて力強く、それでいてもっと優しげで透明な何かだった気がする。

しばし呆然としたあと外に出ると、海に近いその斜面では木々と葉が風に揺れていた。ハートの震えはすぐにおさまっていたが、何もかもが存在感を増している感じが好ましかった。

***

6月の終わりに中野真作さんの温泉リトリートに出たとき、すごく心を打たれたことがあって、それについては参加者の人のプライバシーもあるから詳しくは書かないけれど、かいつまんで言えば、ある人のまっすぐな探求のあり方に僕はものすごく感動したのだった。

そのとき、言葉でその感動を伝えようとしたが、うまく説明できなかった。とにかく打たれたとしか言いようがない。

それと同時に、自分の不純さを痛烈に自覚することにもなった。目覚めとか悟りとか呼ばれているものをアクセサリーとして自分のものにしたいという不純さ。非二元は変な宗教やスピ系とは違って優れたメッセージなんだ、それを知っている自分はちょっとすごいでしょ、という嫌らしさ。(最近はそれに加えて、「本を翻訳してるんですよ、たいしたことないですけどね、エヘン」という阿呆なプライドもトッピング済み)

そんなことを、7月の教会のことと一緒に昨日思い出していたら、そういう不純さもまるっきりそのままで許されていたんだなあ、ということに気がついて、また涙が出てきた。

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昨晩、ジョーン・トリフソンの最初の著書 Bare-Bones Meditation を久しぶりに読んでいた。同性愛にまつわるかなり生々しいエピソードも出てきたりするが、それでいて、どのページも静謐さで満ちている。

ただ許されているということ、すべてがすでに起こっているということのせつなさが、抑制されたトーンで描かれていて、虫の声を聴きながらページを手繰っていると、ある畏れの感覚が起こっていることに気づいた。

それは、自分の不純さが不純さとして、肌にあたる風が風として、勘違いが勘違いとして、どれも完璧に起こっていることに対する畏れだったのか。それとも、何だったのか。

その畏れの中にいると、なぜか安心があった。

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ある教会」への7件のフィードバック

  1. 自分の不完全さを自分の中の存在がゆるした感じでしょうか?
    感覚を言葉にするのって、私には少し難しいのですが、朝からヒロさんの文章を読んで心地善くなりました(^^)
    ありがとうございます。

  2. iいいですねえ。
    こういうお話時々アップしてください。
    こちらは、呼吸法で辛うじて、バランスを保っている状況です。
    どうぞお元気で。

  3. 「つかめないもの」を読ませて頂いて、スピリチュアルな飢えがようやく(約30年間)落ち着きました。
    同時期にジョン・シャーマンのメソッドも試しましたけど、ジョーンの影響かなと思います。
    読書は好きなので、よかったら
    Bare-Bones Meditation
    も日本語で読みたいです〜
    POD書籍でも構いません。少々高くても喜んで払います!

  4. 佳子さん、どうもありがとうございます。不完全さもみっともなさも醜さも含めて、完全さしかないのかなと、ときたま感じます。ただこれも相当観念的で、ひどい事件の報道などに接すると、やり場のない怒りと絶望と悲しみに圧倒され、価値判断で他者とその行為を裁きまくり、海をわたってくる涼しい風どころの話ではなくなります。

    かいりきまーちゃんさん、いつもありがとうございます。読んでいただいて嬉しいです。

    こっこ〜さん、こんにちは。そんなこともあるんですね。僕自身もジョーンの影響はかなり受けていると思います。彼女自身が渇望に突き動かされながら長い年月を過ごした人だけに、そこから出てくる正直な言葉は大きな力を持っているんだろうと感じます。ただ、Bare-Bones Meditationのような詩的なエッセイは僕にはまるで歯がたたないので、こればかりは僕も誰かが訳してくれるのを待つ側です。笑

  5. はじめまして。
    ここはとても素敵な場所ですね。
    しずかな安らかさが感じられていつも、読みに来てしまいます。
    それでも、いろいろなことがありますが、その不完全さや不純さを観ることは、個人としてはとてもつらいものであったとしても、
    その場でそれになりきることが全体としての完全さなのかなと。。。
    全体のために私個人ができることといえばそれくらいなのかなと最近思ったりしています。
    どうあがいても、そうなるしかない。。のだと思うからです。
    ヒロさん、いつも素敵な言葉をありがとうございます。

  6. ヒロさん、はじめまして☆
    中野さんのページから伺いました^^

    >そういう不純さもまるっきりそのままで許されていたんだなあ

    サイキン見聞きする映像作品やネット上の文章に何度も現れていたメッセージに通じていて、ヒロさんのこの文章でさらに腑におちた感じがしました。
    自分にも他人にも完全しか認められなくて、すべてにダメだししていたから苦しかったのかもしれないけれど、、頭でいくら理解しても、不完全さを認めるなんてできなかったのです。。

    でも、ヒロさんのお陰でなにかが少し溶けた気がします( ´ー`)
    ありがとうございます☆

  7. 未知さん、はじめまして、こんにちは。どうもありがとうございます。

    ほとんどの時間は自分の不完全さから自動的に目を背け、それを家族や周囲の人たちに投影したり、あるいは非二元の概念に逃げ込んだりしていますが、それでも、あがくことが消える瞬間もあって、さらにその瞬間を永続化したいといった欲も姿を見せなかったりもします。そんなとき、自分ではない何かの存在を感じることがあり、畏れに包まれます。

    tokotanさん、はじめまして。不完全さを許すことは99.99%の時間は全然できていないのですが、残りの0.01%があるということだけで、今はけっこう幸福な気がしています。コメントどうもありがとうございました。

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