恐れよさらば、不安よさらば (3) ジョン・シャーマン

 
その2からの続き。これで終わり。

原文: No More Fear, No More Anxiety (JustOneLook.org)

== 以下、訳 ==

サイコセラピーは回復を楽にするか?

サイコセラピー (心理療法) によって回復のプロセスが加速するのではないか、という質問はよくある。サイコセラピーで問題なのは、特定の精神的問題を改善したり除去したりすることに集中しているという点だ。サイコセラピーがしようとしているのは、病的なプロセスに影響をおよぼすためにいろいろなかたちで注意を向けるということであり、そこで目的とされているのは病的なプロセスを改善したり、除去したり、何かと入れ替えたりすることだ。そのようなやりかたは、問題を抱えた心を、特定の神経症的心理構造という苦痛から一時的に解放するのには相当役立つ可能性があるが、私たちが生に対する恐れと呼んでいる広汎な恐れの影響で苦しんでいる心は、神経症の寄せ集め以上のものなのだ。そうした心は、生は恐ろしいものであり自分の存在そのものを脅かしているという前提の文脈の中で生じて、成長したものだ。サイコセラピー的な手法では、神経症の集合がひとつ消えたとしても、新しい集合が出てきてそこにおさまる。そしてその新しい神経症的防御機構は、みずからを無害であるだけでなく必要なものでもあると思い込ませることにかけては、その前のものよりも必ず巧みなのだ。セラピーという文脈の中でそうした心理的構造に直接注意を向けてしまうと、逆にその構造に力を与えたり、形態や位置を変えることで簡単に見破られないようにする能力をつけたりする結果になる可能性がある。

私たちの考えでは、恐れの作用からの回復の過程においては、さまざまに生じる経験を分析したり、心理的にどう関わっているかという点に注意を向けたりすると、回復の過程が単に長引くことになる可能性が高い。回復の期間において最善なのは、自分の注意にどう影響力を行使するかを練習し、それに熟達することであり、そのためにもっとも適しているのが、注意を向ける練習だ。この点についてはいくら強調してもしたりない。注意を向ける練習が目標としているのは、人生の中で自分にどんな選択があるのかが自分でわかるようになること、そしてそのときに何に価値があるか、何が有害か、何が重大でないかを自分自身で判断できるようになることだ。

私たちが勧める注意を向ける練習が第一に目的としているのは、特定の問題に注意を向けるのを拒むことによってそこから解放されることではない。問題から解放されるのは喜ばしいことではあるが。この練習の目的は、本当の意味で自分でコントロールできる唯一のものを自分の支配下に置けるようにすることであり、それがうまくいくと、自己信頼にもとづく完全な正気、そして今ここにある生への満足が現れ出す。

トラウマに誘発された特定の神経症から免れることを求めて自分の注意の向け先を変えたとしても、心の中ですでに進行している再生のプロセスが止まることはない。私たち自身の (訳注: ジョンとカーラの) 長く続いた回復の経験、つまり恐れの影響が心から消えていくプロセスがすでに進みつつあったことにまったく気がついていなかった経験からも、それはたしかであると言える。だが、私たちの経験から、そしてすでに回復期を通り抜けたすべての人たちの経験から学ぶことはできる。自分の注意に対して自立的なコントロールを確立するという一点に意図を絞れば、回復期間の長さもその苦痛もおおいに軽減することは間違いないし、絶対に後悔はしないだろう。

注意を向けるエクササイズ

このエクササイズの目的は、心のあらゆる側面と心理的構造をかたちづくってきた恐れという文脈が崩壊したあとの困難な期間において、自己信頼を醸成するのを助けてくれるもっとも役立つ技能を伸ばすことだ。

ここで覚えておいてほしいのは、恐れという文脈が、心のあらゆる側面と心理的構造がつくられる過程をコントロールしていた、ということだ。

自己信頼を深めるのに何よりも効果的なのが、思いどおりに注意を動かしたり注意の焦点を合わせたりする能力を伸ばすという方法だ。このエクササイズは、ひとつの対象に注意を集中させて他のすべてを無視する能力を強化するが、それはこの力を賢く使う際の自然な能力を向上させるひとつの手段となる。

このエクササイズは、一度に10分ほどおこなう。タイマーを使用して、終了の時間がきたらわかるようにしよう。

姿勢に特別な注意を払う必要はない。続けて10分間座っていられるような楽な姿勢でいれば十分だ。目は開けたままでもいいし、閉じてもいい。

このエクササイズでは呼吸を使うが、それは呼吸は勝手に起こっているもので、意識して注意を向けていなくても呼吸が止まることはないからだ。

落ち着いて座って、息が体に入り、体から出ていくようすに注意を向けてみよう。呼吸がどう起こっていても、それをコントロールしたり監視したりしないようにする。息が鼻孔を通って体を出入りするその感覚をただ見守る。体に息が入ってくるときには鼻孔を通り抜ける感覚は冷たく、体から出ていくときには息が温かいことに気づくだろう。鼻孔のその感じ、その感覚に注意を向け、そこに集中しよう。

鼻を出入りする息の感覚にしっかりと焦点を合わせる。息が出ていくたびに、頭のなかでその回数を数える。1、2、3、4 …。息を吐き終えたら1、つぎの息を吐き終えたら2、という感じに。

息を数えているあいだに注意がどこかに逸れて、呼吸の感覚以外のもの ― 身体の感覚、思考の流れ、音、かゆみ、視界を横切るもの ― に注意が移っていることに気がついたときには、声に出さずに自分の内側に向かってただ言う。「気が散った」。そして呼吸に注意を戻して、もういちど1から数え直す。カウントが10になったら、また1からはじめる。

これを1日に1回、10分間おこなう。おそらく最初は2か3までしか数えられないだろう。気を落とさなくてもいい。続けよう、あきらめずに。何度やっても2か3より先に進まないとしても、うまくいっている。覚えておいてほしいのは、大きな数字になるまで数えるのがこのエクササイズの目標ではないということだ。このエクササイズの目標は、自分の注意を思いどおりに集中させる能力を育て、高めることであって、筋肉を育てて鍛えるために筋トレや腕立て伏せをするときのようにおこなえばいい。

他のことに気を散らすことなく大きな数字になるまでカウントできている場合には、もっとしっかりと注意してみよう。注意が分裂してしまっている状態で自動的に回数だけを数えているということはよくある。

このエクササイズを十分に役立てるには、まず自分自身を見なければならない。この解説で紹介した指示に従うことで、いますぐに自分自身を見ることができる。

これをpdfで無料ダウンロード (訳注:英語)

== 訳は以上 ==

この記事には、注意を自分でコントロールする能力を向上させることによって、回復期の混乱や苦痛を大きく軽減できると書かれている。

僕自身は今の時点ではそれには少しだけ懐疑的だ。というのは、ディスカッション・フォーラムを読んだり、ポッドキャストで以前の質疑応答を聞いたりしていると、注意を向ける練習をどれほどしても状況が一向に改善しないという訴えもけっこう目立つからだ。

もちろん、そのエクササイズをしていなかったらもっとひどくなっていた可能性もゼロではないとは思う。それに、うまくいった人は満足して何も言わず、うまくいっていない人たちの声だけが目立つというのは、どの分野でもよくある話だ。

それでも、喧伝されているような苦痛の軽減効果がほとんど出ない可能性もあることを、頭の片隅に置いておいてもよさそうな気はする。

と、ここまで書いておいてちょっと変なことを言うようだけれど、生との距離がないとき (もともと距離などなかったことが見えているとき) 、ジョンがこの記事でも言っているとおり、苦痛 (と名前をつけるとして) に気づくということ以外にできることがなにもないのは明白で、そうなると苦しみを苦しむことがまったく無理になる気がする。だから、回復期がどれほどひどい時間になる可能性があるとしても、何も言わずにメソッドそのものだけを提示するという乱暴なやりかたでも許されるのかもしれない、とも思う。

(追記: ジョン・シャーマンのウェブサイトで、この和訳のebookが無料で提供されている。こちら)

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恐れよさらば、不安よさらば (3) ジョン・シャーマン」への3件のフィードバック

  1. いやー、まさかねって感じですね。
    ヒロさんのジョン・シャーマンの翻訳を読んで、とりあえず自分を見ることを試してみてました〜。
    あ〜、こんな感じかな〜みたいな軽い気持ちで…後から考えるとヒロさん注意してたよな。。
    ここ二週間くらい、何かがおかしいと思っていました。昔あった心身不安感が出てきて、20年ぶりくらい前の青春時代を思い出しました。
    ジョンの[恐れをさらば、不安をさらば]の翻訳を読んで、ヒロさんはこの事を言っていたんだとようやくわかりました。
    ジョーン・トリフソンさんの本、トニー・パーソンズさんの本と立て続けに読んでいたのですごい波でしたが、今はまた自分を見る事ができてきていてぼちぼち楽しんでいけたらなと思っています。

    ヒロさん、いつも翻訳をありがとうございます。この胸のつかえた感じは初恋の時の胸のつかえに似てるような…ワクワクをありがとうございます。

  2. 直接見る方法をやってみたら、全然理屈はわからないのですが書いてある通りになりました。
    時折意識していた底流に常にあるような漠然とした不安が消えました。
    目覚めとかワンネス感覚を求める気持ちも無くなりました。
    それを求めることになった原因が消えたからだと思います。

    骨折しなかったのが幸いですが、高所から落ちて背中を強打して2週間たった今も少し痛いです。
    車の運転も自動運転のような感覚でフワフワしているので、大丈夫かなと思う時があります。
    実際は前よりスムーズに目的地まで着いているのですが。

    あるがままだとかそのままでいいとか、昔から見聞きしてもそうならなかったことが、気付いたら実現していました。
    幸福感が無い時も幸福を求めることは生じずにそのままです。

    やっとこれを得た、ありがとうございます、という気持ちではないですね。
    何が何だかわからない。
    私が捕まえて評価出来るものでは無い気がします。

    ゴールに達したから探求が終わったのではなくて、ゴールを求める気持ちの発生源が消えました。
    ずっとこのブログを読み続けて良かったです。

  3. decoさん、こんにちは。コメントありがとうございます。

    初恋の時の胸のつかえ、というところで、僕もまさにそれだなあと思いました。胸がザワザワする感じ、すべてが何かの意味をもって迫ってくる感じ、恋の相手以外のもの、セミの声もタバコの匂いもテレビの歌番組もすべてが恋を表現しているようなあの感じです。

    やまさん、コメントありがとうございます。すごく僕の感じていることと重なる部分が多くて、何度も頷いてしまいました。

    「幸福感が無い時も〜」というのは、すごくそれは感じます。そのままでいい、悪いという以前に、そのまましかありえないというか。「私が捕まえて評価出来るものでは無い」という実感についても、最初に「見て」からしばらくそれがすごく強くて、そもそも評価できようのないことがあったんだ、ということに驚いて、なかば呆然としていました。

    背中の痛みがよくなることを願っています。(という僕も、追突されて以来首がおかしいので、今日はこれから接骨院なのですが。笑)

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