恐れよさらば、不安よさらば (2) ジョン・シャーマン

 
その1からのの続き。ジョン・シャーマン祭り継続中。

原文: No More Fear, No More Anxiety (JustOneLook.org)

== 以下、訳 ==

生に対する恐れ

心理的苦痛のすべて、そして生に対する抵抗のすべては、信用ならない恐ろしい環境の中で心とその心理状態がかたちづくられることがその根本原因であり、そのことが生の経験そのものからの根源的疎外につながっている、というのが私たちの考えだ。これが私たちの言うところの生に対する恐れであり、それはある種の心理的な自己免疫疾患であって、人生の最初期に起こる恐ろしい経験への反応として、ほとんどすべての人がその疾患にかかると私たちは考えている。生に対する恐れという疾患にかかるのは、自分はひとりの人間なのだということを意識するよりもずっと前、もっと言えば自分に心というものがあることに気づくよりもずっと前だ。この生に対する恐れとは、生はもともと恐ろしいものでまったく信用できない、という問われることのない前提であって、この目には見えない恐れと不信という土台の上で、人間の心は時間をかけて形成される。

私たち (訳注:ジョンとカーラ) が自分自身を見ると呼んでいる行為は、疑いと疎外という病的な環境をほとんど一瞬で崩壊させ、それによって心の再生成、そして病的な心理構造の解体への道がひらかれる。

こうしたことが起こるのは、自分の本当の性質 ― 自分 (「わたし」と呼んでいるもの) であるというのはどんな感じか ― を意識的にはじめて味わうという行為が、自分は恐ろしいことに囲まれているという根本的前提を静かにかつ完全に無力化し、それを一瞬で消し去ってしまうからだと私たちは信じている。そしてそれが起こると、病的な心理構造が脱落しはじめ、それと同時に、生を完全に経験し、生と賢く関わりあう未体験のありかたが新たに姿を現しはじめる。

私たちのワークの目的は、「自分」の感覚に注意を向けるというこの単純な行為とその結果を、人生は生きる価値がないという感覚に疲れ、理解も対処もできない世界につかまっているという感覚にうんざりし、何か欠けているものがあるという感覚が嫌になり、そして、恐れ、疎外、不安というこの疾患に苦しみ続けてきた長い年月のあいだにおかしてきた無数の失敗の中からしか生を有効に生きる方法は見つからないという感覚にくたびれている、すべての人々に届けることだ。

《回復期》

心の再生成

ここで言う生に対する恐れとは、目の前にある物理的な脅威を知覚したときに喚起されるような、状況に応じた恐れのことではない。私たちの言っている生に対する恐れは、神経症的な恐怖心、不安、生に対する不信といった、背景にあるかすかな雑音であり、自分や自分の生には何か間違ったところがあるという感覚、それは直すことも消すこともできないという感覚だ。ここではっきりと心に留めておいてほしいのは、生に対する恐れそのものは経験からは隠されているという事実、直接経験されることはまずないという事実であるが、それはなぜかといえば、生に対する恐れは意識されるより下のレベルに存在しているからだ。生に対する恐れが消え、生に対する恐れが原因で生じていた害がなくなってしまわないかぎり、生に対する恐れが人間としての生をだめにしている唯一の問題であることを理解するのは誰にとってもまず不可能だ。

私たちが経験する心理的苦痛を何が引き起こしているかといえば、それは人格の壊れた側面という暗影であり、そうした暗影は生は信用すべきではないという根源にある前提に染まった状態で生まれたものだ。大半の人の場合、心をかたちづくっている中身のほとんど全部、そして理解しようとする癖もその暗影の一部になっている。また、生に対する恐れを消すプロセスは簡単におこなうことができるものだが、そこからの回復は控えめに言っても心臓移植と同じくらい困難だ。

ここで心と言うとき、その言葉が意味しているのは、記憶、考え、知性を使う機械的な機構であり、その機構が自分の生の経験が今どうなっているのか、その経験をどう理解するか、それに対して自分ができることをどう理解するかを私たちに知らせる。

恐れによって条件づけられていない心を知る人はほとんどおらず、「心が自分である」という確かめられていない思い込みのせいで誰もが苦しんでいる。「私とは私の心だ」というこの思い込みこそが、心に対する憎悪をまさに生んだのであり、スピリチュアルな実践、自己啓発的な実践の中には、そうした憎悪によって特徴づけられるものもある。

だが、心は自分ではない。心はひとつの機構であり、それは生の経験を定義づけた上で表現する心理的な仕組みで構成されている。心は後天的に身につけた思考と判断という習慣に依存しているが、そうした習慣は生のさまざまな状況に応じて生まれたものであり、理解は心の目というレンズを通じてもたらされる。そして恐れの中でかたちづくられてきたほとんどの人たちの心の目は、生は何よりも恐れるべきものだという根本にある前提によって、歪んで偏ったものになっている。

さて、あなたは内側を見るということをやってみた。問題を理解し、問題の解決策を理解したから、それで問題は終わりだろうと思っているかもしれない。けれども、それほどたたないうちに気がつくのは、自分が全面戦争のまっただ中、生はそもそも危険で信頼できないという誤った観念以外には間違っていることは何もないという危険な考えに対して心が仕掛けた全面戦争のまっただ中にいるということだ。この精神的戦争において歩兵をつとめているのは、自然な生に対してずっとはじめから闘いを続けていた、盲目で無知な心理的構造だ。

見るという行為が成し遂げられて、それに続いて現れることの多い思いがけない気楽さの期間が消散したとき、そこにあるのは恐れのなくなった心ではあるが、生は信頼すべきではないという前提に沿ったかたちで形成された、自分自身や自分の生に対する病的な心理的習慣はそのまま完全に残っている。

そして気がつけば回復のプロセスにあって、戦争のただ中にいるが、いまやその戦争はかつてなかったほど激しいものになっている。とっくの昔に片づいたと思っていた否定的で自己破壊的なふるまいが再び姿を現し、猛威をふるう。やっとコントロール下に置いたと思っていた自分の一面がまた飛び出しはじめ、それはまるで、お前を痛みと混乱の中で溺れさせてやる、という執念深い決意に燃えているように見える。恐れの兵隊たちは、断固とした全面戦争の構えをとりはじめる。こうなったとき、何ができるだろうか?

哀れな境遇を呪い、自分自身を見てしまった日を呪い、自分自身を見るより以前、苦痛がコントロールできていたころの人生に戻りたいと願うかもしれない。あるいはただ待つだけで、何もしないこともありえる。カーラと私がしたのはそれだったが、それは、回復期を通り抜けるための案内がどこにもなかったからだ。心理的苦痛と混乱は、戦争がいつのまにか収束していたことに気づいたその日まで、ずっと続くことになった。一度だけ見ればよく、あとはプロセスが勝手に展開するだろうと私たちが言っているのは、そのためだ。だが、私たち二人よりずっとよいやりかたもできる。

ディスカッションフォーラム(訳注:英語) における対話の数々は、人類を絶滅寸前にまで追い込んだこの病気からの回復について、明確な理解をもたらしている。フォーラムのメンバーが回復のプロセスの経験について、そしてそれに向き合うもっとも効果的なやりかたについて、勇気と意欲をもって書いてくれているおかげで、回復期が過ぎ去っていくまでただ辛抱しているかわりに、回復の期間を自己信頼の技能を発達させるために活用する方法がわかるようになったのだ。

徹底的な自己信頼の醸成

わかったのは、自己信頼というのは、想像できるかぎりもっとも深い満足を与えてくれる生との関わり方だということだ。この徹底的な自己信頼を発達させるための方法は、きわめて単純だ。私たちが本当の意味で自分でコントロールできるのは、どこに注意を向けるかということだけのようだ。心にどのような考えや感情が現れるかということについては、どうすることもできない。奇妙に思えるかもしれないが、この点について少しでも直接調べてみれば、それが本当であることがすぐにわかるだろう。

自分の思考、自分の体、肌にあたる日の光の暖かさ、自分の健康についての心配、そして心の中にあるありとあらゆるものは、それを自分が経験するためには、すでに必ずそこに存在しているはずだ。すでにそこに存在してしまっているものについて、それに気づくということ以外に自分に何かができると考えるのはあきらかに馬鹿げている。この瞬間の自分の生の全宇宙は、ここにすでにあるからこそ、それに気づくことができるということは間違いない。

回復が進んでいるあいだ、一生続いてきた馬鹿馬鹿しい仕組み、脅威のように見える生に対処するための仕組みは無意味になる。根底にあった原因、つまり生に対する恐れは消えてしまうが、恐れの大群が、明晰な精神のなかに新たに生まれて育まれる信頼に足る心理構造に取って替わられるには時間がかかる。この期間中、恐れの老兵たちはまだそこにいて、正気に対して戦う姿勢をゆるめずにいる。このことに対してできることは何もないが、唯一できるのは、注意を向ける価値があるもの、ないものを自分自身で区別するのにとりかかるということだ。わかるのは、注意を何かに向けるだけでその対象に力を与え、逆に何かを無視するとそこから力を奪うということだ。回復についてもうひとつ心得ておくべきなのは、それが出産に似ているという点だ。非常に騒がしく激しいが、終わってしまえば忘れ去られる。

回復期のあいだ、日誌をつけることは非常に大きな助けになりえる。自分の心理状態の変化に気づいたときに、それについて書き留めておけば、進歩に気がつきやすくなる可能性があるからだ。

== 訳は以上 ==

その3に続く。

(追記: ジョン・シャーマンのウェブサイトで、この和訳のebookが無料で提供されている。こちら)

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恐れよさらば、不安よさらば (2) ジョン・シャーマン」への9件のフィードバック

  1. こんにちは

    今回の記事、すごく参考になりました
    しばらく前から、自我の崩壊が始まり
    押さえ込んでいた耐え難い恐怖や不安、孤独が噴出してきて
    恐慌状態でした
    見ること、をやったわけではないのですが
    今回訳して頂いている記事はドンピシャでした

    いつもありがとうございます

  2. ヒロさん、pariです。
    いつも変わらぬ素晴らしいアンテナ・記事の選択・翻訳、ありがとうございます。
    わたしは今のところただただマインド人間なので、体験的なことは特に何もありませんが、ここでジョン・シャーマンが書いている判断や言葉には、とても共感できます。色々な体験や判断が、この現象世界で起こっているのですね。自分にエゴの崩壊など起こるのかどうか、あまり期待もしていませんが、ただ何もわからないという感じだけは強まっていくようです。
    i

  3. Dさん、こんにちは。

    ジョンのメソッドとは直接関係のないところでも、回復期や心の再生成という概念が当てはまるというのは驚きのような気もしましたが、けっこう普遍性のある話なのかもしれません。貴重なコメントをどうもありがとうございます。

    pariさん、どうもありがとうございます。

    今回ばかりは自分でも何がどうなっているのか全然整理できず、ジョンの言うことを聞いても、それが何を指しているのかわからないまま、なぜか夢中になっているというありさまです。変な気象現象に巻き込まれたかのような混乱と面白さを味わっていますが、これは「正気になる」話なのだとか言われると、やっぱりとうとう狂ったのかな、と笑うしかありません。

  4. ヒロさん、いつも解りやすい翻訳をありがとうございます。

    非二元に関して、できることが何もないならば、この「見ること」でなにかが起こるものなら、起こってみろと、好奇心となにかが起こっても受けとめられるだろうという楽観的な思いなどから、やってみました。

    特に何も起こらないと思っていた数週間後、ここ最近強い苛立ちや破壊的な思い、疲れた感覚など、ずっと鳴りを潜めていた(あるいは克服したと勘違いしていた)諸々のネガティブな想いのオンパレードが続き、荒れ気味です。

    といって、それにずっと飲み込まれてしまう訳ではなく、沸騰したお湯にヤカンの蓋が瞬間的に飛ばされてはまた戻りといったことの繰り返しで、まあ、快くないことではあるのですが、見ている最中(ジョンとカーラの待っていると同じでしょうか)です。

    ですので、待つ以外に出来ることがあるのだとすれば、朗報です。

    実際のところ、見ることの影響なのか、ただ単に過去のパターンに再度入り込みイライラしているだけなのか、分からないのですが、ともあれ、あとはただ起こるがままに進むのみ、あるいは舟が流されていくのを見るのみといった感じでしょうか。

    次回の翻訳を、楽しみにしています。
    ありがとうございます。

  5. あみーんさん、こんにちは。やってしまったのですね(笑)

    破壊的な思いは、僕も本当にびっくりするくらい出てきていて、メソッドをやって一ヶ月くらいは、自分を見るときの法悦の感覚と、その合間に出てくる信じられないほど破壊的な考え、感情の落差に戸惑うしかありませんでした。そういうときに出てくるほかの人たちに対するものすごい悪意は、とっくに縁がなくなったと思っていたような種類のもので、自分が毒の塊のようになっているのが恐ろしく、人を傷つける前にと思ってこのブログも一時停止にしました。

    今でもふいにそういう悪意 (としか呼びようがないもの) が出てくることがありますが、注意を向ける練習はほとんどせずに、五井昌久氏の「消えてゆく姿」という言葉が浮かんでくるのにまかせている状態です。

    コメントありがとうございました。

  6. ヒロ様、いつもありがとうございます。
    皆様、シャーマン氏のメソッドでますます暑い夏をお過ごしのことと思います。
    参考になるかどうかわかりませんが、私の感想を書いてみます。
    感情(怒りとか)の爆発で特に私が感じたのは、「逃げ場がなくなている」ことでした。
    以前は、「自分は何々だからこうあるべきだが仕方なかった。」とか言い訳することで感情を
    処理(ごまかし)ていましたが、それができなくなったのです。言い訳する自我の不在に戸惑い
    、容赦なく沸き起こる感情に狼狽しました。が、それも次第に冷静に感じられるようになりました。「ああ、又湧いてきた。」と。そして、「<自分>がんばっとるなー。」と自我がかわいく思えてきたのです。だから、この反応は、自我の崩壊ではなく、自我の統合ではないかと思います。
    HDDのプログラム整理とデフラグのイメージでしょうか。空いた領域には、自分を冷静に見つめる視点が入り込んできました。これは、ある種新鮮で、またどこか懐かしい感覚です。♪やさしさにつつまれたなら~の感じです。子供のころの記憶で今も鮮明に残っている場面ってありますよね?その時って、大体が感情が爆発した後、我に返った時だということに気が付きました。その感覚が日常の中でも現れ始めたとき、自分が大事に感じられ、世界がこちらに向き、そのとき一瞬ですが自分の枠が消えたような気がしました。。。だから何?という感じですが、今のところの収穫は、衝動買いがなくなり、ダイエットに成功し、イライラが消え、TVも新聞も見ず、自然に感動し、という生活が普通になったことです。恐らく、そのあとは、人間関係も変わってくるだろうことが予想できます。当然探求心も好奇心きれいさっぱり消えました。恋が冷めた感じでしょうか?
    自我が追い求めていたのは単に自我自身(理想とか目標、価値観とか)であって、自我が立ち止まり一瞬我に返った(帰った)時、自我自身が虚構であったことに気づき、その舞台全体を俯瞰できるようになった、という感想です。。。。しかし、文字にすると、本当ありきたりの表現になってしまいますね。Loosing Faith In Wards!
    長文失礼いたしました。

  7. あれ?

    見ること、幼児期メソッドを何度かしてみてます。私も最近は時々捨てたと思ってた悪意みたいなのとイライラがワーッ出てきてます。でもそれがあることが本当は普通の自然な人間の姿なのにずっと無視してたから、毒出しのめいげん反応みたいになってるのかな?とコメント欄を読んで思いました。

    それは素の自分に近づいてるような気もしたりして…

    幼児期メソッドは子供の頃部屋の中から寝っ転がりながら雲が流れるのを見るのに夢中なっていた自分を思い出します。あのままの自分なんだなと感じました(^_^)

  8. コメントに触発されました。私もこの思考や感覚や感情などを見ている“自分”に意識を留めて、その周りで起こる現象を観察したり、観賞したりしているのですが、(ジョンのメソッドを試したからではなく)
    この社会に相対している肉体の欲望と心の趣(おもむき)などが、世間的な観念で見てみますと、悪くなっていくようです。

    しかし、“世間的な観念”と書いていることで、お分かりだと思いますが、この“見ている自分”に“居”ますと、そんなこと実際(本当は)はどうでもいいことだし、気にしたくないという思いも湧き出てきますので、以前に比べますと、葛藤や心配が起こりにくくなって行っています。

    この“思い”だとか、“思考”だとか、“イメージ”や“印象”、“想念”などと呼ばれる類いのものですが、ヒロさんは受けつけないかも知れませんが、「メッセンジャー/ストロヴォロスの賢者への道」という本の中で、“エレメンタル”という表現で紹介されています。

    人間が感情や想念を一度でも抱くと、それらは作り出した本人から離れて自立し、一種や一つのエネルギーとなり、生命となり、その習性に従って活動を続けるそうです。

  9. しゅーさん、コメントありがとうございます。

    「自我がかわいく」というのは僕も最近感じることがあります。「個の不在」、「個人は幻想で思考のひとつにすぎない」といった言い方で切り捨てられるようなものじゃなかった、と。

    それにしても、すごい収穫ですね。これほどシンプルなメソッドがダイエットまで成功させるとは、ちょっと驚きです。「ありきたりの表現」と書かれていますが、軽やかさと喜びが伝わってきて、僕まで嬉しくなりました。「新鮮で、どこか懐かしい」、本当にそうですね。

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