生に対する恐れ (3) ジョン・シャーマン

 
前の記事の続き。これが最後の部分となる。

原文: The Fear of Life and the Simple Act of Inward Looking That Snuffs It Out

== 以下、訳 ==

態度も期待も関係ない

ひとつ理解しておいてもらいたいことがある。それは、見ることがうまくいったのを確認できるような、実感を伴うはっきりした経験は起こらないかもしれない、ということだ。すでに書いたとおり、心の目から見ると自分というものはあまり面白くはないし、自分の本質のありのままとの接触は、あっという間もなく終わってしまう可能性もあって ― 1秒の10分の1、あるいはもっと短いかもしれない ― 、それが起こったということに気づかない場合もありえる。だが、よい知らせがある。それはどうでもいい。 これまでの多くの人たちの経験からはっきりしているのは、真剣に試みれば絶対に失敗しないということだ。失敗したという感覚がどれほど強くても関係ない。私たちがこれをする理由は、結局のところ、自分は誰であるかを見つけ出すためではないし、自分とは何なのかを理解するするためでもないし、自分の本質と融合して本当の自分になるためでもないし、そういうこととは関係がない。私たちがこれをする目的は、内側に注意を向けるという薬で生に対する恐れという病気を治すこと、それだけだ。

この行為に必要とされるのは、たったひとつのことだけだ。それは、自分の本質のありのままを直接経験するために注意を内側に向ける意図だ。その意図が生まれたときに、それを不快に感じたり、恐れたり、却下したくなったりするかもしれないが、それは関係ない。意図が生じれば見ることは起こるだろうし、見ることが起これば結末は決まっている。

この試みに関しては、興味深い側面がもうひとつある。態度も期待も最終結果にはまったく影響しないようなのだ。自分自身を見てみようという意図は、いろいろな理由で生じる。幸せになりたい、世界を救いたい、痛みから解放されたいといった理由で自分自身を見ることを決心することもあるだろう。あるいは、自分は見ることに100%コミットできていないから効果があるかどうかはわからない、と思うかもしれない。そうしたことはまったく問題にならない。問題は、自分自身を見るその瞬間だけだ。見ることは必ず効果を生む。それについてどう考えているか、そこから何が得られると思っているかは関係がない。

内側を見るという行為は、どんな意味でもそれ自体としては目的にならない。生に対する恐れという病気から解放されるための手段にすぎない。作用が完了すれば、生きることに完全に没頭することになって、もともと何が不満で見ることをしようと思ったのか、思い出すのも難しくなるだろう。

回復の過程は不確定だが成功は保証されている

生に対する恐れという病気からの回復がどんな過程をたどるかは予測不能だ。かなり簡単にものごとが片づいて、精神的な苦痛もほとんどなかったという人たちもいれば、回復の過程が長期にわたる非常に苦しいものになるケースもある。私自身の場合、回復期間は相当不快なものとなった。強烈な不満の感情が爆発していたということに気づくだけで、1年かそれ以上かかった。人生との関わり方がまったく以前とは違う楽なものになっているということに気づいたのは、それからさらに5年たってからだ。そして、自分が見つけたことについて明確に話せるようになるまで12年以上かかった。

つまり、回復期がどのくらい続くか、そしてどれほど困難なものになるかは不確定だ。けれども、見てしまえば、終わりは必ず来る。生が自分をやっつけようとしているとか、自分はこの場所にはまりこんでしまっているといった感覚はなくなる。自分の中にやって来て消えていく考えや感情や意見や感覚、現実の変わり続ける人生をかたちづくっているそうしたものから自分を守らなくては、という感じもなくなるだろう。自分の中にやって来ては消えていくものごとが、どれもきわめて興味深いことに気がつくようになるが、それは、恐れによって視界が曇っていたときには想像もできなかった面白さだ。

いずれは、人生に完全に没頭している自分に気づくだろう ― これまでもずっとそうだったように。だが今や、生が実際に繰り広げられるそのありさまに自分が魅了され、興味を持ち、熱中し、元気づけられ、そしてそれを楽しんでいることに気づく。そのときにはっきりとわかるのは、自分の人生こそが、それまでどこか他の場所で探しまわっていた充足と満足だったということだ。あなたは正気になる。

私たちの活動を支援するためにPDFのeブックを購入する方はこちらへ (2014年11月12日改訂) (訳注: 英語版のみ)

この記事の初出は2011年3月31日。2014年11月12日改訂。

== 訳は以上 ==

メソッドについてジョンが書いたものをこうやってつぎつぎと紹介していると、まるでこのメソッドの実行を僕が勧めているように見えるかもしれないが、そうでもない。むしろ逆かもしれない。そのあたりのニュアンスは、じつは自分でもよくわかっていない。

ここまで訳してきたもので、メソッドについての基本はカバーできていると思う。それ以外に、回復期に関するアドバイスもジョンはいくつか書いているが、フォーラムでのフィードバックを見るかぎりでは、あまり助けにはなっていない感じだ。生の恐怖からの「回復」の過程も人それぞれの表現をとるから、一定のパターンも対策もない、というのが現実のような気がする。

それと、メソッドを実践した人たちの体験談もジョンのサイトではたくさん紹介されているけれど、僕自身がそれほど関心を持てず、ほとんど読んでもいないから、訳すことはないと思う。

ということで、ジョン・シャーマンの文章の和訳については、もしかしたらあと一つか二つはやってみるかもしれないが、ここで一区切りとなる可能性が高い。

(追記: ジョン・シャーマンのウェブサイトで、この和訳のebookが提供されている。こちら)

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生に対する恐れ (3) ジョン・シャーマン」への2件のフィードバック

  1. 私も“化学変化”はずーっと起きていて、まだ“解脱”して人生を楽しめるようになるには、時間がかかるみたいですが(人それぞれの立場での、問題提起と共に起こる理解や、悟りと呼ばれる現象には、色々な種類があるだけで、薬にはならないみたいです。)

    ヒロさんは、“シャーマン先生”の処方された“薬”でそれまでとは違う“化学変化”が起きてるのですか?

  2. I.Yさん、僕の場合はジョン・シャーマンが言う「生の恐れ」とその解消という括り方はほとんどピンと来ていないので、薬という喩え方もどう理解すればいいのかちょっとわからない感じです。

    ただ、変な確信はあります。その変な確信が何なのか、言うことができないでいるのですが。(語れば必ず確信とは違ったところに行く気がします)

    変化という文脈で語るのは違うよなあという思いもあるのですが、どうもこの件についてはよくわかりません。

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