生に対する恐れ (2) ジョン・シャーマン

 
前の記事の続き。

一応注意書き。ここで訳して紹介している部分 (ステップ1とステップ2) を実行すると、身体的、心理的、感情的な混乱や不安が引き起こされる場合がある。それが何年もの長期にわたって収束しないケースも報告されている。

逆に幸福感があふれたり(例: SHIROWの自由帳)、理由のわからない不安から一気に解放されて人生が一変したりする場合もあるとはいうが、どちらに転ぶかは予測不可能のようだ。

だから、出産前後、病中病後、入学や就職の前後、結婚や離婚の前後、近しい人の死の前後など、通常よりも混乱が負担になりかねない時期にこのメソッドをおこなう場合には、それなりの覚悟が必要だと思う。あくまでも自己責任で。(ミナトさんが最近のブログの記事で触れているように、じっくり時間をとる感じでやったほうがいいのかもしれない。気分に余裕のあるときに。ジョンは通勤バスでもどこでも同じと言うが。)

ここで改めてこのようなことを書くのは、この記事で言われているいくつかのことが、自分自身を見る上でかなり有効で強力なヒントになっているように思うからだ。

原文: The Fear of Life and the Simple Act of Inward Looking That Snuffs It Out

== 以下、訳 ==

自分という感じのありのままに注意の光線を向けて直接触れさせるということを真剣におこなえば、人間としての苦悩の第一の原因である生に対する恐れを終わらせることになるだろう。この行為を私は「自分自身を見ること」と呼んでいる。心の目で自分自身を見てみようとするだけで恐れの病気が消え、それとともに、自分の人生こそが解決しなくてはいけない問題であるとか、破壊されるべき脅威であるという認識はなくなり、未来のいつかに充足と満足をもたらしてくれる秘密の宝は人生のどこかに隠されていて見えなくなっている、という考えも消える。そのくらい単純なことだ。

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ステップ1: 自分の注意の光線を思いどおりに動かす練習

まずは、しばらくただくつろぎながら、注意を思いどおりに動かす力が自分にあるという当たり前の事実に注目しよう。

これを読みながら、この文からしばらくのあいだ注意を離して、呼吸の感覚に注意を向けてみる。胸と腹が膨れたり縮んだりする感じを意識し、それからこのページのこの部分に注意を戻す。「思いどおりに注意の光線を動かす」というのがどんな意味か、それがわかるまでこれを何度か繰り返す。注意を思いどおりに動かすという、今まさにやってみたとおりの行為が、私が勧めていることを成し遂げるために必要なすべてだ。この単純な行為を練習すればするほど、それがどんな感じかがよくわかってくる。そして、その「感じ」に慣れてくるほど、注意の光線をしかるべきところに向ける際のスキルと的確さが向上することだろう。

ステップ2: 注意の光線を内側に向ける

そのスキルを、注意の光線を実際に内側に向けるのに使いながら、自分という感じのありのままに何の媒介もなく直接触れてみる。「自分という感じのありのまま」とは「自分」のことであり、本当にそのまま、単純な「自分」だ。自分がどういうものであるかは誰にでもわかっていて、今言ったようなやりかたで自分を見ると、これが自分自身だと間違いなく認識できる。本当にそのくらい簡単だ。注意を自分に向けてみようという気持ちになったときは、気が済むまで繰り返すといい。

ステップ3はない。

自分自身を見るやりかたを耳で聴きたい人はこちら (訳注:英語)
自分を見てみた人たちのレポートはここで聴ける (訳注:英語)

どこに注意を向けるかについてのヒント

内側を見るというこの行為は単純なものであるかもしれないが、実際にしてみようとすると、簡単であるとはまったく感じられないかもしれない。でも、こう考えてみることもできる。自分の感覚というのは、いつでもここにある唯一のものだ。他のすべて ― 考え、信条、理解、見えるもの、聴こえるもの、感じられること、感情、痛み、喜び ― まさに自分以外のすべては現れては消えていく。つまり、自分を見つけるというのは、いつでもここにあるものだけを見つけるということだ。新たに現れたものは、それがどれほど素晴らしいものだとしても、自分ではありえない。それと同じで、以前ここにあって今はないものは、それがまた戻ってくる可能性があるとしても、自分ではありえない。

さらに言えば、自分とは無地で不動の場であって、他のすべてはその中に現れては消えていく。自分が自分に与えられるものは何もないし、自分から取り去れるものも何もない。そのため、心の目から見ると、自分というのはどうにもならないほどつまらないものだ。心の目の唯一の目的は、警戒を続けること、そしてつかむべきもの、拒絶し破壊すべきもの、輝きながら動きつづける途方もなく魅惑的で派手な現象の一大パレードの中で無視してもよさそうなものをそれぞれ見分けるという仕事を続けることなのだから。

生に対する恐れは一種の自己免疫疾患だ。その疾患の作用は、狂気の沙汰のようではあるが、自分の生から自分を遠ざけておくことであり、それを実現するためには、生じる現象に絶え間なく注意を注ぐことが必要となる。そのために、注意は自然にいつでも外に向けられていることになる。自分というのは、それに対して、全面的に完全に内的なものだ (この点については後に詳しく述べる)。

この試みにおいて実際に役に立ったヒントをいくつか紹介しよう。

・幼いころの出来事の記憶を頭に思い浮かべる。重要な出来事である必要はない。大人と一緒に部屋にいるとか、映画館から出るとか、窓の外を見るとか、その出来事の感じをある程度正確に思い出せるのであれば、どんな記憶でもいい。そして、一瞬でもいいから、そのときに自分であるというのはどんな感じがしたかを思い出せるかどうかやってみる。その出来事がどんな感じだったかではなく、そのとき自分であるというのがどんな感じだったかだ。そのかすかな雰囲気を感じられるかもしれない。もしそうなれば、それがの自分の感覚とまったく同じであることにほぼ間違いなく気づくだろう。

・自分自身の存在を確信しているという事実に注目する。世界にそれ以上に確かなことは何もない、という確かさだ。その確かさに注意を向けよう。というのは、まさにその確かさが自分の別名だからだ。

・いつでもここにあり、絶対に動かず、変化せず、現れず、消えないものを見つけてみよう。宇宙に存在しているものはすべて動く。すべてのものが動くのだ。自分以外は。

・自分の人間っぽさに注意を向けてみよう。宇宙に存在するもののなかで、人間だという感じを感じるのは自分だけだ。

・内側には自分以外には文字どおり何もないということを見てみよう。さまざまな感覚や経験が内側で起こっていると考えられているが、そうではない。感情、考え、見えるもの、夢、欲求、嫌悪、痛み、喜び、心の中に現れるあらゆる種類の経験は自分の外側にあり、そうしたものに注意を向けているときに見ているのは外側だ。どんなにそれが内側にあるように感じられるとしても。外側を見るのが間違っているという話ではまったくないし、人間として生きていく上での主な仕事は外側を見ることだと言ってもいいだろう。ただ、ここで言っているのは、自分自身を見ようとしているときには、外側は自分が見つかる方向ではないということだ。この区別の意味がわかれば、自分の注意を正しい方向に向けるために外側の現象を使うことで、自分への帰り道を見つけられるかもしれない。本当の意味で注意が内側に向けられるとき、そこで直接注意が向かっている先は自分であり、他のものではない。

おそらく、この道をすでに歩んだ人たちに聞けば、こうしたヒントがもう少し得られるとは思うが、そうしたものは、よく言われることではあるが、月を指している指にすぎない。指されている月とは自分にほかならない。最終的には、自分でやるしかない。結局のところ、注意の光線で触れようとしているのは自分であるわけだし、自分であるという感じを知ることができるとしたら、それは自分以外の誰かではありえない。

== 訳は以上 ==

最後の部分 (その3) へ続く。

(追記: ジョン・シャーマンのウェブサイトで、この和訳のebookが提供されている。こちら)

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生に対する恐れ (2) ジョン・シャーマン」への6件のフィードバック

  1. ヒロさんこんにちは。

    こうして詳しい説明を読んでいると、メソッドそのものはとてもシンプルだけど、底知れない可能性を感じます。
    リスクを孕んでいるぶん、両刃の剣とも言えそうですが、賭けてみる価値もあるかも (けどホントに完全自己責任 ! ですね 笑 。私は未体験です)。

    ヒロさんは、今は平和な感覚とか、生に対する親密さとか 、何か変化は・・・どうでしょうか ?

  2. ネムノキさん、見ることは完全に個々人の行為だと思うので、僕の体験について語りすぎることは邪魔になりかねない気がしています。(似た経験を追いかけるにしても、避けようとするにしても、自分以外の参照点ができるので)

    それと、変化という文脈で語ることは、このことについて言えば適切でないように今は感じます。結果的に変化が生じるとしても、それはまさに結果なんだろうと思います。うまく言えませんが。

  3. そうですね、たしかに個人によりますね。
    体験談によって必要ない先入観も出てしまいそうだし。自分を見る、言葉の表現はどうしても限界を感じそうですね。
    なんとなく、二元や非二元という枠にとらわれない、原初的雰囲気のメソッドだと思いました。

  4. このような話を聞いてると、いつも同じイメージが顕れてしまうのですが、

    もう何十年も前に、おそらくは私が子供の時に個人宅の上映会で観た8ミリのインドの映画?だと思うのですが、

    沙羅双樹の木?の下に座って、静かに瞑想して?安楽にいるシッダールタ(釈迦)に、

    “半透明な体”の色々な妖魔や妖女みたいな者が→入れ替わり~立ち替わり顕れては→話しかけてきたり、~呼びかけてきたりして、

    せっかく?静かに安楽にいるシッダールタを→動揺させようと、起こそうと?したり、邪魔をしようとしたり、或いは“興味深い話”で、外界に何とか関心をもたせようとするシーンがあるのですが、

    シッダールタ座ったままで全く動かず、反応せず、声をかけて来た人達は、あきれ顔で皆々消えて行くのです。

    ある程度の年齢になり、経験や知識を得るまでは、これらの人達は、何のことか、自分の心の中のことかとか分かりませんでしたが、

    今は、心の中でも、自分の身体の感覚ででも、その外側でもいいから、

    これらを無視してもいいし、無視せずに関心を寄せて経験してもいいというスタンスになってしまいました。

    私の場合、「私」の実感への気づきの呼び水となりましたのが、マハラジで、 具体的に“実感”して、(寛げて、いつでも正気でいられるので)、それを習慣づけしようと意識しましたのは、

    アジズ・クリストフがそれをステート・オブ・プレゼンスと呼んでいたのを知ったのが始まりでしたね。

    普段の無意識的にしか行われていないであろう“気づきや注意”を意図的に動かす経験をさせ、それに気づかせ、

    また、ジョン・シャーマンと違ってこの人は“探究+修行派”でしたので、第一段階の方便として、習慣づけを推奨していました。

    ヒロさんが訳して紹介して下さいましたジョンの言い分ですと、格式ばったり、スピリチュアルとか、非二元とかとの枠に入れられたくないように見受けられましたので(善意のあらわれとしてか?)、

    探求とか悟りとか、目に見えない事実とかに触れたことも無い、興味も無い一般人が不用意に初体験的に“それら”を体験してしまうことで、

    あらかじめ、スピリチュアルだとか、非二元だとかを打ち出して、予め“それら”に馴染んでる人たちが体験するよりも、食あたりや混乱が多いかも知れませんね。

    コメントですから、十数行で終わらせるはずだったのですが、なぜか、長くなってしまい、度々すいません。

    まだ日本には紹介されていない貴重な方々の情報をヒロさんは、無償で提供して下さっているので、いつもとても感謝して読ませて頂いております。

  5. だめだ。何十回やっても自分を「見る」ことができません。
    もうすこしヒントをください。

  6. イネさん、「生の恐れ (3)」の説明にあるように、見ることには実感が伴うとは限らないので (フォーラムの投稿などを見ると、そちらのケースのほうが多い気がします) 、たぶんすでにうまくいっているんだと思います。

    最近読んだ投稿には、人生との関わり方がまったく変わっていることに気づいた人が、六ヶ月前に「見ること」を一度だけやっていたことを偶然思い出したという話も出ていました。

    イネさんが何十回も試していること自体が成功の表れだという気もします。

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