生に対する恐れ (1) ジョン・シャーマン

 
これまでに、ジョン・シャーマンのメソッドとその解説的なものをいくつか訳してきた。

じつは、最初に紹介するつもりで訳しはじめて、まだここに載せていなかった文章がある。メソッドの背景の比較的詳しい解説に、メソッドそのものの詳細なインストラクションがくっついているものだ。

後回しにしていたのは、前半部分が理屈っぽくて少し読みづらいというのもあるが、後半のインストラクション部分を載せるのが怖い気がしていたのが大きい。説明が的確すぎて必ず成功してしまうよなあ、と。(変な話ですが、それが実感)

でも、結局は載せてみることにした。何かの理解が深まったからでも、ジョンとカーラの真剣さに打たれたからでも、怖さがなくなったからでもなく、止められない感じにただ押された。

なお、理論の説明的な部分はかなりぎくしゃくしていて読みづらいから、興味がなければ飛ばしても構わないと思う。前にも書いたけれど、そうしたおしゃべりにはあまり意味がない、とジョン自身もことあるごとに言っている。

長いから数回に分ける。

原文: The Fear of Life and the Simple Act of Inward Looking That Snuffs It Out

== 以下、訳 ==

生に対する恐れ、そしてそれを終わらせる内側を見るという単純な行為

私たちの活動を支援するためにPDFのeブックを購入する方はこちらへ (2014年11月12日改訂) (訳注: 英語版のみ)

生に対する恐れの起源

生に対する恐れは私たち人間のなかに自動的に生まれるが、それは誕生の際に子宮から追い出されるときに起こるものと考えていいだろう。何の前触れもなくだしぬけに眠りを中断され、気がつけば、のちに経験、印象、感覚、感情などと呼ぶことになる、激しく荒れ狂う嵐の中だ。私たちの存在の意識は、子宮内での深いまどろみから追い出され、いまや意識が直面しているのは、暴力的で落ち着かない動き、痛み、圧迫、騒音、まばゆい光、そして外の世界への放逐に伴うあれやこれやの騒ぎという驚くほどの爆発だ。当然のように恐れと収縮が生じる。

生に対する恐れの影響

そこから時間が経って、むきだしの経験の最初の襲来をどうにか耐えぬいたことがわかると、生に対する恐れの緊張と強烈さはしだいに背景へと退きはじめる。ほとんどの人の場合、それはたいていは表面から姿を消し、自分の生に対する不安、心配、不満、不信といった非常にかすかなつぶやきに変わって、あらゆる経験のBGMとして絶え間なくささやき続けることになる。それは、人間としての生そのものが問題だという感覚、幸福に必要な重要な特質が生自体にはそもそも備わっていないという感覚、著しく間違った何かが生には初めから混ざり込んでいるという感覚、そういうしつこい感覚だ。生が望みどおりになることなどありえないという感覚。

この不安と不満のつぶやきは、ほとんどの人の場合、根底にありながら見直されることのない前提となって心をかたちづくり、生を実際に知覚する視点はその上に築かれる。そうした前提に左右され、そうした視点の制限を受けながら、人間は自分の生の状態をさまざまに解釈し、その解釈をもとにして行動するようになる。

その結果、ある思い込みにたどりつく。人間であることの問題を解決する方法を見つけるためには、間違っている何か、脅威になっているその有害な何かを心の中で見つけ出して破壊するか、そうでなければ、正しくて安全で納得できるものを心の中で探し出して、それをつかむしかないのだと。

必然的に抵抗することになる。生はもともとあてにならないし、危険なものだと信じているからだ。そう信じていれば、警戒を続けながら、脅威を特定してそれを打ち破る方法を探す必要に迫られることになるのは当然だ。

そしてお互いの関係においては、守りの状態、防御態勢、警戒状態、閉鎖的姿勢を絶えず維持するようになる。他人にだまされないように、あるいは他者から保護される機会を逃さないように。

うねりながら変化する傾向としての生の力、自分の心の背景になっている生の力は、存在と感情のありかたであり、それは自分個人に属しているものなのだと思い込むようになる。その存在と感情の状態こそが自分の生の本質であり、もっと言えば自分自身の本質に違いないと信じる。そして失望する。

生に対する恐れに対処しようとして失敗してきたことについて

私たち人間には、理解し、つかみ、壊し、無視するという戦略をとりながら満足を手に入れようとして失敗してきた長い歴史がある。理解や反応が起こることそれ自体が問題なのだと信じるにいたった人も数多く、そうするとそれは多くの場合、心の静寂と静止状態を生み出すための修行や探求につながる。なかには、思考そのものが問題であって思考は止めなければいけないと判断した人たちもいる。さらには、エゴを根絶しなさいとまで言う人たちもいるが、エゴとは「私」を表すラテン語であり、それは私が自分を指すときの呼称にすぎない。

さて、生存のためのこうした技法や戦略 ― 正しさ、抵抗、依存、無関心、残忍な攻撃といったもの ― が出てくることには、そして人が自分を守ろうとするときにそうしたやりかたが採用されてきたことには、もっともな理由がある。やりかたは誤りであったとしても、そこには正当な理由があったのだ。生はまったく当てにならず脅迫的で、それは見せかけの希望と空約束で生が私たちをいい気分にさせているときであっても、あまり変わらないように思える。

ほとんどのケースでは、生に対して不満があるときに通常発生する確実で間違いのない反応は、断固とした無言の拒絶だ。

症状を治療することで病気を治そうとすること

自分の生をまともなものにしようとして私たちがこれまでずっとやってきたのは、心の矯正だ。閉ざされた狭い心ではなく、優しく思いやりがあって率直な心、愚かではなく賢い心、狂気ではなく正気、混乱ではなく明晰な心を私たちは求める。だが、心 ― その特性、その強さ、その弱さ、その思い込み、その視点、その移り変わり、その感情、その思考、その誤り、その正しさ ― 、心は問題ではない。心とは結果の集まりにすぎず、そうした結果の大半は、生に対する恐れが症状としてあらわれたものだ。そのことに気づかないままで、自分の生を台無しにしている根源的な不満を終わらそうとして私たちがやってきたことのほとんどすべてが、不満という結果を変えようとすることだったのだ。言ってみれば、症状を治療することによって病気を治そうとしてきたのだ。

そして当然のことだが、どれもうまくいかない。うまくいくはずがない。症状から逃れようとすること自体は何も悪くないが、症状を治療したところで病気そのものが治ることはない。

私の考えでは、生に対する恐れをひとつの病気としてとらえることが助けになる。生に対する恐れは、誕生のときに唐突にふりかかってきた災いだ。この病気の存在は、人の存在の本質とも、意識の明晰さとも、正しさとも、意欲とも、理解とも、信念とも、価値とも価値のなさとも、まったく関係がない。この病気の発生に関しては何も口出しをすることができなかったし、それが生じるのを防ごうにも何もしようがなかった。それでも、この病気の影響は人生全体に及ぶ ― 過去に出現し、現在を台無しにし、未来へも続いていく。

そして、症状を攻撃することでこの病気を根絶しようとする必死の努力にもかかわらず、聖人たちの敬虔さと献身にもかかわらず、智慧の教えに見られる機知と洞察にもかかわらず、資本主義の繁栄によって自分自身に関する問題を検討するのに十分な富と教育と時間を手にしたにもかかわらず、人間は症状をやわらげることについてさえ、ほとんど何もできていないし、せいぜい手にできたのは、さまざまなやりかたでそうした症状に無感覚になるための自制的な衝動であるにすぎない。現実がどうなっているかといえば、大部分の人たちにとっての生と死は、低空を進む苦悩状態、自分の生からの神経症的な疎外の中で起こるものであり、そこにときおり情熱や絶望のひとときが混ざったりしながら、死によってのみ静寂がもたらされる。

失敗してきたのも無理はない。姿の見えない誤った思い込みをもとにして、これまでずっと行動してきたのだ。人間としての生そのものが人間として生きることの問題なのだという誤った思い込み。そうした思い込みから流れ出ている悲観と絶望という川の中を泳いでいれば、生の中で安全な居場所を見つけられる可能性はあまりない、ということに気づくのに悟りは別に必要ない。

生に対する恐れについて私たちにはできることがある

できることが何かあるはずだ。明らかなのは、人類の中には ― 大勢ではなく少数だが ― 生の中で平安と自由を発見したように見える人たちがいるということだ。例としてはブッダが思い浮かぶし、いろいろな時代、さまざまな伝統において他にもそうした人たちをたくさん見つけられるが、その誰もが人間としての生において深遠な調和と充足を達成したと考えていいだろう。そして、彼らは自分が見たものについてその感じを私たちの心に呼び覚ますことにおいては非常に成功しているわけだが、彼らが見たものを私たちが自分自身で直接見られるようにするためには何をすべきか、というアドバイスを実際に役立つかたちで提供することについては、ほとんど結果を出していない。

私はここで、自分で実行可能かつ効果的な方法を提案したい。効果があると言えるのは、私自身に効果があり、妻のカーラにも効果があり、世界中の多くの人たちのあいだで効果を生み続けているからだ。もっと別のことを選んでもよかったかもしれないのに、私の言ったことを実際に試してみた人たちのあいだで。

なぜそのやりかたが効果を生むのかということについて、私は自分なりの考えを持っている。だが、間違いなく効果を生むという確信は、理論上の解釈からではなく、自分自身の経験から来たものだ。そして、「なぜ」という部分は実際のところまったくどうでもいい。では紹介しよう。生に対する恐れを終わらせる、内側を見るという単純な行為を。

== 訳は以上 ==

その2へ続く。その2は見ることのインストラクションの部分になる。

(追記: ジョン・シャーマンのウェブサイトで、この和訳のebookが提供されている。こちら)

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