見ることはスピリチュアルか? ジョン・シャーマン

 
2009年だか2008年だかのジョン・シャーマンのリトリートのDVDを見ていて、けっこう印象的な場面があった。

ひとりの女性参加者が質問席にやってきて、ジョンに「私の目を見てください」と言う。ジョンは一瞬苦笑いしながらも、その人の目をしばらくのあいだ見つめる。満足した女性は自分の席に戻った。

するとジョンは、「私は『目を見つめる業』はやってないんだよ」と言い出した。そして、自分自身を見るということがいかにスピリチュアルとは関係ないか、静かに語りだしたのだった。

「グル」の目を見るというのは、10〜15年くらい前のサットサンブームの頃にはよく見られた慣習だったようで、その参加者がそんなことを言い出したのも、ジョンのやっていることを「ノンデュアリティ・ショー」のひとつだと思っていたからだろう。

でも、ジョンのメソッドは自分自身を見るものであって、他の人の目を見ることでも、「真我」という概念に合っていそうなものを探すことでも、他の人が持っているように思える抽象的な何かを手に入れるためのものでもない。ジョンはかなり丁寧にその点を説明していた。

ここに訳す2010年の文章は決して読みやすくはないが、ジョンがそれと似たポイントについて語りながらメソッドの実践に誘うものだ。

原文: Is the Looking Spiritual? (JustOneLook.org)

== 以下、訳 ==

見ることはスピリチュアルか?

このところ、このワークへの関心が高まってくるにつれて、古くからの智慧の教えと、私たちがここでしていることがどう関係しているかについて、混乱が増しているように思える。

見ることはインドから来たウパニシャッドの教えのひとつの形式だとか、おそらくは自己探究の一種なのだろうと考えている人たちもいる。

より成熟した、もっとしっかりした修行体系を薄めただけの手抜きバーションにすぎないと考える人もいる。こんなのはあまりに単純すぎて、真理を求める真剣な探求者には何の役にも立たない、と。

いわゆるスピリチュアルの先生たち、生きているにしても最近この世を去ったにしても、そういう人たちが教えているのと同じことなんだろうと思っている人も多い。

それからもしかすると、インチキな金儲けだと思っている人たちがいても別におかしくはない。といっても、見ることについて私たちの知っていることはすべて無料で公開されていて、どんな条件も課されていないことを考えれば、これを詐欺呼ばわりすることには無理がある。

いずれにしても、スピリチュアルな教えとの関係については、きっちりかたを付けておくべきだった。すべきことがたくさんありすぎて、私たちのワークとまったく無関係なそういうあれこれに費やせる時間が私たちにはほとんどなかったのだ。

信じてほしいのは、いかなる意味でもスピリチュアルな実践を退けるつもりは私にはないということだ。ただ、見ることがスピリチュアルな行為だという考え方と決着をつけたいだけだ。

というよりも、見ることはスピリチュアルな教えだということでも別にいいが、とにかく私は同じような教えにこれまで一度も出会ったことがないのだ。

見ることは、生の激しい嵐からの解放も、空(くう)や至福という名前の隠れ家も約束しない。見ることは、真の自己、偽の自己、どんな自己についても一切何も言わない。選ばれた聖職者はいないし、教義もない。そして私自身の経験から言うと、自分の生に対する偽りの不信が分解し、ついに自分の生という故郷に無事に戻ってくることができたということ以外には、見ることは私にまったく何ももたらしていない。

そして、見たとしても直接的にもたらされることはほとんど何もないが、それ以上に、必要とされるものも何もない。

新たな知識も必要ないし、何かを信じる必要もないし、見るという行為自体を信じる必要もない。そして、すでにある知識や信条を捨てる必要もない。

金を払う必要はないし、誰か、あるいはどこかの組織に忠誠を誓う必要もない。

必要なのは、注意を意識的に一度だけ動かして、自分にとって「自分」だと感じられるそのままの感覚 ― 心の中心にある、ただの人間の気配 ― を一回味わってみるということだけで、それ以外には何もいらない。

それを一回だけやってみること以外には何も求められない。見ることが促すのは自立だ。見ることはどんなこととも敵対しないし、誰も非難しないし、どんな批判もしないし、どんな種類の組織的活動についてもそれを破壊すべきだとか、創設すべきだとか、支持すべきだといったことも言わない。

見ることの結果は、個人個人によってまったく異なるやりかたで展開するが、ほとんどのケースでは、見ることの結果が心の領域で表現されはじめるときに、何らかの混乱が起こる。

私たちはある洞察からこの見るという行為にたどりついたわけだが、それは、人間の自己嫌悪や他者に対する嫌悪のすべて、自滅的で攻撃的な行動形態と人間関係のすべて、苦悩のすべて、自分や自分の人生への失望のすべてが、たったひとつの根本要因によるものであり、その要因とは生に対する恐れであるという洞察だった。

私たちが発見したところによると、この生に対する恐れは誕生時にほとんどの人を襲い、それは誰の過失でもないが、誕生時の衝撃と猛威によって文脈が決まり、それが人間の心理全体 ― 理解や、根底にある前提や、ものごとの好き嫌いのすべて ― がかたちづくられる土壌を汚染する。

私たちの考えでは、生に対する恐れは一種の心理的な自己免疫疾患だ。この疾患は、生きているという危険から人を守ろうとして、生に墜落して滅んでしまうことがないように、生から一定の距離を維持しつづける。この疾患は人の心理のレンズを歪めるが、その歪んだレンズを通して人は自分に対して起こること、自分に関すること、自分自身の内で起こること、自分の周囲で起こることの意味や妥当性や予想される影響を認識する。それによって、生は信頼できない、生は安全ではないという思い違いが生まれ、そして維持される。

見ることはスピリチュアルなのかどうか、という問いについて書こうと最初に決めたとき、私が書こうとしたのは、旧来の教えがどのようにして誤った観念に陥ったのかという点を指摘しようとするものだった。その誤った観念は、スピリチュアルで素晴らしい生のありかたがどこかにあるけれども、無知にもとづく世俗的なものごとへの執着によって今はそれが見えなくなっているだけだ、という思い込みを基盤としている。

私がそのとき思ったのは、そうした教えは恐れから逃れて生とのまったくの分離という子宮内のような状態に逃げこむのを勧めているにすぎない、ということを示せばいいのではないかということだった。そして、そのことを明らかにすることによって、見ることとスピリチュアルな教えのもっとも根本的な違い、つまり、スピリチュアルな教えでは生を忌み嫌うのに対して、見ることは生への完全なる没入をもたらすという違いを説明できると考えた。

けれども、そこで私は思い出した。冷笑的な傾向や絶望にはまりこんでいた私自身の状態が解消されたのは、人間の苦悩という難解なパズルを理解し解こうとする古くからの試みとの出会いのおかげだったこと、そして今あなた方にこうして伝えているというのもその出会いの結果だということを。そのため、そのような説明のしかたはやめておくことにした。

スピリチュアルな教えは問題ではない。経済システム上の不公平は問題ではない。いま出撃ラッパの響きが再び高まろうとしていることは問題ではない。恐れが問題であり、恐れが他のすべてを引き起こしている。恐れが消えてしまえば、それとともに、私たちの中にある真実ではないこと、自己破壊的なことすべてが消える。

恐れをもたずに自然に自分の生の豊かさを味わっている人が、意図的に他の人たちを傷つけることはありえない。

神経症的な恐れも不安も存在しない世界を想像してみよう。それが、見ることによって実現できると私たちが信じている世界だ。

だから私たちのワークの目的は、自分の苦悩は自分のしわざではないということ、心の目で内側を見るという単純で害のない行為によって苦悩が簡単に解消する可能性があると人類に知らせること、それがすべてだ。

内側を見るという単純な行為がすべてを変えるかもしれないと知らせること。

だから、過去に起こった最初のつまづき、大昔の人たちの認識違いを罵るのではなく、ここではその単純な行為をただ一緒にやってみるのが一番いいだろうと思う。

まずは、少しのあいだ静かに座る。心が落ち着いて、今読んだことのエネルギーが少し抜けていくまで。ここでしようとしているのは、何かを証明することでも、何かを論破することでもない。今しようとしているのは、ここにいる自分のかすかな感覚を直接味わってみるという、ただそれだけだ。

目を閉じたほうがやりやすい人がほとんどだろう。

・まず、いろいろな身体感覚とその揺れ動きについての知覚がつくるシンフォニーに注意を向ける。身体感覚やそうした感覚についての考えに注意が引き寄せられたり、そこから注意がまた離れたりする様子に気づいていよう。そうしたことについては、一切何もしなくていい。生きているという感覚にしばらくのあいだ自分をなじませるだけでいい。

・つぎに、自分の注意を身体感覚や知覚に向けようという意図を持てば、つねにほぼ思いどおりに注意を動かすことができるという点に注目する。

・それから、心や身体のまわりで注意の光線を動かして、「自分」と呼んでいるものの感覚を見つけてみる。それは非常にかすかで静かで透明で軽い感覚であり、他のさまざまな身体感覚や思考が背景で起こっているときには、ほとんど気がつかないようなものであるはずだ。

大半の人たちの場合、一生のほぼすべての期間、この地味な感覚は恐れという騒音と臭気によって見えなくなっている。見てみれば、それが自分にとっての自分の感じだということ、それ以上でもそれ以下でもないということがわかるだろう。

そして、奇妙に思えるかもしれないが、自分のそのままの味わいを実感できたか、これがそうだと認識できたかどうかはどうでもいい。指示のとおりにやったのであれば、成功したのはたしかだと思って間違いないし、やってみたことの影響が現れはじめていることにそのうち気づくのも間違いない。

自分の生に注意を向けよう。それがすべての満足の源であり、それについて言えばスピリチュアルなこともスピリチュアルではないことも何もない。

ディスカッション・フォーラムは良い助けになるだろう。 (訳注:日本語無し)

ジョン・シャーマン
2010年3月28日

== 訳は以上 ==

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