ジョン・シャーマンのワークは何が違うのか

 
「I am」にとどまれというニサルガダッタの教えとジョン・シャーマンのワークの違いについて、ジョンが質問に答えている文章がある。

途中少しわかりづらい部分もあるが、ともかく訳してみた。

原文: What makes our work different (JustOneLook.org)

== 以下、訳 ==

私たちのワークの何が違うのか

つぎのような質問がメールで送られてきたが、これはとても役立つように思う。

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Q. まずはじめに、心の底から、そして深い感謝とともに「ありがとう」と言わせてください。トークをいつも楽しく聴かせてもらっていますが、それはあなたの嘘のなさ、誠実さ、そして何よりも飾り気のなさのおかげです。ひとつ質問をしたいのですが、答える時間をとっていただけるでしょうか。答えていただけたら大変ありがたいです。ずいぶん前のことですが、ニサルガダッタ・マハラジの本『I Am That (アイ・アム・ザット 私は在る)』に出会いました。内容はほとんど理解できませんでしたが、いくつかの点が自分に響きました。少し長くなって恐縮ですが、深く感銘を受けた部分を二箇所引用したいと思います。

私から君に言えるのはきわめて単純なことだ。ただ自分自身を忘れずにいなさい。「我あり (I am)」、それだけで心は癒され、その向こうに行けるだろう。信頼することだ。私は君を迷わせたりはしない。そんなことをするわけがない。君に何を期待しているか? 私が願っているのは君の幸福だ。私はそういう人間だ。君を迷わせる必要などない。願いを叶えたいならその願いについて考え続けなさい、というのは常識的な知恵としても言われていることだ。自分の本質を知りたいのであれば、つねに自分自身を思い続けなければならない。そうしているうちに、自分の存在の秘密が明かされることになるだろう。

「我あり (I am)」の感覚にただとどまっているだけで、すべての栄光がやってくる。間違いがないのは単純なことであって、複雑なことではない。なぜかはわからないが、単純なこと、簡単なこと、いつでも手に入るものを人々は頼りにしない。私の言うことをまっすぐに試してみたらどうだろう。いかにも地味でくだらないことのように思えるかもしれないが、それはやがて巨木に育っていく種のようなものだ。みずから好機をつかみなさい。

私は、「我あり(I am)」の感覚に注意を向けなさいというニサルガダッタ・マハラジのアドバイスにしたがってきました。そして、そうするのがとても気に入っています。さらに今、あなたについて知り、そのメッセージに出会ったわけです。私がお訊きしたいのは、あなたの言っていることとニサルガダッタが言っていることの間には違いがあるのか、ということです。あるとしたら、それはどんな点でしょうか。

お時間をいただいたこと、そしてお気持ちに心から感謝します。

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私からはつぎのように返事をした。

私が言っていることと引用文の中でニサルガダッタが言っていることの主な違いは、単に用語の問題だ。ニサルガダッタが指しているのもまったく同じことだと私は思っているが、彼のアドバイスは必要以上に抽象的だ (私の場合も抽象的ではあるが、彼ほど抽象的ではない)。「我あり (I am)」という概念は宗教的、霊的な前提に染まっていて、その意味をどう理解するかについては人によって非常に大きな違いがある。ニサルガダッタは「我あり (I am)」の感覚にとどまることをすすめているが、私が言っているのは自分であるというのはどんな感じがするかを一度だけ見てみようということだ。私たちがここで実際にしようとしている経験を指すときに使う言葉としては、「自分」という人称代名詞の方が紛らわしさがない。

こう言うと、違いがないのにわざわざ区別しているように見えるかもしれないが、ここで私たちが何をやろうとしているのか、そして私たちのワークがどんなことを前提にしているかが理解できれば、なぜこうした区別をするのか、その理由がわかるはずだ。

私たち (訳注:ジョンとカーラ) は、人間として存在するという経験にまつわる問題は、現実や意識の深遠な本質とも、存在の一体性あるいは一体性の欠如とも関係していないと考えている。明らかであるように思えるのは、人間として生きるという経験の中心には人間の心があるということ、そして人間の心は心理的機械の集合として存在していて、それが個人の性格をかたちづくり、人生を生きている個々の人間の人生全体を決定するということだ。

つまり、私に言わせれば、問題はまったくややこしいものではなく、単純に個人の心理に関することであるが、ほとんどの人の場合、生そのものについての恐れと不信という文脈によって、そして人間として存在するという経験にこの病気が毎瞬関わっているそのやり方によって、病的な心理状態に置かれている。私たちはそれを生に対する恐れ病と呼んでいて、一種の心理的な自己免疫疾患として扱っている。私にとってたしかなのは、人類の大多数がこの疾患に感染しているということ、そしておそらくは誕生時あるいはその直後にほとんどすべての人をこの疾患が襲うということだ。これによって、生に対するほぼ例外なく見られる不満、そして、苦痛から逃げ、破壊し、否定しようとする悲惨な集合的試みを引き起こしながら人類を苦しめている不満の理由を説明できるはずだ。

私たちのワークは、この問題をスピリチュアルに解決しようとするやりかたとはかなり異なっていると思う。

私たちが自分の目で見てきたところによれば、「自分」の感覚を感じてみるということを一度するだけで、そのような恐れに満ちた隠れた前提は確実に消えて、疾患は治癒する。それが起こると、心はそれ自体で再生成しはじめる。この再生成のプロセスは長く続くこともあればすぐに終わることもあり、またその過程では大変な苦痛が発生することもあれば、あまり起こらないこともある。この苦痛と混乱の期間を私たちは「回復期」と呼んでいる。この呼び方がどれだけ適切かということを私たちは理解しつつあるが、それはなぜかといえば、「薬」を摂取して回復の過程にある人たちがその後しばらくたってから報告してくれるからだ。彼らの報告によれば、人生におけるいろいろな困難に以前よりもはるかにうまく対処できるようになり、周囲の人々とのつきあいかたもずっと理性的で巧みなものになりつつあるという。生を克服すべき重荷としてとらえることがなくなり、自立的な取り組みという冒険として見るようになるのだ。

私たちがしようとしているのは、人々を存在の一体性や不可思議さに目覚めさせることでも、経験そのものの平安と愛を体験できるような手段を提供することでもない、というのが私たちの考えだ。そうではなく、ひとりの人間としての人生、まったく今あるとおりの生についての本当の満足を唯一邪魔しているこの病気を治すのがどれだけ簡単かを示すという単にそのことだけが私たちの役目だ。

ここでもうひとつ触れておきたいのは、他者を暗闇から連れだす手助けをしようとしてほとんどうまくいっていない目覚めた存在たちのことだ。はっきりしているのは、そうした善良な人々 (このグループにはニサルガダッタ、ラマナ・マハルシ、ゴータマ・ブッダ、そして古代から現在までの大勢の人たちが含まれる) が目覚めたのは、彼らが宗教的あるいは霊的な文脈に深く根ざした修行や教えにしたがっている最中だったということだ。そのせいで、彼らの心はそうした文脈に忠実に沿ったかたちで再生成され、それが原因となって、この病気とその治療法が霊的というよりも世俗的なものであることを理解することも、人々に伝えることもできなくなった、というのが私の考えだ。

もし関心があれば、この見解の心理的な根拠について精神科医とふたりの心理療法士が書いた論文を読むといいだろう。彼らはその論文を審査付き専門誌に投稿することになっているが、私たちのウェブサイトには無料eブックとして既に置いてある。

The Radical Act of Inward Looking (内側を見るという抜本的行為) (訳注:英語)

それから、ディスカッションフォーラムでの対話をチェックしてみてもいいだろう。無料で、閲覧するだけであれば登録不要だ。

http://www.justonelook.org/look/forum (訳注: 日本語無し)

ジョン
2014年4月20日

== 訳は以上 ==

ジョンのメソッドをやってみたとき、「ああ、これは非二元というラベルと共に語られていることとは別のものだな。共通のボキャブラリーがない感じがする」と思った。「私という個人はいないんです」とか「概念とは関係なくただここに今いるということ」とかいった言葉だと、ほとんどこぼれ落ちてるんじゃないかな、と。

そのあたりがこの文章ではかなり説明されている気がする。(その点について、つまりこれはノンデュアリティともスピリチュアルとも一切関係がないという点について、ジョンが詳しく書いている別の文章もあるから、いつか訳してみたい)

このあとは、たぶんメソッドについてのFAQ (よくある質問) を訳す予定。
 

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