ジョン・シャーマンのストーリー

 
先週の記事にも書いたとおり、ジョン・シャーマンの人生は強烈なエピソードに彩られている。16歳で小切手詐欺をしたり、「革命的銀行強盗」や「階級的な爆破闘争」をしたり、捕まってもなぜか捜査官の助けを借りて脱獄したり、と本当に激しい。

僕は何年か前、「美しい系譜」にアホみたいにうっとりしていたことがあった。音楽学者だったジャン・クライン、エリート研究者だったフランシス・ルシール、陶芸家のルパート・スパイラというような、いかにもという流れ。

でも気がついてみたら、自分が強く惹かれているのは、しょっちゅう名前を変えながら逃亡生活を送っていたJ・C・アンバーシェルのような人だったりする (死ぬまで娑婆に出ることはないだろう、というのが彼自身の見立てだ)。今回、ジョン・シャーマンの経歴を知ったときは、「またそうきたか」と思った。

ジョンの最近の動画を見ると、静かな老紳士という感じもする。ただ、ときどき光る目の奥のきらめきには、どこかの元親分といった雰囲気もある。

ジョンのリトリートのビデオを見ながら、ちょっと前に読んだ『吉福伸逸の言葉』に出てくる「存在の力」という言葉を思い出していた。吉福さんの言う「存在の力」とは、「簡単にいえばハラの据わり方」であり、それがあればあるほど「自分や他人の中にどのようなタイプの感情が出てきてもきちんと受け止めることができる」ようになるもので、それをもっとも発達させるのは「アイデンティティの破綻」だ、という感じの概念だ。

もはや数えるのも難しいほどつぎつぎと出てきている自称「悟った人」、「なんとかティーチャー」に飽き飽きし、「美しい系譜」にもほとんど興味を持てず、その一方でアンバーシェルやジョン・シャーマンのような人たちに自分が惹かれているのは、そのあたりが関係しているのかもしれない、と思った。意図的であったかそうでなかったかには関係なく、ともかくアイデンティティを捨て続けてきたことから出てくる何か。

と言っても、アンバーシェルは今も刑務所だから姿を見かけたこともないし、ジョンとも直接話したことはない。会ってみたら、「あれ?」となるかもしれない。まあ、言ってみれば幸せな片思い期間か。

そのジョン・シャーマンが自身の人生を振り返った文章を訳してみた。

原文: Autobiographical Sketch (John Sherman)

ただし、繰り返しになるけれど、こういったストーリーはメソッドそのもの、メソッドが見ようとしているものとはまったく何の関係もない、というのがジョンが強調していることだ。

== 以下、訳 ==

自叙伝的素描

私が生まれたのはニュージャージー州カムデンで、1942年の夏だったが、父母についてはあとになって人から聞かされたことくらいしか知らない。3つか4つのときに両親が離婚し、私は祖父母のもとで育てられた。祖母は聖霊ペンテコステ派の信者だった。10歳くらいのときに祖父が死んだが、その葬儀には母もやって来た。それからまもなく母は優しい男と再婚した。その人は工具と金型を作る職人で、いろいろと教えてくれたが、それが私の哲学的な人生観のもとになった。ふたりは私を祖母から引き取って、それから1年もたたないうちに私たち ― 母と義父と私 ― は南カリフォルニアへと移った。

10年生で16歳だった1958年に、私は両親の小切手帳を盗み出して、不渡り小切手で航空券を買いニューヨークへ飛び、プラザホテルに転がり込み、そこで服や工芸品を買い込んだり、ブロードウェイに『J.B.』という舞台を見に行ったり、酒とご馳走の豪遊を楽しんだり、しまいにはホテル内の宝石店でパテック・フィリップの2,500ドルの腕時計を買ったりしたが、そのすべてを、盗んできた両親の小切手帳の不渡り小切手で払った (今とは違ってガキンチョでもわけなく詐欺ができる時代だった)。腕時計は結果的にはちょっとやりすぎだった。ホテルのセキュリティが事態に気がついて調べ始め、カリフォルニアに何度か確認の電話をしてから、私を捕まえにやって来た。最後には彼らはニュージャージーの祖母に電話して送金させ、その金は釈放のための弁償金、それから祖母のところに行く列車の切符代になった。

私はしばらく祖母と一緒に暮らし、既婚女性に手を出し、彼女の夫 (元海軍兵士) に見つかって陸軍に逃げこんで、ドイツで冴えない兵隊生活を3年ほど送った。

除隊になったあと、ニュージャージーの祖母のもとへ戻り、祖父が生前働いていたカムデンの造船所で見習い機械工になった。腕を磨いて自活できるほどになり、いくつかのマシな職場とそうでもない職場を経験し、くだらない冒険をしたりもした。その見習い期間が終わると、すぐに何人かの悪徳弁護士に雇われてしばらく働き、それからTRW (Thompson Ramo Wooldridge)社の機械工場で夜勤監督の職についた。それほどたたないうちに、TRWの職場で私の下で働いていた女が夫を捨て、私は彼女と駆け落ちして南カリフォルニアへ行き、そこで私はポーカーやクレジットカード詐欺、小切手の不正といったことを生業にするようになった。その女とは長くは続かなかった。

警察が動き出して警戒の網を突破し、そのころ盗品の売却や不渡り小切手の現金化に使っていた下っ端連中を調べはじめたとき、私は間一髪で逃れてオレゴンへ行ったが、そのときは別の女と一緒で、彼女も3人の子どもを連れて夫から逃げているところだった。私はオレゴンでコピー機販売の仕事をはじめたが、そのうちに、運転していた車が不渡り小切手を使ってカリフォルニアで買ったものだということがオレゴン州警察にばれ、逮捕された。盗難車の州境越え輸送という連邦犯罪で起訴されて、オレゴン州ポートランドに移送され、連邦地方裁判所で裁判にかけられた。執行猶予を期待して罪状を認めたが、実際には3年の実刑になって、ソロモンという名の判事によってマクニール島の連邦刑務所に送られた。

マクニールでは何人かと仲良くなり、一緒に扇動活動をしたり、マルクス、エンゲルス、レーニン、毛沢東の著作を読んだりして、自分たちを犯罪者ではなく政治的活動家として見るようになった。そして、ついには13日間の非暴力的ストライキを起こすのに成功したが、その終わりに私は独房に放り込まれ、釈放されるまでそこにいろと言われた ― そのとおりになった。

独房で18か月過ごしたあとマクニールの刑務所から出所し、カリフォルニアから一緒に逃げた女と再会して、ボーイングの開発部門で熟練機械工として働くことになり、革命的共産党に入党した。何年かたってイデオロギー対立をめぐって党を去り、そのうちに無政府共産主義者の寄せ集めグループと関わるようになったが、マクニール刑務所時代の同志が率いていたその集団は、ジョージ・ジャクソン旅団というかなり大げさなグループ名を名乗っていた。ほどなく、私は連中を説得して無政府主義路線を放棄させ、貧困層や労働者が食べ物を買いに行くセイフウェイのようなスーパーマーケットを爆破する行為をやめさせた。それから電力労働者のストライキを支援するために、シアトルの高級住宅街ローレルハーストを停電させる計画を立てた。電気が止まれば、金持ち連中の安定した生活がじつは人々の労働で支えられているという事実を知らしめることができると思ったのだ。我々が電力を止めたのは1975年の大晦日だったが、作戦実行の直前に警察とマスコミに予告電話をして、その行動がテレビで確実にカラー中継されるようにした。劇的にうまくいった。ストライキはそのうちに収まって、我々は活動の場を銀行強盗に移した。ローレルハースト作戦から一か月もたたないうちに、ワシントン州タックウィラの移動型銀行を襲おうとしたが、現行犯で捕らえられた。仲間の一人が撃ち殺され、私はあごを撃たれ、古くからの同志と共に私はまた拘置所に戻った。

捕まっていた期間は長くはなかった。6週間ほどたったとき、銀行強盗のときに捕まることなく逃げていた仲間の助けを借りて私は逃亡し、しばらく街を離れて傷を癒し、体力を蓄えた。1年くらいあとに街に戻り、銀行強盗をしたり、資本家の施設を破壊したりして、敵を驚愕させた。そんなことだけを1年かそのくらい続け、そのあとでまた逮捕され、裁判にかけられて有罪判決を受け (裁判はそれ自体だけでかなり注目する価値のある話ではあるが、ここで書こうとしているような短い概要には収まりきらない) 、刑務所に送られた。裁判が終わってから刑務所に送られるまでの間に、裁判所が任命した捜査官のマリアンヌと私は結婚し、式は連邦裁判所で行われたが、そこに並んでいたのはこれ見よがしに武装したFBI捜査官たちだった ― 文字どおりのショットガン・ウェディングだ (訳注: 英語の「ショットガン・ウェディング」にはできちゃった結婚の意味がある)。

合計30年の懲役が科せられ ― あまりに寛大すぎて検察官は心臓発作寸前だった ― 、ロンポック刑務所に送られたが、妻の助けを借りて数ヶ月後に脱獄した。

私はFBIの最重要指名手配リストのトップ10のひとりになったが、今度は言わば真人間として生きると決めていた。私たちはコロラド州ゴールデンに移り、デンバーの航空宇宙関連企業サンドストランド社で精密機械工の職についた。すべてはほぼうまくいっていたが、それは、反労組的な気風が狂ったように強いコロラド州にある、狂ったように反労組的なこの企業で労働者を組織化するキャンペーンを始めるまでの話だった。私は解雇された。だが、組合活動を理由とした解雇を禁じた労働法に違反する解雇だったということで、のちにかなりの額を受け取った。私は職場で極めて高い生産性と正確性の実績を残していたため、サンドストランド社側は解雇に足る正当な理由があったと証明することができなかったのだ。

サンドストランド社をクビになって数ヶ月たったころ、マリアンヌと私はへまをして捕まり、私はイリノイ州マリオンの連邦刑務所 ― 当時は「最悪中の最悪」の連中のための「退路無し」の場所とされていた ― に連れていかれた。連邦刑務所の制度では、収監者を約2年ごとに別の刑務所に移すのが決まりになっているが、私は刑期のあいだにペンシルベニア州ルイスバーグ、ジョージア州アトランタ、インディアナ州テレホート、アラバマ州タラデガ、もういちどインディアナ州テレホート、オクラホマ州エルリーノ、テキサス州バストロップ、オレゴン州シェリダン、コロラド州エングルウッドと移され、最後はコロラド州フローレンスだった。

刑務所にいるあいだに、私は哲学や物理学や形而上学を学んだ。最初のころには、神秘的なリアリティを真正面から讃えるありかたに惹かれて、カトリックに改宗したことすらあった。もっとあとの1993年には、コロラド州リトルトンの連邦刑務所 (エングルウッド) にいたころだが、ボールダーのナロパ大学から刑務所に教えに来ていた仏教徒たちと関わるようになった。私は教えをあっという間に理解し、熱心に実践もした。その仏教徒たちはとても満足し、やがてチベットのラマ僧を連れてきて、私は三宝に帰依して菩薩の誓いを立てた。刑務所に入って15年目の1994年、アメリカ人のスピリチュアル指導者のガンガジという人が刑務所にやって来た。ガンガジに会ったとき、私は自分が無条件の平安、自由、愛であることに気づいた。それからの1年間は最高の至福状態にありながら、すべての存在がひとつであるという現実をはっきりと見ていた。至福に満ちた1年が終わると、地獄の1年がやって来て、得たものすべてを私は失った。惨めな絶望状態に陥った。ついには、藁をもつかむ思いでラマナ・マハルシに頼った。ラマナは一体我々に何をせよと言っていたのか、それを解き明かすために全精力を注ぎ込んだ。自分の苦痛を終わらせてくれる行為、それが無理であれば、当時うすうす感じていた、すべては結局まったくどうにもならないのではないかという思いを証明してくれる行為を私は見つけようとしていた。

そもそもわかるべきことがあるのかどうか、それを自分で見極めたいというこうした努力は、生まれて以来ずっと続いていた生に対する恐れと嫌悪、あらゆる苦しみの原因となっていたその恐れと嫌悪に終止符を打つことになった。恐れと嫌悪がなくなったことによってもたらされた生との完璧な親密さは、平凡なひとりの人間としての生のまぎれもない不可思議さを、人間として存在するという自然なありかたの中で私に示しつづけている。

1998年に私は仮釈放され、コロラド州ボールダーにあったガンガジ財団で職を得た。それから半年たって財団はカリフォルニア州ノバートに移り、私も一緒に移った。コンピューターシステムマネージャーとして私は財団で1998年7月まで働いた。

1999年6月のある金曜日の午後、カーラと私は、何の前触れもなく、一緒になる運命にあることを知った。翌月曜日に私たちはカリフォルニア州パロアルトで最初のミーティングを開き、水曜日の午後にはサンフランシスコ湾を見下ろすサンラファエルの友人宅の芝生の庭で結婚した。

カーラと私はそれ以来ずっと一緒で、それ以来人々と会いつづけ、2001年8月からはカリフォルニア州オーハイで素敵なメインクーン猫のスウィッターズと共に暮らしている。仮釈放中の保護観察期間は2007年に完了した。

ジョン・シャーマン

== 訳は以上 ==

ジョンはメソッドを伝えることには極めて熱心だが、こうした過去のストーリーを語るときには飽き飽きした様子を隠さない。とは言え、BatGapのインタビューで脱獄の経緯を語っているときなどは、けっこう楽しそうではあった。

このあとは、メソッドの代替バージョン、あるいはLooking (見ること) についてのジョンの解説を訳してみたい。

広告

ジョン・シャーマンのストーリー」への6件のフィードバック

  1. これは、凄い!う~んと後半あたりから、思わず唸ってしまいました。

    読み始めの最初の方では、私も3、4才の頃に両親が離婚し、祖母のところなど預けられていて、またそのせいか?幼少から中高年になるくらいまでは、

    世間からズレた感性や価値観があまり気にならなかった時期がありましたので、『あー?何か分かる」見たいな不確かで月並みな感覚が湧いて来ましたが、

    途中で「こりゃレベルや次元が数桁?違う!」とわかり、少しでも共感した自分の早合点の“感性”を見直しました。

    グレッグ?、ネイサン、ジョン「これのこと」(まだ五分の一くらい、読み終わってない)と半年たたないうちに読ませていただきましたが、

    いつもは、読んでは考えたり、時間を開けたり、考え終わっては、また続きを読み、時間を開けては、読み返し、経験し終わったら、しみじみと味わうなどという読み方をするのですが、

    比べるのもおかしいかも知れませんが、この方の紹介とこの文章はとても引き込まれ、一気に読みを進めてしまいました。

    一気に目を通すだけの出来事の紹介や内容では、ないと私自身は思えるのですが、「次はどうなの?次が知りたい!」と成りました。

    こんな人生を送っているのに、今“正気”でいるのが凄いなと思います。

    ヒロさんの実際に会ったら「えっ?」とかのご自分への洞察力も、感心してしまいます。

  2. わたしも彼のような人生を・・・。
    なんて人はいないと思うくらいのぶっ飛んだ人生ですね。非常に有能な人なんでしょうね。
    いつも興味深く読んでいます。翻訳ありがとうございます。

  3. ヒロさん

    はじめまして
    といいながら、中野さんのところでお茶会をさせていただいている時はたまに話題にさせていただいています
    ジョーイ・ロットについてはこのブログの記述と、ヒロさんの本を読ませていただきました
    ブログの内容で本に書かれていないこともたくさんありますので、ぜひ第2弾の出版を期待しております
    ところで私は自身のブログで、彼のような非二元の方を、親愛の情をこめてナイナイ野郎と呼んでいます

    また、ある「メソッド」を試された後のどのように変わられたのか、納得のいく表現が見つけられるようでしたら、ブログのアップ楽しみにしています

    今日の記事ですが、悪人正機説のお手本のようなジョン・シャーマンの人生に、なぜ転機が起こったのか気になるところです

    再開していただきありがとうございました

  4. ヒロさんこんばんは。

    こんな感じでわかっちゃった人たちもいるんですねえ。…刺激的だ。

  5. I.Y.さん、コメントありがとうございます。「正気でいる」ことについてのジョンの話はけっこう面白くて、フィルターがなくなると「正気を失った」社会の中にいるのがつらいときもある、ということも言っています。

    mythdawnさん、こんにちは。とても有能なのはたしかだと僕も思います。それと、モテる。リトリートDVDを観ていると、男の僕でも彼の色気にやられそうになることがあります。

    LWさん、こんにちは。ほんとうに悪人正機説ですよね。ジョーイの翻訳書は今のところはつぎの予定はありませんが、誰かがやってくれる日を待ちましょう。

    voxさん、こんにちは。ちなみにジョンは、わかるとか、目覚めるとか、そういう悟り系の用語は一切使わない人です。ある時期にスピリチュアルな語彙から意図的に離れたということでした。すべては心理学的な問題だ、というのに近いことも言っていますが、そのあたりがいまの僕にはとても面白いです。

  6. ヒロさん

    ご返信ありがとうございます
    今日のブログで、私が一番気に入っているジョーイ・ロットの話をヒロさんのブログの中から紹介させていただきました

    ジョン・シャーマンもとても面白そうですね
    悪いことをやりつくすと、真理に向かう力も半端ないのかもしれませんね

コメントは受け付けていません。