非二元シーンの現状 ジェリー・カッツのインタビュー

 
非二元を扱うアメリカの老舗サイト「ノンデュアリティ・ドットコム (Nonduality.com) 」 を主宰するジェリー・カッツ氏のインタビュー「拡がり続ける非二元の世界について」から、部分的に抜粋して訳してみた。

このインタビューは、Non-Duality Americaというブログを運営しているマシュー・キング氏によるもので、2011年に行われた。彼からは翻訳許可をもらったが、このブログ以外への転載は不可とのこと (引用される文脈を把握しておきたいのだろうと感じた)。インタビュー全体の原文は以下。

原文: Jerry Katz: On the “ever-expanding” World of Nonduality (Non-Duality America)

== 以下、訳 ==

Q. 非二元の「ムーブメント」の状況は明らかにだいぶ変わってきていますが、何がその変化の要因だと思いますか? それから、今の状況についての考えを聞かせてください。

A. 変化の原因は技術革新でしょうね。インターネットの普及によって誰でも自由に自分を表現できるようになり、誰かと出会ったり、関係を築いたり、集まったり、(全体として) グルとしての役割を果たすようなグループを作ったりすることが簡単にできるようになりました。そうした現象、つまりグループそのものがひとつの力になって無知を蹴散らすという現象を私は「ホログル」と名づけています。ホログルを経験済みの人はかなりいるはずです。ただし、ホログルも手放しで受け入れるようなものではありません。自分の内なる権威的声もそうですが、権威的な影響力はどれも疑わなくてはいけないと思います。

インターネット時代になってからの非二元ムーブメントについては知っている人は多いですが、欧米においては、そのおおもとは1800年代後半のクリスチャン・サイエンス、東洋のもろもろの聖典、それからスワミ・ヴィヴェーカナンダによるヨガとネオ・ヴェーダーンタの紹介といったところまでたどることができます。

もちろん、聖書自体が非二元的であるのはたしかです。といっても、キリスト教やユダヤ教には、神を「外側」にいる自分とは別の何かとして見てしまう傾向もあります。非二元的なキリスト教、非二元的なユダヤ教はこれまでも実はずっと存在していて、なかった時期はありません。ただ、主流の信仰の場ではその存在があまり目立たなかっただけです。それでも、過去5年を見てみれば、そういう宗教における非二元的なメッセージの存在について語る著名な人たちが次々と出てきていて、特にリチャード・ロアやジェイ・マイケルソンの功績は大きいものがあります。

広い意味での非二元ムーブメントの歴史についてもう少し加えると、1930年代にはポール・ブラントンがいて、彼はラマナ・マハルシの存在を西洋に知らしめました。J・クリシュナムルティや、禅を欧米に紹介した鈴木大拙も、1930年代に著述や講演をはじめて、30年代の後半には相当な人気を博しました。ジャン・クラインとジョン・レヴィーは50年代と60年代に教え始めています。ビート詩人たちは50年代に独特なやりかたで非二元の教えを紹介しました。60年代の非二元シーンのほとんどを支配していたのはアラン・ワッツです。70年代にはラジニーシ (今ではOshoと呼ばれています) が独自のムーブメントを開始しました。同じく70年代にはダ・フリー・ジョン (別名アディ・ダ) も影響力を持っていました。80年代に教えていた人の中には、90年代後半のインターネット黎明期に知られるようになった人たちもいます。でもその人たちはほとんどが忘れ去られていて、再発見の必要があります。ここで名前をあげたのは、影響の大きかった本当に少数の人たちだけで、歴史全体と比べればほんの一部です。それ以外にもたくさんいます。

非二元の年表に名前が載っていてもおかしくない人たちが他にも大勢いるわけですが、それ以外にも、広く知られることにならなかった無名の人たちもたくさんいたはずです。無名で終わったのは、コミュニケーション能力が足りなかったか、伝えるための手段がなかったか、そもそも自分の認識について表現したいという気持ちがそんなになかったからです。もし1920年代、30年代、40年代にインターネットがあったとしたら、非二元の告白者や表現者はずっと多かったはずです。非二元に関してインターネット時代の私たちに何かできることがあるとしたら、その同じことは過去数百年の人たちにも当然できていたでしょうし、それはどの国についてもどの時代についても同じだろうと思いますね。

誰もが自分を表現すべきだと私は考えています。そうすることによって、これまでの時代の大半の人たちのように道に迷うことがなくなるからです。といっても、「非二元の標本」を集めたり分類したりするのは人間としての単なるひとつの趣味であって、それは切手を集めて分類するのと何も変わらない、ということを忘れるべきではないでしょう。自分にとって自然なことをただやっているだけなわけですから、何か特別なことをしているなどと考えないようにしたいものです。車を修理したり、農業をしたり、クリスピー・クリームの店員をしたりするのと変わりません。この「非二元のあれこれ」は単なるひとつの務めなんです。

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Q. 非二元的な考え方や観点について言うと、東洋と西洋ではどんな違いがあるのでしょうか。アメリカではマクドナルド的な「ファストフード版」非二元が好まれているように見えますが。

A. ファストフード版の非二元では、自分はいない、できることは何もない、あなたはすでに「それ」だ、という認識がさかんに語られます。そのこと自体は誰でも数秒あれば理解できますから、ファストフード版の非二元と呼ばれるわけです。

東洋の伝統的な教えは、特にアドヴァイタ・ヴェーダーンタはそうですが、「スローフード」です。教師やサットグルのもので所定の形式に従って秩序だったやりかたで学び、知的な理解を経験的なものに落としこむまで続けなければならないと教えられます。そこまで至るためには真剣な努力と学習と調査が必要で、時間もかなりかかります。伝統的なアドヴァイタにおいても、あるところまで至った段階で、「自分はいないし、できることは何もない」というファストフード版の人たちが唱えるキャッチフレーズが事実であることを認めます。でも、最初の段階からそれが示されたりすることはありません。

つまり、西洋のファストフード版では非二元をちょっとの間だけ経験できます。でもそれを維持することはできるでしょうか。そしてその価値がきちんと理解できるでしょうか? 西洋型の方法は行き当たりばったりで、言ってみれば西部劇です。いろいろな教師、グループ、団体でごちゃまぜになった、まとまりのない非二元ディズニーランドなんです。

東洋の伝統的なやりかたは、古くから続けられてきた実績のある秩序立った教えに専念するために、ひとりの決まった先生に長期間 (一生続く可能性もあります) ついて学ぶ覚悟ができている人たちのためのものです。

はっきりとした証拠があるわけではないので、印象で言っていることですが、西洋のスタイルと東洋のスタイルのあいだのこうした境界線は消えつつあるんじゃないかという気がしています。東洋の伝統的な教えで得られるのと同じものを、ファストフード的な雰囲気や、その斬新かつ妥協のないいろいろな形態に浸ってみたりすることでも経験できるのではないかと思っているんです。自己をすでに認識している人たちと一緒に時間を過ごして議論にじっくりと耳を傾けたり、自由に質問をしたり、あるいは探求者や探求者じゃない人たちとつきあったりしていると、そのうち非二元的なシフトが背景から前面に移ってきて瞬間瞬間のものの見方になって定着します。

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Q. 非二元のメッセージを責任あるやり方で伝えるにはどうしたらいいと思いますか? 「すべきことはたくさんある」と言う人もいれば、「すべきことは何もない」という人たちも当然います。

A. 非二元の世界について言えば、非二元を伝えて教えるための責任ある方法とは、聞く側がしがみつけるような何かを与えてしまっていないかどうかを絶えずチェックするということだと思います。人格にしても教えにしても、執着の対象になりかねないものを提供してしまっていないかどうかを確認するんです。

非二元の教えが信頼できるかどうかを保証するもの。それは率直さの上にも率直さです。つまり何でもオープンにして、自分がどれだけ率直かを確認し続けるしかありません。教師はつねになんらかの線を引くことで二元性を生み出しています。ですからそこでは、引くと同時にその線を消すというのが責任のある教え方だということになります。

すべきことはいろいろあると教えられた次の瞬間に、すべきことは何もないと言われたりするかもしれませんが、そういう言葉がどんな文脈で発せられたのかがはっきりするような伝えかたをする必要もあります。その文脈というのは、気づきあるいは意識です。

気づきという文脈を示すことなく教えるというのは、塩を手渡してからその味を言い表すようなものです。塩を味わってその味を知るためには、まず水分で溶かす必要があります。それと同じで、非二元の教えを味わい、非二元を知るためには、気づきという文脈でまず溶かさなければなりません。単に教えをしゃべっているだけの先生は誰なのか、溶解が起こるようなやり方をすることで、学ぶ人が自分で味わって知ることができるようにしている先生は誰なのか、それは区別できます。

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Q. 伝統的なサットサンのやりかたは役に立っているのでしょうか。それともサットサンでは、その世界につきものの表面的な決まり文句が繰り返されているだけなのでしょうか。サットサンの伝統には私は敬意を払ってはいますが、それでも大勢の聴衆のいる部屋で壇上にいる誰かが花に囲まれながら話すのを聞くという形態はあまり好きではありません。

A. そういうやりかた自体は別に悪いものではありませんが、非二元の交流について言えば、それは現在の主流の形式ではなくなっていると思います。非二元との出会いは、花瓶のかわりにグルーポンの広告が脇を飾り、パパジの肖像写真のかわりに自分に対する誰かのひとことが表示されているフェイスブックで起こっています。それは、電話やスカイプビデオや電話会議など、いろいろな技術を通して起こっています。スターバックスでも。

とはいえ、西洋で従来おこなわれてきたサットサン形式にも役に立つ点はあります。そういうものが適した時、地域もまだあるはずです。肖像写真や花瓶は敬意のひとつのあらわれです。そういう場では、教える側は悟っていて聞く側は悟っていないということが前提になっていて、そういう了解があります。その力関係が助けになる人たちもいるんじゃないかと思います。

と言っても、対話の場では、最近では部屋の前方にただ座って話をして、話し合いを促して、質問を受け付けるという人がほとんどです。花や写真は使われていません。

私が好きなのは、「部屋の前方」がないような小さな場、10人かそこらの人たちが集まる場で起こることです。参加者は円形に並んで座ったり、テーブルを囲んだり、レストランに集まったりします。対話をリードする役割の人がひとりかふたりいてもいいですが、絶対の権威的存在になるような先生はいません。ノヴァスコティアのハリファックスで開いている非二元サットサン・ミートアップではそういうやり方をしていて、私自身はそれが気に入っています。やって来る人たちは非二元とは何なのかをすぐに理解して、一緒に過ごす時間、教え、会話 (それと食べ物) を楽しみます。食べ物を持ち寄ったりもします。スペースを借りて夕方に集まることもあって、そういうときは部屋のレンタル料は割り勘にします。

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Q. 世の中の「探求者」の中には、このこと (ミーティング、リトリート、インテンシブに繰り返し参加したり、本を大量に購入したりすること) をフルタイムの職業にするという誤りをおかしている人たちがいるように思いますが、それについてはどうでしょう?

A. 家族や健康維持や家計や仕事といった当たり前の義務の邪魔にならないのであれば、思考や条件づけの源泉を調べるのに自分の時間と労力を捧げること自体は誤りだとは思いません。働く必要がなくて、家族にも縛られていなくて、お金もほとんど使わず、健康のこともそれほど気にしていないのなら、非二元の本を読んだり、リトリートやサットサンに行ったり、修練に没頭したりするのに好きなだけ時間を使ってもかまわないはずです。人生ではどうせ何かをするわけですから、そういったことに一番興味を惹かれているのであれば、やればいいんです。

それと、純粋な楽しみと好奇心のためにすべての時間を非二元に取り組むのに使っている非探求者と、何かになるため、何かを手にするため、実存に関わる重大な問題を解決するために必死に非二元を追いかけている探求者がいます。

どちらの場合でも、日常生活における当たり前の責任に影響がないかぎりは、どんな誤りもおかしてはいないと思いますよ。

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Q. 私たちが驚くべき (それでいて奇妙な) 時代に生きているのは間違いありませんが、非二元のメッセージは多くの人たちにとってどう役立つのでしょうか。このメッセージには、世界的な規模で広がっていく力があるのでしょうか。もしそうなら、そのためには何が必要でしょうか。ほとんどの教師や著者が、たいていは個人レベル、もしくは小さな集団レベルでメッセージを伝えることに専念しているように見えますが。

A. 非二元の教えには、科学技術と同じように世界に広がっていく可能性、現在こうした教えを聞いて理解している層よりもはるかに多くの人たちの耳に届いて理解される可能性があります。

非二元が人の役に立つとしたら、それは生きていく上でもっと楽になり、余裕ができ、率直になり、自然な感じになるところだと思います。

でも、非二元にはふたつの側面があります。ひとつは、行き過ぎた行動 ― 飲酒、ドラッグ、パーティーのしすぎ、あらゆる中毒やだらしない習慣 ― が減り、外の世界で憂さ晴らしをすることから、I Am (今いる私) としての自分の本質の認識へ意識がシフトするという側面です。非二元のこの側面は、多くの人にとって非常に役に立ちます。

もうひとつは過激なもので、それはI Am (今いる私) でさえも落ちてしまうという側面です。これがひとりでに起こると、人はものすごい自由を得ると同時に、ひどい混乱状態にしばらく取り残されることになります。

どこかの研究によって統計的に確認されているわけではありませんが、いろいろな事例を聞くかぎりでは、世界中で非二元について知る人たちがどんどん増えています。そして技術の発展によってこの教えにアクセスすることがさらに簡単になっているので、その勢いはますます増していくんだろうと思います。

== 訳は以上 ==

4年近く前のインタビューだから、なんとなく現状に追い越されてしまっている印象もある。でも、責任のある伝え方の部分で語られていることなどは、時代に関係なく有効な警告だと思う。

ジェリーは、Nonduality.comやインタビューサイトのNonduality Talk以外にも、SANDカンファレンスの立ち上げにグレッグ・グッドと共に関わったり、東洋と西洋の非二元のメッセージをまとめた著作を出したり、いわゆる「先生」ではないユニークな存在として非二元の世界で活発に活動している。面白くないジョークで広い会場をシーンとさせたりする場に何度か居合わせた経験から言うと、面白い人だと思う。

ところで、ジェリーがやっているようなミートアップ (特定の教え手のもとに生徒が集うのではなく、固定した関係なしで集まる) を東京で計画している人がいる。僕の知るかぎりではそういう集まりは珍しい。実現したら参加してみたい。ちなみに、非二元の本を翻訳している人間同士ということもあって、その人 (かおりさん) とは一度直接会って情報交換をさせてもらったけれど、すごくオープンで、豊かな経験を持っている女性。具体的な場所と日程は未定で、まだ準備段階のようだけど、情報はこちら(ノン・デュアリティ(非二元)カフェの部分)

いわゆるサットサン型にも当然それなりの良さはある。だから否定する気は全然ない。でもサットサン型、講演型には、安住してしまいたくなるような心地よい枠組みがあって、それがある種の不自然さを生んでいるという面もあるように思う。さらには、未来に何かが起こるという期待を永続化させる仕組みにもなりやすい気がする。

そういう「持てる者」の外部化、固定化、未来化は些細な問題だと思ってきたけれど、じつは最大の障害なんじゃないかという気がすることも最近はある。とはいえ、バクティ的な明け渡しが個という幻想を相対化させることもたしかにあるから、こういうことについてはやはり一定の公式はありえないのかもしれない。

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