講義モデルに飽きた

 
ちょっと前にも書いた気がするけれど、非二元の典型的な伝え方のスタイルにかなり飽きてしまった。

「典型的」というのは、目覚めたと言われる人がミーティング、リトリート、本、ウェブサイトなどで目覚めた視点からのメッセージを目覚めていない視点に対して伝えるというかたち。大勢の聴衆の前に向かい合って座っている先生がしゃべるという形式に象徴される。

言ってみればこれは講義モデルで、「教えることなど何もない」「教わることのできる人などいない」と言いながら、しっかりと個人対個人、持てる者対持たざる者の講義という図式を固定化させている。教える人の名前を中心にものごとが回っているとも言える。

それに対して、ワークショップモデルというものがあって、それはこの分野で言えばダグラス・ハーディングの実験の集まりに象徴される。3年ほど前に参加したオランダでのSANDカンファレンスでは、ワールドカフェ形式で参加者同士が話し合う機会があって、それも面白かった。そこに明らかな権威がいないという事実から生まれる流動性やあからさまな疑念が新鮮だった。

ジェリー・カッツが提唱しているグループ形式もそれに近い (この記事) 。

「答えはありません」という話をしているのに「あの人は答えを持っているに違いない」と投影してしまうのは、聞く側の問題なのかもしれない。でも、時代の流れなのかなんなのか、そういう投影の嘘くささが気になる感じになりはじめているような気もする。

そんなことを考えていたら (考えていなかったかもしれない)、面白そうなおじさんのことを知った。Kriben Pillay (クリベン・ピレイ) という人で、南アフリカの大学で教授をしている。95年から2005年にかけてNoumenon Journalという非二元をテーマにした雑誌を出していて、そこに掲載されたダグラス・ハーディングのインタビュー (これ) をきっかけにその存在に気がついた。

サイトを読んでいると、教育や仕事に非二元を生かすという活動をしている人のようで、バイロン・ケイティのワークやU理論も活用しているそうだ。最近の論文やエッセイを送ってもらったから、もしかしたら紹介するかもしれない。

思い出すのは、非二元セラピーのことだ。トニー・パーソンズに夢中になったころにそういう概念を知った (そのテーマについてはSacred Mirror: Nondual Wisdom and Psychotherapyという本も出ている)。でもトニーが「誰が誰を治療するっていうんだ。誰もいないのに。まあ、アメリカは非二元バーガーだってある国だから何でもありだね」とコケにしているのを聞いて、そのまま信じていた。

けれども今考えてみれば、別にそんな制限はいらない。トニーが言ってるように誰もいないというのは事実かもしれないけれど、でもセラピーが起こるのならそれを止めなきゃいけない理屈はないし、そういうのはすごく不自由だ。(その不自由さが講義モデルの硬直性をさらに固定化している)

それから、Capacitie というサイトを運営しているAlan Mann (アラン・マン) という人がいる。ダグラス・ハーディングのメッセージを伝えている人という印象だったけれど (実際、リチャード・ラングを招聘してワークショップをしたりもしている)、それだけじゃなく、シドニーで定期的なグループ活動を長年している。

アランの場合もクリベンと同じで先生という立ち位置はとっていなくて、どちらかと言えばファシリテーター、エディター的な感じ。世界がどう変わるかというところにも重点を置いている印象があって、興味を持った。

ということで、答え (THE Answer) を知っていそうな人はどっちにいるだろう、という話ではまったくなく、単に風通しの良さそうな方向にちょっと顔が向いたという程度のこと。

講義モデルは時代遅れだと言うつもりもないけれど (時代なんて存在しないと言う気もない)、「こっちに答えがあります感」を醸し出しているところにはあまり近づきたくない感じだ。

それから、こうなってくると、非二元とか何々といったラベルは邪魔にしかならない気がする。実際クリベンは、ノンデュアリティとか言い出すとニューエイジとか似非科学だと思われて敬遠されることが多いから、それを言わずにどう進めるかというのが現場でのひとつの課題だと言っていた。

非二元と言いながらも、たいていの場合は探求は極めて個人的なものになりがちだ。でもそういう動きもあることを知ったのは面白かった。

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講義モデルに飽きた」への7件のフィードバック

  1. こんにちは。ネイサン・ギルさんの本を読み終えて、ひと段落しました。さっぱりした、穏やかな気持ちになりました。でも何も探求する必要はなかった、誰も居なかった、と思うと、何か空虚な気持ちになることもありますね。単なるストーリーにまきこまれてるのでしょうけれど。
    方向をかえて、量子力学の本を読んでいます。いろいろなことが、非二元とダブってすごく面白いです。

  2. 結局は、同じ(非二元という)趣味趣向を持つ者による風通しの良い茶話会という感じが気楽でいいですよね。
    ネイサン・ギルの本読了後である今、先生方への尊敬心を良い意味で失ったので特にそう思いますね(笑)

  3. 日佳さん、こんにちは。コメントありがとうございます。

    すっきりした感じが伝わってきました。空虚さについては、ジョーイ・ロットが本で触れていました。僕にはすごく響いたので、今度出す予定の翻訳本からちょっと長くなりますが引用してみます。

    ***
    自分が存在していないという可能性に悲しみを感じるという人がいた。
    それは理解できる。自分がいないってことを一瞥した(と思った)とき、僕も悲しみを感じていた。
    空っぽさを感じた。嫌な感覚じゃない。喪失感でもない。ただ空っぽ。 でも悲しく感じた。孤独な感覚。
    問題は、僕が空っぽさを自分とは別のなにかとして見ていたってことだ。自分が空っぽさを見ているんだとまだ思い込んでいた。空っぽさというのはなにかなんだとまだ考えていた。
    空っぽさはものじゃない。
    見ている人はいない。
    分離はない。
    あるのはこれだけだ。これはひとつでもないし、ふたつでもない。 空っぽさが空っぽに見えるのは、それをものとして見ているときだ。分離したなにかとして見ているとき。(架空の)見る人が見ているとき。
    でも空っぽさはものじゃない。空っぽさは別のものじゃない。見ている人はいない。 あるのはこれだけだ。
    そして、今あるとおりのこれが本当に見えたとき、空っぽさのように見えていたものが全体性だったことに気づく。

    ***

  4. ぞんさん、こんにちは。ありがとうございます。

    コメントを読ませていただいて、気がつきました。僕は「講義モデル」に飽きたと同時に、それを埋めるなにかを探していたんだなということにです。

    茶話会とか集いとかグループとか、そういうことにはあまり興味がないのに、どうしてジェリーのグループのことを書いたんだろう? とふと思って、気づきました。とりあえず埋めようとせずにいようと思いました (埋めるとき以外は (c)シンスケサン33)。

  5. ヒロさん

    >コメントを読ませていただいて、気がつきました。僕は「講義モデル」に飽きたと同時に、それを埋めるなにかを探していたんだなということにです。

    私も同じだということに気づきました 。
    首をすげ替えるものを求めてるだけだったことに(笑)

  6. 『空虚さ(空っぽ)』、仏教用語の『空』、『空(そら)』。
    全部同じ漢字なのは偶然なのか、それとも何か理由があるのか。
    引用して下さったジョーイの文を読んで、ふとそんなことを思いました。

    自分の中に生まれた空っぽさを空(そら)いっぱいに拡げて満たしてみたら、気持ち良さそうですね。

  7. ヒロさんこんにちは。

    講義モデルよりも、非二元の純粋な分かち合いのほうが、魅力的だなと私も思います。
    自然なものに、権威は必要ないし…
    本来自由なものは、自由な表現がきっと似合うと。
    教師と生徒なんかじゃなくて、そこに一体性を感じれるかが大切かもしれないですね。

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