半分だけしか目覚めてない?

 
トニー・パーソンズもネイサン・ギルも、伝統的なアドヴァイタ・ヴェーダーンタを学ぶ人たちからは「ネオ・アドヴァイタ」とか「似非アドヴァイタ」として非難されることが多い。でも、そういう批判的な人たちが「ネオ攻撃」をするとき、なぜか彼らはしかめっつらしい雰囲気で無意味に難解なサンスクリット語を駆使していたりする。要するに感じが良くない。

だから僕は、伝統にこだわる連中は頭の固い化石だと思ってあまり気にしなくていいやと思っていた。聖典を引用しだした時点、「ラマナ曰く」と言いだした時点で、「あ、これは読まなくていい」と。

「ネオ攻撃」とは言えないけど、フランシス・ベネットという非二元についての本も出している元修道士が最近こんな感じのことを書いていた。それは真剣に読めた。

・現代の西洋でのアドヴァイタ・ヴェーダーンタに対するアプローチは抽象的で虚無主義的で粗暴で現実離れしている。個人、身体と心、現象世界、貧困や飢えや戦争や環境等の社会問題といった現実を否定することが多い。そうしたアプローチは無意味さや無気力の感覚につながることが多い。リトリートや個人セッションを繰り返してきたなかで、そういう教えによって落ち込んだり、人生に意味を見いだせなくなった人たちにたくさん出会った。

・私が感じるのは、西洋の非二元ムーブメントには「セカンドウェーブ」が到来しつつあるということだ。もっと統合的で人間的で、現象世界や文化的な豊かさを正当に評価し、人間の疎外の問題、統合やシャドウ・ワークや社会的正義の必要を認めるような動き。

・西洋の一神教的神秘主義 (キリスト教、スーフィー、ユダヤ教などの) は、より生に肯定的な立場を非二元の世界に持ち込めると思う。そうしたもっと統合的で人間を全体的にとらえるアプローチは、現代の西洋でこれまで主流だった非二元のメッセージに幻滅した人たちに役に立つものになるのではないだろうか。

セカンドウェーブ云々は微妙な気もするけど、最近の非二元のメッセージに出会ったことでフラットな状態に落ち込んだという体験は実際に僕自身がしてきたから、そういう視点はたしかに役立つだろうなと思った。

このフランシス・ベネットの意見に対して、ノンデュアリティプレスのジュリアン・ノイス氏がこんなコメントをしていた。

・賛成。これまでよりも包括的な世界観をもったセカンドウェーブがやってきつつある。でも「ファーストウェーブ」も必要だったとは思う。非二元を東洋の迷宮のような教えからも西洋のニューエイジからも区別するという意味で。

・だからファーストウェーブは、より完全なアプローチのための土台を準備するという目的を果たしたと言える。といっても最初の波を捨て去る必要はないけれど。

全体としてどういう動きがあるのかという点には最近はあまり関心がない。でも、リサ・ケアンズに代表されるような「ネオ・ネオ」的メッセージはこれからは主流にはならないだろうなという雰囲気は感じる。(実際その系統の表現は英米というよりも、東欧や中欧等の周縁国で最近は人気があるようだ)

といっても、それは「ウェーブ」という名のとおり寄せては返す性質のもので、何が正しいのかという話にはなりえないとも思う。結局はアジャシャンティの『あなたの世界のおわり』について最近書かれたこのレビューにあるように、「自分に真実であること」以外には何もないという気はする。で、それはまったく当たり前なことのようだけど、そこがいちばん難しい。

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半分だけしか目覚めてない?」への9件のフィードバック

  1. あなたが一番頭が固いように見えます。伝統的だろうと革新的だろうと仏教だろうと瞑想だろうと非二元であろうと区別する必要あるんですかね?その差別的な感情がひしひしと伝わってきてしまうんですよ。

  2. はじめまして。以前から時々拝見させていただいております。

    唐突にこんなことお尋ねして申し訳ないのですが、ヒロさんみたいに非二元に造詣が深い方は自分や近親者の肉体の消滅に恐怖は感じないのでしょうか?

    自分はといえば、ラマナとかニサルガダッタとかラメッシ、セイラー・ボブ、ルバート・スパイラ、グレッグ・グッド、ダグラス・ハーディーングなんかの本も一応読んだことはありますが、「ただ読んだだけ」レベルなので依然として自身や近親者の肉体の消滅を想像すると多大な恐怖を感じます。

    霊魂の存在とか輪廻転生とかも、このブログの読者の大多数の方々から見れば、笑止千万、あるいは「すでに卒業した思想」だとは思うのですが、自分の場合は100%の自信を持ってそれらを否定しきれません。非二元の立場からすれば「死者の供養」なんてのは無用なんでしょうが、「自分が死んでも供養は一切無用!」って言い切るだけの自信もないのです

  3. ろくでなしおさん、はじめまして、こんにちは。

    僕が非二元の「思想」にかぶれだしたころ、ニサルガダッタが自宅でのサットサンのときに参加者と一緒に神を讃えるバジャンを歌っていた、しかも神像を飾り付けたりする宗教儀式まで行っていたというのをどこかで読んで (DVDだったかもしれません)、びっくりしたことがあります。”You are That!”と明快に言い切っている人が、二元性の極みである神像をそういうかたちで扱うというのは一体どういうことなんだ、と。

    でも、最近はそうは感じません。すべての実在性を否定するというのは、すべてを肯定しているのと同じだという気がします。間違ったこと、正しいことは何もない (二元的な特定の視点からしか正誤の判断はありえない) というのは、逆にすべてが正しい (あるべきありがたをしている) ということなのかなとも思います。

    なので、先祖供養や輪廻転生は二元的なストーリーだと言うのであれば、現実の非二元的な本質をついに認識したというような話も単なるストーリーで、どちらかだけを否定するというのは無理があるなという感じがします。と言っても、そういう観念も今出てきているストーリーのひとつで、「大掃除しなきゃな」とか5秒後には考えているのでまったくいい加減です。

    僕自身は肉体の消滅に恐怖は感じませんが、それは単に病気や事故で死と隣合わせになった経験がないからだろうと思っています。もしくは、お寺で聞いている浄土の話をすっかり信じているのかもしれません (笑)

  4. crazydoctor (@yumefantasy)さん、この偏見に満ちた差別的なブログをまだ見ていらっしゃったんですね。驚きました。

    伝統的だから区別しているというよりも、「伝統に基づいていないから間違っている」「聖典の表現から外れているからおかしい」というような態度、そこに現れているしかめっつらしい雰囲気に違和感を感じて、それを表現しているつもりです。残念ながら伝わっていないようですが。

    なお、コメント書き込み時ですが、存在していないメールアドレスを記入した場合は今後はコメント承認することはありませんので、ご注意ください。

  5. ヒロさん、御返事ありがとうございました。フランシス・ベネットという方のおっしゃってることは興味深いですね。これを読んで、長澤靖浩という方の「魂の螺旋ダンス」という本に書いてあることを思い出しました。長くなりますが引用します。

    【だが、次の問いは、さらに比較にならぬほど深刻である。その問いとは、「本当にインド思想は、西欧のグノーシス主義との出会いによって始めてニヒリスティックなものに変質してしまったのだろうか」というものである。言い換えるならば、「インド思想はそもそも数千年のその始まりの時から既にこの世的なもの(現象世界)を忌み嫌う性質を持っていたのでないか」という問いである。・・・(中略)・・・星川淳は『環太平洋インナーネット紀行』のあとがきの中で、「解脱パラダイム批判」という画期的な思想的営みに向かって、小さな一歩を踏み出している。彼によれば、仏教を含むインド起源の宗教は、「生と死の果てしない連鎖を究極の苦しみととらえ、そこから脱出すことに至上価値を置く」という「解脱パラダイム」に基礎を置くという点で共通している・・・(中略)・・・星川はこの数千年にわたる「解脱パラダイム」の呪縛を超えるときが、今こそ来ているというのである。星川が「解脱パラダイム」に対置するのは、先住民文化の持つ世界観である。「私がこれまでふれたネイティブな世界観では、生をこの上ない恵みと受け止め、死はその鏡像で、季節や水がめぐるように人間の魂も(あらゆる生き物の魂も)生と死を循環すると考えるのが普通だ。そして人々は、そこからの脱出を求めるどころか生死の循環をありったけの愛で抱きしめる】P199~200

    【なるほど東洋の宗教にはキリスト教ほどの侵略性はなかったかもしれないが、その代わりに隠遁的傾向があり、水平次元の地上的事柄に関しておざなりにしていたことは、やはり否めないのである・・・(中略)・・・しかし、繰り返そう。単純な部族シャーマニズム回帰は、真の解決にはならない。超越でもなく、回帰でもなく・・・螺旋・・・。】P218

    <引用ここまで>

    フランシスさんの発言の中でも「西洋の一神教的神秘主義 (キリスト教、スーフィー、ユダヤ教などの) は、より生に肯定的な立場を非二元の世界に持ち込めると思う」という部分は特に興味深いですね。

    私は、ヨハネによる福音書の 「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」という部分に強い抵抗を感じてキリスト教を毛嫌いしておりましたが、上村静さんの「キリスト教の自己批判」を読んで、キリスト教との「和解」のきっかけが少しばかりつかめました。

  6. ろくでなしおさん、『魂の螺旋ダンス』は知りませんでした。読んでみたくなりました。

    星川淳さんの『環太平洋インナーネット紀行』はいいですね。そのあとがきを読んだ記憶がよみがえりました。彼の『地球感覚、』はもう20年以上何度も読み返している愛読書なのですが、考えてみれば「解脱パラダイム」にはまってしまって以来、ほとんど手をつけていません。そんなことに気づきました。

    どうもありがとうございます。

  7. いつも貴重なお話ありがとうございます。
    欧米のアドヴァイダシーン?でもそういう話が出てるんですね。

    ただ、僕は、ネオアドヴァイダは包括的じゃないからダメというより、根本教義の部分で無気力発生装置になってるんじゃないかな~って感じるんです。

    ネオアドヴァイダの根本教義は「主体の否定」ですが、主体を否定すると、当然意図という物も否定する羽目になります。
    だって意図する主体がないわけですから。

    そこから「できることは何もない」とか「生がただあるだけ」とか、お決まりの派生教義が生まれますよね。

    これが運命論と、19世紀物理学的な機械的決定論につながってくるわけです。
    しかしこれは量子論で明確に否定された世界観です。

    そして何かを『経験』すると、「これは個人に起こる体験ではない」としてしまいます。
    これは言い換えれば「この体験は絶対である」ってことですが、個人的でない体験なんてありえないんですよね。
    個人に起こった体験を、個人的な言葉で語ってるだけです。
    どんな体験であり、どんな言葉であれ、必ずその人の信念というものがベースにあります。
    僕は僕の狭い経験からしか言えないんですが、「自分がなくなる」っていうのは、別に主体が消えるわけではなくて、いつも無意識的に働いてるたくさんのエネルギーのパターンの一つが消えるか弱くなるだけです。

    僕は正直ラマナマハルシとかクリシュナムルティも探求は終わってなかったんじゃないかなと感じます。

    どんな人の話も、あるいはどんな伝統的な教えも、あくまでも個人的な考えとして受け取ったほうがいいなあと今は思ってます。

  8. 星の旅人さん、こんにちは。いつもユニークな視点を提供していただいて、ありがとうございます。

    ネオ・アドヴァイタとは何か、その教義は内か、という点には僕はそれほど関心はなかったりしますが、無気力発生装置になっているという側面はたしかにあると思います。

    実際、ゾンビのような待ち状態に陥っている人が多い印象もあります。その逆として、星の旅人さんが指摘されているような「到達済症候群」も生んでいる気がします。

    先日参加したダグラス・ハーディングの実験の集まりのあとで僕が感じたのは、ネオ・アドヴァイタと呼ばれる人たちが言っていることはたしかにある側面を言い表してはいるものの、「自分はいない」「自分はすべて」のうち前者だけに偏っているんじゃないかということでした。

    それと、言葉を使いすぎじゃないかなとも感じました (これはネオだけじゃなく、クリシュナムルティやOSHOにも該当するのかもしれません)。

    「個人的な考えとして受け取ったほうがいい」というのは、本当にそうですね。僕などは「これが正解だ」とすぐに飛びつきがちなので (その盲目感が快感だったりするので、またやっかいですが)、そこは耳が痛いです。

  9. ご返信有難うございます。
    誰かに「これが答えだ!」って与えてもらってそれで終わりにしたい欲求というのは割とみんな持ってると思います(僕にも有ります)。
    でも、「私は答えを持ってる」と演じてる人の苦悩はかなり深いんじゃないかなと推測してます。答えを持ってるってことは変われないってことですから。

    自分や自己についてですが、僕の現段階の理解だと

    ・「自分がいない」というのはそれまでの「自分」という概念を生み出していた感覚・思考が自己から見て消えること。

    ・「自分がすべて」というのは、どんなリアリティ(感覚・思考)も、自己の投影、自己の光で照らされたホログラフィであるということ。そしてリアリティの質は自己の意図(光)が決めてるんだということ。逆に言うと、リアリティの質で今何を意図してるのかを知ることができる。

    だからそれぞれ「自分」という言葉が示してるものが違うんじゃないかなあという感じです。
    後者の自分(自己)は消えようが無いというのは小さいころ死んだらどうなるんだろう?と悩んだ時に見つけた結論です。
    自己が消えるというのは絶対にイメージできない、つまり経験できない、起こりようがないことなんだなと。

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