悟りへのシフト ヨーラン・バックルンド

 
前に少し紹介したヨーラン・バックルンド (Göran Backlund) の新しいブログ記事を訳してみた。(前の記事)

原文: A Shift Into Enlightenment

==以下、訳 ==

悟りへのシフト

僕の目覚めについて言うと、ふたつの要素が大きな役割を果たしたと思う。ひとつめは、色とは見ることであり、音とは聴くことであり、思考とは考えることであり、匂いとは嗅ぐことだというのをじっくりと長い時間をかけて考えたこと。暇さえあればいつもそうしていた。自分の経験を調べながら、色のように見える見かけは実際には見ることにほかならず、身体の感覚は感じることにほかならないという考えを固めていった。

僕が何度も何度も自分でたしかめたのは、知ることと知られるものを分けることはできないということではなかった。「知られるもの」がそもそもまったく存在していないということだった。

そのことにはもう一回言うだけの価値がある。「『知られるもの』がそもそもまったく存在していないことを、僕は何度も何度も自分でたしかめた」

犬を見ているわけではない。見ているのは犬らしさだ。知られるものは存在しない。あるのは知るということだけ。

僕はそういうことを何か月も続けた。

僕のしたことのふたつめは、概念の覆いに穴をあけるということ。僕はともかくそういうふうにとらえている。

目覚めを引き起こそうとするときに役に立つんじゃないかと僕が考えているのは、普通の経験をふたつの層でとらえてみるということだ。まず生(なま)の感覚データがあって、その上に概念の層がのっている。とは言っても、当然ながらそういう区別は直接の経験の中にはもちろん実際には存在していない。でも、こういう種類の試みにおいては、そういうかたちで経験をわざと分割するのが役立つこともある。

鍵になるのは、ほとんどいつも経験の概念的な側面だけにしか注意を向けていないということに気づくことだ。つまり、何かを見ているとき、注意はいつでもそれは何かという点に ― 概念的に ― 向けられていて、その概念の土台にある生の感覚データという基層には向けられない。言いかえると、コーヒーカップを見ているときは、注意はそのコーヒーカップ性 (つまりその対象としての性質) にほとんど向けられていて、その経験をかたちづくっている実際の色 (繰り返しになるが、それは見ることにほかならない) には向けられない。こういう概念の覆いに穴があいたとき、目覚めが起こる。シフトが起こるのはそのときだ。

繰り返しになるが、経験を覆っているような何かが実際に存在していると言っているわけではないということは強調しておきたい。経験の生(なま)の側面に注意を向けることを促すために、経験をそういうやりかたで見るのが役に立つと僕は考えているという、ただそういう意味だ。生の側面に注意を向けることでシフトが起こる余地ができると僕は思っている。

そういう見方を自分で試しはじめたときのことを覚えている。コーヒーカップのような普通のものを選んで、それをすごく熱心にただ見た。自分の視界の中でその存在をかたちづくっている色を本当に見ようとして。そうしていると、注意がきわめて集中したような状態にときどき入って、色が突然ものすごくはっきりと見えるようになった。そういう集中状態を何秒か続けていると、対象を観察している主体だという感覚が崩れて、純粋にただ見ているだけという感覚に突然変わるというシフトを何度か経験した。

それが初めて起こったとき、ずっと言われてきたことがついにわかった。非二元的意識、悟り、サッチダーナンダというような表現の実際の意味を。けれども、数分ほどたつと普通の知覚に戻った。それでも、その超集中状態に僕は自由にほぼいつでも入ることができて、そんなときはだいたいもうひとつのシフトも起こった。最後には、非二元的意識に入ったり出たりするシフトが日中ひとりでに起こるようになって、出たり入ったりが半年ほど続いたあとで、非二元的意識についに定着し、それは今でもそのままだ。

ということで、僕がすすめるのはそういうことだ。そこらへんにある普通の物体を一心に見る。遠くから車のナンバープレートを読もうとするときのように。プレートの文字を読もうとするときは集中して本当に見ようとすることが必要だが、それはこのエクササイズで必要になるのとかなり似た種類の努力だ。色が突然「はっきり」見えだしたとき、ちゃんとできていることがわかる。そうなったときは、そこに注意をただとどめて、シフトが起こるのを祈ろう。

== 訳は以上 ==

どこかの状態に定着するというような表現には、ちょっと抵抗がある。その状態がほかの状態よりも好ましいというニュアンスがあるという点、定着したら逆もどりしないという含意がある点、定着できるような個人がそもそも存在していると結局言ってしまっている点など。(またまた非二元警察出動中)

でも、観照が崩壊した状態にどこかの時点で到達したと言っているグレッグ・グッドは、それと同時に、個人という中心など絶対に存在しえないと『気づきの視点に〜』で明確に言っている。そこに矛盾がないという点が面白いところなのかなという気もする。

ともかく、シフト系のニュアンスがあるメッセージ (そうは言っていないんだろうけども、そう聞こえるメッセージ) に対する興味がかなり減退しているのはたしか。

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悟りへのシフト ヨーラン・バックルンド」への5件のフィードバック

  1. コメントははじめてです。どうぞよろしく。
    「わかっちゃった人たち」読みました。
    いろいろな体験を読んでもあまりピンときませんでしたが、
    この人の話とても興味深いです。
    一つお尋ねしますが、Wui Wu Wuiって人の翻訳本はあるのでしょうか?

  2. 立石さん、こんにちは。

    Wei Wu Wei (テレンス・グレイ) の著作はけっこう昔のものなので、もしかしたらだいぶ前に翻訳されて既に絶版になっているという可能性もありますが、僕の知るかぎりでは日本語の本はありません。原書を一冊だけ読もうとしたことがありますが、難解ですぐに放り投げてしまいました。

  3. どうもありがとうございます。

    これ面白いですね、実際の色ではなく「あれはカメラ」「これはジュース」という認識プログラムが生み出したイメージを、普段見ていることに気づく感じでしょうか。
    思考というと頭のなかのおしゃべりという感じがしますが、そうじゃなくてもっと微細なエネルギーという感じがします。

    そして、これは僕もよく感じることなんですが、ある状態に入る、ある状態にいるということをかなりはじめは意識的にやる必要があるんですね。無意識だとどうしてもプログラムに飲み込まれてしまう。
    僕は最近はよく耳に音を澄ますということをやります。
    「飲み込まれてしまっているな」と感じたら、そこから意識的に出ることを決断する。
    まあ言うは易し行うは、、、って感じでかなり波がありますが。

    つまり、結局こういうのはある種の技術なんじゃないかなあと思います。
    無意識のプログラムから抜けだしてアンインストールしていく感じです。

    すると「あ、懐かしいな」と感じることがあります。「ここにはいつか来たなあ」みたいな。

    で、「シフト」というのは、いままで自分だと考えられていたプログラムが消えていくと、自動的にアイデンティティ(自己同一性)のシフトが起こる、自己というものはあらゆる物になることができる空だと気づく、まあつまりそのことを言ってるんじゃないかなあと。

    僕が自己を見た時は空っぽな感じでした。で、そこを覗くとそこから世界が広がってる、みたいな。
    自動的と書きましたが、それが起こった時はやっぱり意識的に自己のことを考えてましたね。
    う~ん自動的ではないのかも・・・

    そして、シフトが起こった後それで終わりかというとまったくそんなことはなく。。。
    生き残るためのプログラム、物事をコントロールしようとするプログラム、いろいろまだあります。
    道は長いです(>_<)
    すみません、また文章も長くなっちゃいました。。。

  4. 星の旅人さん、こんにちは。

    僕はこのヨーラン・バックルンドという人の言うことはそれほどピンと来ていなくて、掲示板での彼のやりとりなどを見ていても、「シフト」にこだわりすぎなんじゃないかという気がします。それと、提唱されている「シフト」の形式にも。それから、そもそも「シフト前」の状態を想定している感じがあまりにストーリーっぽいという印象もあります。会ったこともないので、勝手な想像でしかありませんが。

    それと同じような意味で、プログラムとかどうとかといったラベリング (見方) にもあまり興味を持てず、「懐かしいな」とか「ああ、いいな」以上の何かがあるという気もしないので、星の旅人さんの書かれることも(特に意味づけの部分は)イマイチ真剣に読み取ろうという積極的な気持ちが今はちょっと足りない感じです。

    でも、もちつき大会で腰が疲れているだけかもしれません。たぶん、そうです。

  5. 星の旅人さん、もちつき大会の疲れも抜けて、新鮮な目で再度コメントを読ませていただきました。

    「シフト」とはなにか、「プログラム」とはなにか、というようなラベリングをしようという趣旨ではないのは明白でした。自分はいったいどこを読んでいたんだろうという感じです。無礼でおかしな反応をしまして、どうもすみませんでした。

    それで、耳を澄ますということをしてみたのですが、本当に懐かしい感じがして、幼いころ (もしくはその前?) の感覚を思い出しました。そうなっていると、何かを完了させるという意味でのシフトに対する関心はほとんど出てこないので、すごくやすらぎました。

    いつもありがとうございます。

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