悟りとは何か ヨーラン・バックルンド

 
ジョーイ・ロットの新刊についてAmazonで調べているときに、Göran Backlundというスウェーデン人のことを知った。Refuting the External Worldという題のKindle本を出している。数十ページの電子ブックにしてはちょっと高いなあと思いながらも、読んでみた。

客観世界も空間も認識の主体としての個人も存在していないということを対話形式で示した短い本で、いわばダイレクトパス的なもの。ただし、グレッグ・グッドの本と違って、そこまで整理されていない。内容はいいとして、ちょっと独善的な感じの気どったトーンが鼻について、あまり好きにはなれなかった。(とか言いつつ、「これはすごい!」「こんな説明の仕方は見たことがない!」という感じの複数のレビューを目にして、購入時点ではかなり鼻息が荒かったのは事実)

ただ、彼はウェブサイトでもいろいろな文章を公開していて、そちらの方には面白いものがいくつかあった。「悟りとは何か?どうしたら悟れるか?」という、タイトルはイマイチながらも内容は興味深い記事を訳してみた。

その前に、彼の「覚醒」のストーリーをAwakening: My Storyという記事からかいつまんで紹介したい。

== 以下、概要 ==

父親がガンにかかり、その不安に悩まされ、不安を解消しようとして探求がはじまった。「今にいる」教えを知り、オーストラリア人の仏教のトークにも触れ、そのなかですべての苦しみが消える「悟り」というものの存在を知る。父親の死後、不安はおさまったが、悟りへの興味は続き、瞑想を始めて、苦痛ですぐにやめた。アドヴァイタを知る。現実の性質についていろいろな本を読むうちにカントに出会う。カントの著作を通じて現実の真実を理解する。だが主体と客体の分離感は残る。Wei Wu Weiを知り、必死に読む。しだいに分離は消えた。ただ経験しているということ、それだけが残る。

== 概要は以上 ==

生きている教師にはつかず、故人の著作だけで現実の性質を認識できたというのは面白い。

つぎに、本題の記事の翻訳。

原文: Enlightenment: What It Is And How To Get It

== 以下、和訳 ==

悟りとは何か、どうすれば悟れるか

この文章の目的は悟りとは何か、どうすれば悟れるのかを示すことだ。悟りを得ることを「目覚める」という言い方で表すこともあるが、これは「悟りに目覚める」というのを短くした表現だ。ただし、それが何を意味するのかについては、もう少し説明が必要だろう。

「目覚める」とはどういう意味か?

悟りに目覚めるとは実際どういうことなのかを理解するためには、まず現実の性質をわかっておく必要がある。それを簡単に説明するとしたら、こんな感じになる。

映画『マトリックス』は観ただろうか? 観たことがない人は、すぐに観てほしい。観たことがあるということを前提に進めるとして、まずマトリックスを思い描いてみよう。ただしマトリックスの外側には何もない。マシンも、ものごとを動かす巨大なコンピューターも、空間も、時間も、まったく何も。というか、外側すらない。想像できただろうか? それが我々の現実だ。 言い方を変えると、自分の経験を超えて存在する物質世界というのものはどこにもない。原子はない。惑星はない。星はない。空間もない。あるのは主観性だけ。あるのはこの絶えず変化しつづけている経験の領域、別名意識、あるいは気づきだけだ。

と、これが短縮版の説明だ。今説明したことを実際に証明していくのが長いバージョンで、それは僕の書いた本 Refuting the External Worldに詳しく書いた。この文章は、どちらかといえば本をすでに読んだ人たち、本に書いてある真実を実際に生きるために崖から飛び降りる準備ができた人たちを対象にしている。

ともかく、客観的な現実は存在しない。経験するということだけがある、それがキーポイントだ。

といっても、わかっていない人にとってはそうは感じられない。そうではなく、自分は地球という惑星を歩きまわっている人間であるように、時間と空間でできた宇宙の中の物理的な存在であるように感じられる。客観的に存在している世界を経験しているように思える。いわば、主観性の世界、絶え間なく変化し、変形し、調子を変える主観性を経験しているようには思えない。主観性の世界は、目覚めたときに生が経験されるありかたで、それは絶えず変化を続ける現象性という単なる流れとして経験される。

でも、自分というのは自分とは別に存在している宇宙の中にいる存在なんだと感じられるのはなぜだろうか? 一方に「自分」がいて、他方に「自分以外」の何かがあるように感じられるのはなぜなんだろう? 経験を分割しているやりかたにその原因がある。

分割されていない経験

さて、大事なのはこれだ。我々の経験は実際には分割されていない。普通はあると思われている分離はない。つまり、暗黙のうちに当然あるとみなされている、見る者、見ること、見られるものという3要素は、直接の経験の中には実際は存在していない。そういう分裂は単純にないのだ。詳しく見ていこう。そうすれば意味がわかるはずだ。

まずは、見る者、つまり主体が直接の経験の中に見つかるかどうかを調べてみよう。

やってみてほしい。自分という存在が見つかるかどうか。

見つかっただろうか? どこを調べてみてもいいが、何も見つからないはずだ。主体は見つからない。なぜなら、見つかったとしたら、その今まさに見つけたものを見ている別の主体があることを認めなくてはいけなくなる。つまり、見つけたものは主体ではない。対象だ。と、永遠に続くことになる。

これが、主体がけっして見つからない理由のひとつだ。主体を見つけるというのは論理的に無理な話なのだ。

ほかの根拠があるとしたら、それは、単純に主体が存在していないからというものだ。客観的な現実は存在しないというのを思い出してほしい。当然いると思われている見る者はいない。何も存在していない。あるのは経験というこの領域だけだ。

直接の経験の中では主体は見つからない、それがここでのキーだ。

では、視覚について考えてみて、3要素のひとつ「対象」が見つかるかどうかをたしかめてみよう。言いかえると、「見られている」何かを見つけることができるかどうかを調べてみる。(この例では視覚を使っているが、まったく同じ原理が五感のどれにもあてはまる)

まずは自明な事実をおさえておこう。

  • 視覚的な経験の対象は、色でだけ構成されている。
  • つまり、直接の視覚的経験においては色以外には一切何も与えられていない。
  • 言いかえると、我々が見ているのは対象およびその色ではない。色だけを見ている。
  • 別の言い方をすると、視覚では、色のパターン以外には何も見つからない。

さて、ここで重要なのは、我々が「色」という言葉を使うときには色が存在していることを意味しているが、「見ること」という言葉を使うときにそこで意味しているのもまた色の存在だということだ。(これが正しいことがわかるまで、考えてみてほしい。もしくはこの記事 (未訳)を参照のこと)

したがって、「見ること」と「色」はまったく同じこと、つまり「見ること」を言い表している別の言葉にすぎないということを認めないわけにはいかない。

別の言いかたをすれば、色は通常我々が考えているようなかたちで「色」であるわけではない。物体にくっつきながら、見られるのを待っているわけではないのだ。色とは何かと言えば、それは見ることそのものにほかならない。

そして、経験の「対象」が色でだけ構成されている以上は、対象が実際には存在していないことを了解するほかない。経験の「対象」はじつは「見ること」で作られているのだ。

そして最後に、「見ること」が気づきを意味するひとつの言葉にすぎないということを理解するのがこの議論の最終ステップだ。気づき、あるいは意識ものを意味しない。これらの言葉が参照しているのは、見ること、感じること、聴くこと、味わうこと、嗅ぐこと、考えることが起こっているということだ。

まとめると、こうなる。

  • 経験においては主体はない。
  • 経験においては対象あるいは「色」はない。
  • 「見ること」あるいは気づきだけがある。

非二元的な気づき

だが、ここまでの分析で気づきだけが存在している — 実際には見ること、感じること、聴くこと、味わうこと、嗅ぐこと、考えることだけが起こっている — ことがわかったとは言え、悟っていない人には、「自分」、つまり主体がこちら側、目の後ろにいるかのように、外側の世界に存在する無数の対象を知覚している見る者がいるようにそれでも感じられる。

なぜか?

特定の知覚様式のためだ。そのせいで経験は実際には分割されていないにもかかわらず、分割されているように見えてしまう。 この苦痛はサンサーラ(輪廻)として、あるいは単に束縛として知られている。それが我々の通常の見方だ。その見方をしていると、見るもの、見ること、見られている何かがあるように感じられる。

だが、別の知覚様式、分割されていないやり方もありえる。

非二元的な気づきだ。

「悟りに目覚める」という言葉は、その別の知覚様式にシフトする瞬間のことを意味している。それは、経験主体である自分と経験の対象である自分以外が存在しているかのように思わせる分割が消え、見ること、感じること、聴くこと、嗅ぐこと、味わうこと、考えることだけが残り、対象を経験している主体だという一切の感覚がなくなって非二元的にただあるだけになる瞬間だ。経験の観察者、目撃者だという感覚が消え、そのかわりに存在の感覚がシフトして、経験の全領域を含むようになる。「目覚める」という部分は実際のシフトを示し、「悟り」はシフトの後にみずからを見いだす場所を意味する。

ただし、本当の悟りは、知覚の根本的なシフトを超えたものだ。それは現実の非客観的な性質、みずからの自己の空っぽさを深く認識することだ。それは客観性というものが虚偽であると明らかになることだが、そのことは不可避的に思考形式、行動形式、感覚形式を完全に書き換えてしまう。

キーとなるポイントはこうだ。悟りに目覚めるとは、知覚の別の様式にシフトすることで、そうすると経験が自分自分以外に分かれているように見えることはなくなる。

さて、何を目指しているかがわかったところで、どうしたらそれを実際に手にいれられるかという話に移ろう。

無知の終焉

経験を自分自分以外に分割するのをやめようとするのなら、そもそもなぜそうやって分割して知覚しているのかということを理解しておくのが役に立つ。

我々はなぜ主体-客体というかたちで知覚するのだろうか?

文化的に押し付けられている世界観のせいで、知覚という行為はカメラ型といった名前で呼ぶのがふさわしいやり方で解釈されている。つまり、我々は自分をカメラとしてとらえ、自分は動き回りながら物体を見ている存在だと考えている。そして、経験の場は自分の視界で、そこに経験の対象が一時的に現れて、五感を使ってそれをとらえているのだと考えている。簡単に言えば世界をそう理解している。つぎにそのことを詳しく見ていこう。

直接の経験の中で対象に出会うと、本質的にはつぎのようなことが起こる。(何かを見ているということにしよう。たとえば箱とか)

  • 色の特定のパターンが「対象」として概念化される。そこには言外の意味が幅広く付与されている。それは時空内の存在であり、質量があり、物質で作られている等。言いかえれば、こうして知覚されたものを表す概念に、他のたくさんの概念がくっつけられ、そのすべてがそれは何なのかという観念をかたちづくる。それによって、それが実際には単なる色のパターン — 「見ること」あるいは気づきそのものにほかならない — でしかないということが忘れられる。
  • そして、それが「対象」であるということが、別の根源的な意味をもたらす。つまり、それは主体によって知覚されているということになってしまうのだ。主体とは自分だ。言いかえると、現実世界についての我々のモデルにおいては、経験の中に対象が現れたのは、対象に対する主体としての自分がそれに出会ったからだ、ということになる。つまり、対象が自分の視界に入ってきたのだと。別の言いかたをすれば、対象の存在自体がまさにそれを知覚する主体としての自分が存在することを意味するのだ。これはカメラ型の知覚モデルだ。テレビ画面に映像が映っているということは、それがカメラによって感知されているからだというのと同じで、経験の中に対象が存在しているということは、それを知覚している自分という主体がいることを意味しているんだと。
  • 「対象」という考えそのものが、それを知覚する主体の存在を必然的に生む。概念に組み込まれている。世界が存在しているというモデルのもとでは、自分をこうしたかたちで見るほかない。というのも、対象に出会うたびに自分が主体として存在しているということが再確認され、またそのことを思い出すことにもなるからだ。

ここで、このモデルを捨てて、かわりに別のモデルを採用するとしたら、つまり、従来とはまったく違うやりかたで知覚を概念に変えるとしたら、世界の経験のしかたは当然変化しはじめることになるだろう。

でも、まったく何のモデルも使わないとしたらどうなるだろう? それが「よりよい」生き方だからそうするのではなく(実際そうだが) 、慎重に調べてみることで、そうしたモデルが本質的に思考の根本的な誤りに基いていることが理解できたのであれば?

概念による上書きのまったくない、ありのままの現実を見はじめるだろう。事実上、「ゼロ状態」にあることになる。自分が世界を動き回っているカメラであるように思えることはなくなる。そのかわりに以前は自分が住んでいる世界だと思っていたものを、ついに現象性そのものという流れとして見るようになる。経験にどんなモデルも上書きせず、純粋に非二元的にただあるということが起こる。それが悟りの知覚様式だ。ゼロ状態。

ということで、このプロセスには実際にはふたつのステップがある。最初は、あると思っている分裂は実際にはないということを認識するステップ。我々が抱えている主体-客体モデルは実際に起こっていることを正しく表していない。今たしかめてみれば、直接の経験においては主体も対象も存在することはないということがわかるはずだ。それによって、経験についての主体-客体モデルは完全なる観念的なでっちあげだということがはっきりする。すべては現実についての思い込みに依存しているのだ。

ふたつめのステップは、そうした思い込みを分解するということ。客観性を論破する。外部世界の存在が誤りであることを証明する。そうすれば、世界モデルを捨て去り、そのかわりに経験を非二元的な気づきへとシフトさせることができる。

大詰め

ということで、ばかばかしいことはやめよう。最近誰もが勧めているエゴをなくそうビジネスは単なる時間の無駄だ。時空内の対象としてのエゴの存在を支えているものをすっかり取り払うこと以上に効果的にエゴを分解できる方法はない。

それから、インターネットでは最近、「ここに身体はあるけれども、その中に自己はいない。脳が思考して、身体が歩く、それだけだ」という感じのことを示すのに特化した動きが見られる。

これはまったくのナンセンスだ。自己があるという観念は、時空内に知覚能力をもった存在がいるという観念だ。単純にそういうことだ。上のような感じでいくら理屈を言おうが、対象を知覚している主体が存在していると信じているかぎりは、「解放」されることはない。

目覚めるためには、現実世界についてのモデルを解体しなければならない。そのモデルのどこがなぜ間違っているのかを正確に理解する必要がある。そうすることで、自分と現実のあいだにいろいろなかたちで立ちはだかっている、知覚には主体と客体があるという結び目をほどきはじめることができる。

現実をよく見ることだ。気力と決意をもって明らかにしよう。そうすれば、ずっと真正面から自分を見つめていたものの美と力を十分に味わっている自分にやがて気づくだろう。

== 和訳は以上 ==

これを読むと、「それで全部解決」的な無邪気さと、「悟り」という言葉をここで使ってしまうデリカシーの無さはちょっと気になる。

でも、アートマナンダ、フランシス・ルシール、ルパート・スパイラ、グレッグ・グッドといった現在では主流とも言えるコースではなく、カントとウェイ・ウー・ウェイという妙なコースで同じような認識に到達している人がいるというのは面白く感じるし、経験に主体と客体はないというポイントの重要性をクリアに説明している点は素晴らしいと思った。

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悟りとは何か ヨーラン・バックルンド」への6件のフィードバック

  1. ヒロさん
    このヨーラン・バックルンドという方の切り口、とても面白いです。(^^)/
    しかし、よくこんな方を見つけてきますね。
    いつか、この方の本もヒロさんに訳していただきたいな、などと思ってしまいます。(^人^)
    Love   pari

  2. こんばんは。晩御飯の支度の途中で読みはじめ、そのまま没頭しちゃいました。毎度感謝してます。こういうのタダで読ませて下さり申し訳ないような。本当に有り難うございます。

  3. pariさん、こんにちは。

    この人は教えている人ではないせいか、本は絶対に出てきそうな疑問に対して答えていないような感じになっています。今後、もしかしたらそのあたりがカバーされてもっと包括的なものになれば、とも思いますが、架空対話形式は本当に僕はダメなので、訳すとしたら拷問になりそうです(笑)。

    いつもありがとうございます。

    スズキヒロコさん、コメントありがとうございます。自分の勝手な楽しみと彷徨 (とたまに愚痴) につきあっていただいているという感覚しかありませんので、申し訳なく思われるのは申し訳ないです。でも、タダ読みするのがもし苦痛でしたら、訳書を買っていただければ、その苦痛はいくらか解消するかもしれません(笑)

  4. Mr.バックルンド、スウェーデンの方ですか。
    (「瞑想は苦痛ですぐやめた」って、良いですねw)
    非二元、アドヴァイダは世界的に広がっているのですね。
    ヒロさんが色んな方の文章を紹介して下さるおかげで、その現象をいつも興味深く眺めさせてもらっています。

    多分、どなたも同じひとつのことについて語っているのだとは思いますが、その表現は本当にそれぞれの個性が色濃く出ていて味わい深いなぁ、と最近楽しめる様になりました。
    私はそれっぽい言葉が煩わしく感じ始めていて、「気づき」なんて単語さえ鬱陶しく感じてしまってますが、バックルンドやラングフォードの様に用語を駆使してきっちり説明してある方が好みの方もいらっしゃる。
    ああそうか、好き好きで良いんだなぁ、とこの長い文章を飛ばし読みしながら(苦笑)思いました。

    ただ表現はそれぞれでも、『その(素晴らしい)こと』について語りたい!という熱があって活動されている方がほとんどだと思うので、「いや別に語るほどのことじゃないでしょ、大したことじゃないと思うけど。別に求めて無かったし」みたいな思いっきりクールな人の話を聞いてみたいですね(笑)。

  5. inglewolfさん、こんにちは。

    厳密にクールとは言えないかもしれませんが、自分からは全然発信しない (声がかかるまで何も話さない) というスタンスを続けていた人にリック・リンチツというお医者さんがいて、残念ながら亡くなってしまいましたが、すごくニュートラルな感じで好きです。でも、本当に何も言わないというところに落ち着いている人がじつはほとんどなのかなとも思います。

    「きっちり説明」ということに関連して、ジョーイがバックルンド本についてcertaintyとuncertaintyということを言っていました。ジョーイは不確かさに自分を投げ出すという点にしか自由はないという表現なので、その点ではヨーラン・バックルンドとは対極にあるのかもしれません。ジェニファー・マシューズの「はしごは使い終わったら蹴り飛ばしてしまえばいい」という言葉を思い出します。

  6. ヒロさん

    「リック・リンチツ」を検索したら、『resonanz360』というサイトの記事がたくさん。
    あら面白そう。読んでみます。ありがとうございます♪

    「不確かさに自分を投げ出す」、かぁ。。。
    良い表現ですね。。。

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