釣り、読書、バックルンド

 
昨日あることに気づいた。

釣りの前に釣具屋に餌を買いに行き、「最近カマスが釣れだしたって聞いたんですけど、どのあたりですか? 餌はやっぱりキビナゴですか?」とか聞くことがある。それから、堤防で話しかけられた人に「最近カンパチがこのあたりで釣れるってJ州屋のサイトに書いてあったもんですから、来てみたんですけど」とか、言うことがある。

そんなとき、ほとんどの場合、相手からは「フッ」という感じの微妙な反応が返ってくる。

「そうだね。昨日もお客さんが西堤の赤灯台のところでずいぶん釣ったみたいだよ」とか「そうなんですよ。カンパチが最近回ってきててね。今日もけっこう上がってるし」という感じの反応を期待しているから、いつも一瞬「あれ?」となる。

その「フッ」の正体に気づいた。これは、「そんな情報に踊らされてるようじゃ、まだまだだね。自分の目で見て自分の足で稼がなきゃ釣れないよ」という意味なのかなあと思っていたが、そうじゃなかった。これはたぶん、「そんなにガツガツした視野狭窄状態じゃ、楽しめてないんじゃないの」という意味だ。

それで、釣りというものも目的達成の手段にしてしまっていることに気づいた。

* * *

訳した本が何冊か出るようになってから、Amazonのレビューをチェックするのが習慣になってしまった。特に新刊が出た直後はつい見てしまう。

それで、星の数に一喜一憂している自分にちょっと嫌気がさしたりもしているけれど、『超簡約指南』に寄せられたレビューを眺めていて、あることに気づいた。

それは「読むってことは目標達成手段じゃなくてもいい」ということだ。当たり前と言えば当たり前。だけど、そこがすっぽり抜け落ちていた。

何かを得るための読書になれば、当初想定していた目的・目標をどのくらい達成できたかというのが読書の基準になる。もちろんそういう読書もあっていいけれど、読んでいる時間をただ楽しむ読書もあっていい。

僕自身も須賀敦子の本を読んだり、『アメリカの鱒釣り』を読んでいるときには、ただ読んでいる。何かを得るために読んでいるわけじゃない。あまりに当たり前すぎてこんなことを書くのは相当恥ずかしいけれど、そこが落ちていた。

* * *

読書の意味は置いておくとして、Amazonに寄せられたレビューを見ていると身がひきしまる思いがする。

inglewolfさんのレビューの「言外に存在する何かを自分で感じ取るしか無い。読み手にそれを委ねている絶妙な距離感こそ、この作品の他には無い魅力だと私は思いました。」という言葉。

こういう読み手に読んでもらえる本を訳させてもらっているということに、素直に感動してしまった。

一方で「ゴミ。どこが超簡約? なにが言いたいのか1ミリもりかいできなかった。」というレビューもあって、これもまた面白い。「14パーセントくらいは理解できたけど、それ以上は」というのであれば問題がありそうだけど、1ミリ未満ということはある意味で成功しているということなのかもしれない。

つまり、テレビ番組ガイドとテレビの仕組み解説をごっちゃにしたような表現方法が僕はあまり好きではないんだけれど、この本はたぶんテレビガイドを求める人 (このレビューを書いた人がそうだと勝手に決めつけるのも乱暴かとは思いつつ) にはまったく何も与えていないんじゃないだろうか、と気づいた。

それはともかく、素晴らしいレビューを書いていただいた人たち (4つ星以上という意味ではなく) には感謝感謝だ。

* * *

手段じゃない読書という意味では、最近J・C・Ambercheleという人の本を読んでいて、すごく面白い。ハーディングの方法による気づきをベースにして書かれた本だけれども (4冊ある) 、どれも「目指す」というよりも赤ちゃんの目、驚異の感覚に満ちていて、そうでありながらまったく浮ついていなくて、地中から響いてくる声のような異様にグラウンディングした感じの味わいもある。

それと、逆に「目覚めるための最高の手段」と自分で言ってしまっている本にも最近出会った。この手の本には半ばうんざりしていたはずが (しかも僕の苦手な架空対話形式。なぜそうする!) 、けっこう面白い。著者のGöran Backlundという人はスウェーデン人で、カントを読み込んだことで世界の性質がわかってしまったらしい。ブログもちょっと面白くて、翻訳の許可をもらったから、時間ができたらそのうち紹介してみたい。

ということで、気がついたら、やっぱりというか、秋が深まってきたら本を読みだしていた。季節に左右されるというよりも、こういう様相自体が季節と呼ばれるものなのかも (前にどこかで書いた気もする)。

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釣り、読書、バックルンド」への5件のフィードバック

  1. いつもながらですが、”いいね!”ボタンがあったら、ポチッと押したくなる記事です。

  2. ヒロさん、こんにちは。

    私もどんでん返しは大好きです。ひょっとすると中毒かもしれない(笑)。
    究極のどんでん返し?が起こったとしても、「知」は「知」のまま働き続けるんでしょうね。

  3. わ~、こちらこそ拙い感想をしっかり受け止めていただけて嬉しいです。
    情けない話ですが長い文章を書く機会がほとんど無いので、文章表現力の衰えが著しく。。。
    頭の中であれこれ考え、やっとキーボードに向っても今度は適当な単語を捻り出すのに四苦八苦、あの程度の分量を書くのに3日は掛かりました(苦笑)。
    こうして取り上げていただいたり、レビューが役に立った評価していただけたりすると素直に嬉しいですね。レビューや星の数が気になるヒロさんの気持ちが少しですがわかります。

    「言外に。。。」は、ちょうど医師の土橋重隆先生のお話を伺ったことで改めて気づけたことなんです。
    土橋先生は内視鏡手術の権威でありながら現代医療の在り方に疑問を呈し、発想の転換を促してらっしゃるいわば『異端』の存在で。
    曰く「患者も医者も病に名称を与えてその現象のみに注目し、病に至った生き方の本質に目をつむってしまっている」と。
    そう言われて改めて、医療現場に限らずあらゆる場面でそうっているんじゃないか、情報を与えられることに慣れ過ぎて文字の羅列の奥に広がる世界を感じることを忘れていたんじゃないだろうか、と思いまして。
    再度ページをめくってみたら、一読しただけでは感じ取れなかった文字の向こう側に存在する何かがじわじわと迫って来ました。
    ああそうだよな、本の中にはひとつの世界が詰まってるんだと。いつの間にか本への向き合い方がぞんざいになってしまって、結局損をしていたなぁと反省しました。
    一筋縄ではいかない(笑)『超簡約指南』のおかげです。

    ちなみに、土橋先生と玄侑宗久さんの『生きる。死ぬ。』、非二元本ではないですが非常におすすめです。
    土橋先生の何も否定せず、心地良い距離を保ちながら真っ直ぐ自分の道を生きる在りかた、私にはJ・ジェニファー・マシューズからそれに近いものを感じました。
    J・Jも医療現場にいた経験があるとのこと、生と死が交差する場を直に眼にしている人達に共通のスタンス、肚の座り方なのかなぁと思います。
    自分もそうなれるとはとても思いませんが、憧れますね。

    『超簡約指南』は、『わかっちゃった人たち』同様折に触れて読み返すことになると思います。
    出版社の方々、また機会があればJ・Jにもよろしくお伝え下さい!

  4. sunflower4pさん、どうもありがとうございます!

    inglewolfさん、どうもありがとうございます。非二元を非二元として表現するということの野暮さを、最近ときどき感じるようになっています。愛や美を箇条書きで説明しようとしているような野暮さです。アメリカで感じることがある野暮、ヨーロッパのあまり洗練されているとはされていない地域で感じる野暮と似ている感じです。

    その意味では『超簡約指南』も取り組み方としては野暮なのでしょうが、そうじゃない印象も強く感じます。そのあたりのヒントをいただいた気がします。土橋重隆さんの本、読んでみます。すごく面白そうです。ありがとうございます。

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