疑いえないこと ジョーン・トリフソン

 
久々にジョーンの書いたものを訳してみた。昨日の泣きの入った記事にたくさんの人たちからコメントとメールをもらったから、ささやかな恩返しのひとつとして。

原文: Facebookの記事 (2014年6月25日)

== 以下、訳 ==

カリフォルニアで最近ミーティングを開いたときに、誰かに尋ねられました。どうやってこういうこと全部を知っているんですか?と。私は「あなたも間違いなく知っています。ここで指し示されているのは、じつは誰もが知っていることなんですから」と答えました (知っているということに誰もが気づいているわけではないかもしれませんが) 。私の話や本やFacebookの記事は、神秘的な知識に関するものでも、秘教的で超自然的な知識に関するものでも、選ばれた少数の人だけが到達できるような特殊な意識状態に関するものでもありません。私がいつも指し示しているのは、ものすごく単純なことです。それはすぐそこにあってあまりに明白なせいで、非凡なものや派手な何かを探してしまうと簡単に見落とされてしまう何かです。

自分に尋ねてみてください。まったく疑う余地なく知っていることは何だろうか? 何の信念も必要としないものとは? と。私にとって、どうやっても疑えない唯一のことは、ここにいて、今この瞬間にこれが起こっているということです。それだけです。言葉でも概念でもなく、これは一体何なのかという解釈でもなく、今この瞬間という生きている現実がここにあるということ、それだけです。

自分がここにいるということをあなたは知っています。それを証明する証拠は要りません。外部の権威に頼らなくても、それははっきりしています。鏡も必要ありません。自分 (今ここにいて気づいているというこのもっとも基本的な感覚) がここにいることをあなたは知っているんです。ここにこうしてあるのは何なのかということについては疑えます。あなたの名前もあなたのストーリーもあとから獲得したもので、それは忘れられることも疑われることもありえます。同じように、自分とは身体の内側に閉じ込められているマインドだという概念も、あとから知ったことであって、忘れられたり疑われたりします。自分が男なのか女なのか、あるいは自分は夢の中の登場人物なのかタンクに浮かぶ脳なのかといったことなら疑えます。でも、自分がここにいて、今にいて、気づいているという単純な現実は疑うことができません。私はここで「気づき」とか「プレゼンス」といった概念について話しているわけではありません。どんな考えも疑うことができます。けれども、今ここにいるという認識は、まったく疑うことも否定することもできません。

それから、何かがまぎれもなく〈ここ・今〉に現れているということも、何の疑いもなく知っています。この現れは何なのかということについては疑えますが、ここに現れているということ自体は否定できません。見て聴いて呼吸して感じる ― 今この瞬間にこうして経験しているというありのままにそうなっていること ― これはまったく疑えません。この現れは何かという解釈なら疑えます。夢、物質的現実、原子と分子の集まり、幻想。そうした解釈はいずれも疑うことができます。けれども、葉のあいだを通る風、鳥の鳴き声、紅茶の味、行き交う車の音、突っ走っていく消防車の赤色などと私たちが呼んでいるむき出しの感覚的経験は疑えません。言葉を疑うことはできても、その言葉が指し示しているありのままの現実は疑えないのです。

非二元というのは哲学ても信念体系でもありません。非二元は、〈ここ・今〉という生きている現実を指し示しています。カラスのかあかあかあ、葉の緑色、花の香り、ここにいるという了解、それらすべてを見守りながら、聴きながら気づきながら今ここにあるということ。これが〈聖なる現実〉で、非二元の絶対です。この生きている現実に、そしてただこの瞬間にいるという単純さにより深く自分を開いていくと、まったく何の変哲もないように見えるこの瞬間に、まさにここに本当の非凡さがあるということがより明確になります。私が関心を持っている道なき道とは、この生きている現実を偏見を持たずに探究することであって、その現実についてのドグマや信念の寄せ集めではありません。それは、目覚めているということであって、昨日目覚めたということでも、明日目覚めるということでも、いちど目覚めて終わりということでもないのです。

== 訳は以上 ==

気分を変えて、ですます調で訳してみた。考えてみればジョーンは優しく語る人で雰囲気もけっこうソフトだから、いままで「なのだ」「である」とか訳していたのは妙だったかもしれない。

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疑いえないこと ジョーン・トリフソン」への10件のフィードバック

  1. 非二元というのは哲学ても信念体系でもありません。非二元は、〈ここ・今〉という生きている現実を指し示しています。カラスのかあかあかあ、葉の緑色、花の香り、ここにいるという了解、それらすべてを見守りながら、聴きながら気づきながら今ここにあるということ。これが〈聖なる現実〉で、非二元の絶対です。

    これって解釈ではないのですか?

  2. 僭越ながら、最近感じたことを書いてみます。
    >高橋様
    こんにちは。この文章を読んだ人にとっては「解釈」です。でも、これを体験した人にとっては、「聖なる現実」なんです。思考や感情のフィルターを通っていない素の「印象」は、解釈の余地がない故、聖なる現実なんです。そして、「印象」を言葉にすると、それを読む側は、必ず思考・感情を経由するのでそこに様々な解釈が生じます。だから、そのことにこだわるより、「今ココ」を、「生きた現実」を体験してみることで、そのことが理解できるでしょう。「ああ、これか」って感じで。「聖なる現実」は、理屈抜きに素晴らしいものです。それは、ふと空を見上げたり、耳をすましたり、なにかに注目したりするだけでやってきます。それまで見慣れたつまらないありふれたものだと思っていたことが輝きだします。人はつまらない平凡な印象を受け取ることも、素晴らしい極上の印象もどちらも受け取ることが出来ます。どうせなら素晴らしい印象を受け取ったほうがいいですよね?せっかくおいしい料理が用意されているのに、わざわざカップメンやカンズメばかり食べることはないんです(たまにはいいですけどね・・・)。長文失礼いたしました。

  3. しゅー様
    ご親切にコメントして頂きありがとうございます。

    何の解釈もせずに「あるがままに今に留まる」ことは同意してます。

    引用・・・・
    非二元というのは哲学ても信念体系でもありません。
    これが〈聖なる現実〉で、非二元の絶対です。
    ・・・・・・・
    これって本人の解釈、概念ではありませんか?

    解釈、概念が悪いと言っているのではありません。
    本人は何も解釈していないと思っているような書き方なので聞いてみました。

    自分の概念を〈聖なる現実〉とし非二元を絶対視しているのが不思議なだけです。

    ご本人の体験の素晴らしさについて疑問をもっているのではありません。

    引用・・・・
    そのことにこだわるより、「今ココ」を、「生きた現実」を体験してみることで、そのことが理解できるでしょう。
    「ああ、これか」って感じで。
    「聖なる現実」は、理屈抜きに素晴らしいものです。
    ・・・・・
    もし、しゅー様が上記の続きに
    『これが〈聖なる現実〉で、非二元の絶対です。』
    と言ったとしたら???

    解釈じゃなくて事実なのでしょうか?

    「これは脳が創り上げた聖なる現実で、唯物論は絶対です。」と言ったら解釈になりませんか?

  4. >高橋様
    普段この手の話題を人様に対し話す機会が無く上手く文章に出来ないにもかかわらず書き込んでしまい少し半し反省しています。。
    >解釈じゃなくて事実なのでしょうか?
    その人のなかでは「事実」です。トリフソン氏が24時間解釈していないかというとそれは?ですが、少なくとも解釈じゃない「現実」が確実にあり、それについて述べているのだと思います。彼は「解釈」と「事実」を識別できるということです。で、「事実」は素晴らしく、でも特別なことではなく、ちょっと気をつければ誰でもみつけられるよ、まずは体験してみてよ、そうすればオレの言っていることが判るからさ、と発信しているんです。この後、興味を持った人がチャレンジしてみて、「・・あ、ホントだ」「ね!これいいでしょ?」ということになります。
    そ の あ と で、「これは脳が創り上げた聖なる現実・・・なんだろうか?」と考えてみても遅くはないと思います。でも、多分「・・・ま、いっか」って思いますよ!「これは解釈か事実か」って考えながら食事してもおいしくないですよね。それに料理の美味しさを言葉で表現するのも難しいです。ラジオでレポーターが「この料理早速いただいてみます。んーうまい!」ってよくやってますが、これ聞いて実際に同じものを食べに行くか、「レポーターなんぞがウマいって言うの信用するかよ」と無視するか。。。私は、「聖なる現実」を食べて圧倒的に美味しいと思いました。でも私はトリフソン氏のように美味しさを非二元というジャンルの言葉で上手く表現できないので、『これが〈聖なる現実〉で、非二元の絶対です。』とは言えないです。。。。

  5. しゅー様
    お付き合いいただきありがとうございます。
    優しいですね。
    私の言いたいことが伝わっていない気がしますが最後にします。

    「私が関心を持っている道なき道とは、この生きている現実を偏見を持たずに探究することであって、その現実についてのドグマや信念の寄せ集めではありません。」
    ジョーン・トリフソン

    「これが〈聖なる現実〉で、非二元の絶対です。」
    ジョーン・トリフソン

    非二元は絶対だということはドグマや信念の寄せ集めとは違うのでしょうか?

    現実を偏見を持たずに探究することを止めてませんか?

    非二元は真実でそれ以外はドグマや信念の寄せ集め。
    非二元と見ることが偏見を持たずに正しく探究すること。

    このような結論になってませんか?

  6. 人間はわかりあえないけど認め合える。
    そう思っていると楽だと私は思います。

    私は〜だと思う。
    そうですか。○○さんはそう思ったんですね。ところで私はこう思うんです。
    そうですか。
    こんな感じに。

    そんなの嫌だ。そんなの違う。
    そう言われたら私は言います。
    そうですかあなたはそう思ったんですね、と。

  7. >やま様
    私もそう思います。「聖なる現実」はあくまでその人にとってのものですからね。真実、真理、絶対・・・この辺の言葉は、みんなその前に●●さんの~がもれなく付いてきます!人はそれぞれ自分の世界・宇宙を持っていて、その人はその世界の王様、創造者、神様なんでしょう。他人様の宇宙とたまたま共通項や重複はあったとしてもそれは偶然だし、それすらあっているかどうかさえ怪しいモンです。。。だから、その人が体験したことがその人にとっての「聖なる事実」であり、普遍的な「真実・事実」はない・・・もしあったとしても私達には次元が違いすぎて理解できないものなんだと思います。そうすると、他人を批判すると言うことが如何に無意味なことかがわかってきます(瞬間的に湧く感情はしょうがないです。やってきちゃうモンですからネあれは。)。

    >高橋様
    度々ですみません。トリフソン氏はただ「これは自信を持ってオススメします!」って言いたいだけなんですよね。大体自分の体験に確信がなければこんなこといえませんもん。私は、今回のトリフソン氏の文章が、ヒロさんの名訳とあいまってとても気に入ったんです。うっトーしくなく、おしつけがましくなく、あくまでスマートで。で、高橋様のカキコを拝見し、「ためしに探求とか難しいことはおいといて、素の体験をした後で(または思い出して)読むと、この文章も全然違った印象になりますよ」とお伝えしたかったのです。。。。

    以上、私もこれにて失礼いたしまーっす。

  8. はじめまして。
    非二元について最近興味を持ち始めた通りすがりの者です。

    高橋様

    「これが〈聖なる現実〉で、非二元の絶対です。」
    は非二元を絶対視しているのではなく、〈聖なる現実〉が非二元にとって(という言い方で良いのか分かりませんが)絶対、という風に私は受け取りました。

    非二元についての文章を読み慣れていないため、見当違いでしたらすみません。

  9. 〉高橋さん

    非二元は真実でそれ以外はドグマや信念の寄せ集め。
    非二元と見ることが偏見を持たずに正しく探究すること。

    これ、僕も本当に疑問です。
    たとえば、デカルトが全てを疑い、最後に残ったのが、考える私がある、私がいることだけは確実だ、このことだけを出発として考えようとしたわけですが、

    非二元でいえば私も彼も柄杓もうんちも一つだから我はないとなるし、
    仏教でいえば、私とは眼耳鼻舌身意に入った刺激を概念化してまとめたから私なる状態を仮作してるだけで私はないとなり

    デカルトさん、ごくろうさまでしたブッブーということになります。

    これは、いま非二元や仏教を真実、デカルトを道化verとして書きましたが、もちろん、理屈上、非二元を間違いにするver、仏教を間違いにするverもあると思います。

    非二元に対していうなら、原始仏教では、存在は一元ではなく、色、心、心所、涅槃という4つに分類しますから、明確に間違いです。

    反面、仏教に対していうなら、それこそ存在は非二元なのだから、4元に分類するなんてちゃんちゃら間違いです。

    ただ、ここ重要なのですが、嘘付きや妄想狂ではなく、本当に「わかった人」(非二元を一瞥した人or阿羅漢聖者など)でないと、わからんということです。

    知ってましたか?非二元ならマハラジとか、仏教なら清浄道論とかに、正解全部書いてあるんですよ、読みゃ全部答え書いてるんです。なのに、わからないんです。
    入試でいえば答え全部教えて貰ってるのに、なのに合格できないんです。
    そのくらい、わからないんです。

    だから、「全ては非二元、あとは概念」でも、「あるのは色、心、心所、涅槃、あとは概念」でも、解答丸読みしながら自分で問題といて合格通知もらうしか、わからんのです。

    だから、僕は高橋さんの疑問にまったく同意します。
    それとともに、この掲示板で、ヒロさんにでも誰にでもに「こういうことだよ」って言われても、それどころか悟ったと言われる人や阿羅漢だという人に「こういうことだよ」と言われても、「ああ、持ってる解答用紙に同じこと書いてありました、だけどまだ合格したことないから申し訳ないけどわかんないです」としかいいようないのですよね。

    だから、まとめると、一緒にがんばって悟りましょう(笑)
    そしたら、手持ちの解答用紙があってたのか間違ってたのか(非二元だけが真実でそれ以外は概念なのか、はたまたetc)
    わかるはずです。
    僕は、その体験をすべく、読んで「マジかよ」って思ったり、瞑想して「わかんね」って感じたりしています。

  10. YMさん、巧みな比喩がすごいです。中学の修学旅行のときにきいた清水寺のお坊さんの深くて笑える講話(?)を思い出しました。

    しゅーさん、どうもありがとうございます。ちなみにですが、ジョーンは女性です。訳すときに「ですます」で訳さなかったので、まるで男性の言葉のように聞こえますよね。

    笑顔が素敵なおばさまです。インタビューの短い動画があります。 http://www.youtube.com/watch?v=L2STzcwt_Wg ご覧のとおり右手がなく(生まれつきです)、片手であれだけたくさんの文章を書くのか!と僕は驚きました。

    やまさん、「認め合える」というのは、本当にそうですね。ありがとうございます。

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