ネイサン・ギルの死 その2

 
ネイサン・ギルの死について、パートナーだったアンジーとネイサンの娘のルーシーが短いメッセージを寄せているのを見つけた。

アンジーのコメント

「ネイサンの死は、きわめて勇気のある行為でした。私はネイサンのパートナーでしたが、彼は愛する人たちを思いやっていました。彼にどれほど愛されていたかということについて、残された人たちには何の疑いもありません。彼は穏やかに静かに亡くなりました。流れ出ている愛はひとつの美しい生命の証です。その美しい生命は、今も、そしてこれまでもずっとふるさとにいます」

ルーシーのコメント

「ネイサン・ギルは私の父でした。とても素晴らしい人でした!!

父を失って私の心は打ちのめされていますが、父が去らなくてはならなかったのはわかります。父があれ以上苦しまなくてもよくなったということに私は慰めを見いだしています!! 父はとても勇気があって、これ以上は無理というところまで頑張ったのです!!

もちろん私たちは気づきであるわけですが、「私/自己」が割り込んできていて、今にいるということは私にとっては現在のところは簡単ではありません!!

Already Awakeを再読しているのですが、この本は助けになっています!!

私の父、エイミーの父、アンジーのパートナーに対するこの素敵な追悼記事に感謝しています!!」

(追悼記事というのは、Advaita Visionに掲載されたこれ)

nathan-gill

ネイサンの死を知ってから一週間、気がつくとそのことについて考えていた。喪失感が出てきたり、「生も死もない」という理屈が出てきたり、再開したミーティングをやめた後の彼の沈黙について考えたり、安楽死だったらよかったのかなと納得しようとしたり。

解釈は解釈でしかない。でも自分のものとして出てくる解釈には敬意を払いたい気が今はする。「現象にすぎない」と却下するような態度にティム・フリークが批判的コメントを繰り返し述べていたのを思い出す。それから、ジェフ・フォスターが原理的表現からDeepest Acceptanceで展開しているような姿勢に「転回」したことも。

いろいろと浮かんでくる。

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ネイサン・ギルの死 その2」への6件のフィードバック

  1. 東日本大震災を受けてどう思うのか。

    東日本大震災で亡くなった方は、今までの悪行がたたって亡くなったわけではない。

    厳しい言い方をするが、「自分のものとして出てくる解釈には敬意を払いたい」は、思考の産物で、相対的な世界であり差別です。

    どんどん分かっちゃったふりをしている人になっちゃってる。

    いくら頭で考えても無理なんですよ。

    ヴィパッサナー瞑想というものをやったことはありますか?

    *********************
    祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。
    ******************

    ここには思考は存在せず、事実のみがあるんですよ。

  2. crazydoctorさん、ご高説を開陳されたいのであれば、今後は別の場所でどうぞ。僕は、そしてこのブログを見に来ている方々もおそらく、「思考」と「事実」の二元対立のようなところにはあまり関心がないと思いますので。

  3. こう書かれていることもそれのデザインであり、それなわけで
    それしかない
    そして、指し示すことはできない
    という

  4. 例え会ったことがなくても、知っている人が亡くなったらショックだし、悲しみや混乱が生じるのはすごく普通のことだと思います。

  5. 承知しました。
    もう二度と書き込みしません。
    しかし、あなたは私を異質なものとして排除したことを理解してください。

    北秋津さんへ

    「普通」とおっしゃるが、そうでしょうか?普通と異常は二元ではありまえんか?そもそも普通が正しいことなのでしょうか?

    最後っ屁だと思ってください。もちろん不掲載で結構です。

  6. 妙な自己投影をしてシャドウボクシング中の人はただそっとしておいて。
    どうぞめげずに、好きな本読んで興味の分野を翻訳して正々堂々労働対価である翻訳料の労働報酬をもらって下さい。自分の知り合い(海外文学作品の英語翻訳)と、やってることは正直変わりませんよ。
    翻訳物に代金払って買うかどうかも、買った本をどう利用するかも、それ以降は基本買い手の責任範疇でしょうに

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