ザ・シークレットの秘密 ジョーイ・ロット

 
ジョーイ・ロットが引き寄せの法則について何を言っているのかを知りたい、というリクエストが寄せられた。

ジョーイは Manifestation Happens というKindle本を出していて、そこで「引き寄せ」について書いている。本を訳すわけにもいかないから、引き寄せについての彼のブログ記事を訳してみた。

ちなみに今週は毎日記事を書いているけれど、特に意味はございません。

原文: The REAL Secret behind The Secret (Law of Attraction) – Manifesting what you Truly Want (joeylott.com)

== 以下、翻訳 ==

『ザ・シークレット』(引き寄せの法則) の本当の秘密 – 真に求めていることを実現する

白状する。昨日まで『ザ・シークレット』を読んだことも観たこともなかった。どういう理屈なのかは知っていた。以前南カリフォルニアに住んでいたころ、カルバーシティにあるマイケル・ベックウィズの教会 (アガペー国際スピリチュアルセンター) に何度か行ったことがある。アーネスト・ホームズのレリジャス・サイエンスのノースハリウッド教会に通って、組織内の実践士になろうと思って数年学んでいたこともあった。それから子どものころは一応ユニティ・チャーチに行っていた。ルイーズ・ヘイやウェイン・ダイアーの本も読んだ。『ザ・シークレット』の秘密は、僕にとってはまったく新しいことじゃない。だから、言われていることをつかむために『ザ・シークレット』を読んだり観たりしなくてもいいだろうと、ただそう思っていた。

ずいぶん前に僕が発見したのは、いわゆる引き寄せの法則を活用してどれだけ結果を出したとしても、何かを求めているかぎりは絶対に本当の意味で満たされることはないってことだった。求めるということ自体が問題の核心なんだとわかった。(妙なことに、求めるのをその時点ですっぱりやめるという直行ルートを僕はたどらなかったんだけど!) 結局それがわかったことで、非二元やアドヴァイタといったもっと純粋な形態の「スピリチュアリティ」をさらに何年も探究し続けるという悲惨な目にあうことになった。正直言って、避けられるならそんな道は避けたほうがいい! 本当に悲惨だった。非二元に出会うの僕は、どうしようもない人間だった。非二元に出会ってからの僕は、どうしようもなさがさらに増した。非二元を知る前は、不幸せで中度の強迫性障害で拒食症だというだけだった。非二元を知ってからは、あらゆることが極度に恐ろしくなった。毎日がとてつもない苦しみと苦悶とで完全に埋め尽くされていた。思考回路が詰まって便秘状態になっているせいで、眠ることもできなかった。できるのは、座って「瞑想」することだけだった。「瞑想」と言っても、実際にはどうにかして落ち着こうとしていただけだ。

で、ここで紹介したい。自分の経験にどことなく満足しきれていない引き寄せの法則の天才にも、非二元バカにも、役立つ可能性がある知恵だ。これを本当に受け取れたら、必要のない苦しみからかなり救われることになるだろう。

さっき書いたように、僕は『ザ・シークレット』を観たことがなかった。昨日までは。Youtubeで見つけた。90分。正直言って、ああいうたわごとを最初から最後まで観るなんて無理な話だ。でもありがたいことに、僕はEnounce MySpeedっていうちょっとしたユーティリティソフトを持っていて、それを使えば動画を最大5倍速で再生できる。ということで、30分もかからずに観ることができた。再生速度を上げても全部は観られなかった。白状すると、最後の15分くらいは観てない。

この作品の作り方はやりすぎだ。どう見てもくだらない。それに、ひどくわかりにくい。いわゆる引き寄せの法則というのは作り話だ。でも、引き寄せの法則がそうと気づかずに (そして効率悪く) 利用している原理がその背後にはある。これからここで伝えようとしているのは、背後にあるその原理だ。

子どものころ、ゲームセンターにあるようなゲームがいろいろな店の入口によく置いてあった。食料品店。ウォルマート。コンビニにも。当時は1ゲーム25セントだった。25セント硬貨が手元にないことがよくあった。でもそこに立ってゲームをしているふりをするだけで楽しかったから、よくやった。誰もプレイしていないとき、ゲーム機の画面にはプレイ中のような画面がたいていは繰り返し映されていた。だからジョイスティックを握りながらボタンを押して、ゲームをコントロールしているふりができた。

ときどきは、自分が本当にゲームをコントロールしているような気分になった。

でも実際は違った。ただ起こっているだけだった。

ここで伝えたいと思っている、背後にある原理というのは、すべては起こっているということだ。ひとつのものとして起こっている。目の前のこれ以外には何もない。そのことはたった今直接知ることができる。一瞬で。自分の直接の経験にただ注意を向けるだけでいい。意味付けしようとする思考に注意を払わずに。

引き寄せの法則がどうやってこの原理を利用しているかと言えば、こうだ。自分が欲しがっているように思えるものに注意を集中して、それをしっかりと感じて既に実現しているみたいに思い描くと、自分のストーリーをシフトさせることになる。新しいパターンが見えてくる。そうすると必然的にほかのものごとには集中しない状態になる。それが、(望ましくない) パターンや習慣が手放せるという結果 (実際にはいつでもこれがあるだけだが) に見かけの上でつながることがある。自分の求めるものに注意を集中するということは、実際のところは、こういうことをすることで得られるメリットとくらべれば副次的なものだ。手放すということこそが本当のメリットだ。というのは、手放すことで、今起こっていることだけがすべてだという現実に気づくからだ。

自分のほしいものを追いかけても、それは不満足の悪循環につながるだけだ。現実には、生はいつでも起こっている。ひとつのものとして起こっている。生は必ずこの今の瞬間に起こっている。それ以外には何もない。だから、何かを追いかけること、何かを探し求めることは無駄だ。それは苦しみへの道だ。

ここで人が犯しやすいのは、こうしたこと全部を誤った二項対立にしてしまうという間違いだ。何かを追いかけたり探し求めるのが悪いことなのであれば (実際は悪いことじゃない。そんなことは言ってない)、何も熱望しないことが望ましいなどと思い込む。でも、何も望まないというのは無理だ。それから、探し求めないということは、貧困の中で生きるっていう意味じゃない。

僕が言っているのは、子どものころの僕が「プレイ」したゲームと同じで、生は起こっているということ。自分が生をしているという幻想を手放せば、生はただ起こっていて、これまでもずっとそうだったってことがわかる。それから、生のあらゆる局面でのすべての意味づけが、ありのままに認識される。つまり、意味づけは幻想だったことがわかる。意味なんてない。あるのは歓びだけだ。

自分が生をしているという幻想を手放すと、生をまったくありのままに発見することになる。でもだからといって、貧乏になるわけでもクラック中毒になるわけでもない。ただ、生は自分についてのことじゃなかったんだとわかるだけだ。自分のことだったことは一度もない。自分のこともなにも、自分なんていない。すべてはひとつのものとして起こっている。「自分」というのは、その起こっていることだ。

起こっていることが、クラック中毒者としての自分という見かけで現れることもある。幸せな家族に囲まれた億万長者としての自分というかたちで起こることもある。ただここで気づいてほしいのは、生についての思い込みが、生をありのままを見る目をどれだけ曇らせているかってことだ。今あるものが見えてないのだ。信じていることを見ているだけだ。引き寄せの法則はそういう思い込みを変えるやり方を教えてくれる (少なくとも多少は。思い込んでいるときは限界は必ずある)。でも思い込みを変えるだけで満足していていいんだろうか? 本当の豊かさ、本当の愛、本当の幸福はすでにここにある。それをほかの場所で探すのをやめたとき、それは明白になる。

引き寄せの法則について僕がつくった動画がある。この動画ではちょっと違った角度からこのテーマについて話しているけれど、突き詰めれば同じことを言っている。あるのはこれだけで、なにか他のものを探すのをやめたときにそれは明らかになるってことを。
http://youtu.be/Jeeihg6QM6E

== 訳は以上 ==

Kindle本の Manifestation Happens も、この記事と同じでいつものジョーイらしい切れ味がちょっと感じられない。歯切れが悪い。それで、ちょっと意外な印象を受けた。むしろジョーン・トリフソンの自由意志関係の記事のほうがクリアな気がする。

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ザ・シークレットの秘密 ジョーイ・ロット」への2件のフィードバック

  1. はじめまして。
    いつも面白いエントリーありがとうございます。
    陳さんのブログから来ました。
    本当に求める事自体が枠組みなんですよね‥湧いてくるものをただ受け止めると終わります。
    まあそれを理解した後にも何かを追っ掛けるのも楽しいものです。
    現在の自分の趣味で例えるなら懸賞応募で一番のファンレター出すのにワクワクする感じです。
    これからもよろしくお願いします。

  2. 五月雨祭さん、はじめまして。コメントありがとうございます。

    「湧いてくるもの」でオタオタするのも楽しいものです、と半分本気でそう思います。その動揺、困惑、後悔、嘆きが許されているということにものすごい喜びを感じることがあります。

    でも残りの半分は、この探求は終わるのかなあとチラチラと気にしていますが(笑)

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