非二元対話グループのはじめかた (2)

 
その1からの続き。

以前、ジェリーのこの考えかたに触れたときは、「わかっていない人が何百人集まったところで、優れた先生1人の存在にかなうわけない」と思って、多少バカにしていた。でも、先生vs生徒の分離の固定化という弊害 (どんなことにも害はありえないとしても、あえて) のことを考えると、対話グループという形態もひとつの選択肢としてありなのかなという気がしている。

== 以下、(1)からの続き ==

オープンアウェアネス瞑想グループのDavid ZinnとのQ&A

Q. グループをどう始めたか? なぜ? 誰が? どこでいつ?

僕らのグループはオープンアウェアネス瞑想グループという名前で、マサチューセッツ州ケンブリッジで集まっている。毎週月曜日の午後7:30からハーバード・スクエアのすぐ近くのCambridge Friends Meeting Houseで。とても素敵で居心地のいいニュートラルな空間で、瞑想クッションや瞑想ベンチがたくさんあって、部屋は大きくて天井が高い。一回に50ドルの使用料を払うから、寄付を集めないといけない。でもその価値は十分にある空間だ。

オープンアウェアネスグループは、90年代はじめにチベット仏教ゾクチェングループとして始まったものが元になっている。そのグループには指導役のラマがいて、組織があって、リトリートなどもしていた。当時の瞑想セッションはフォーマルなもので、最初と最後に詠唱があって、形式が決まっていた。僕は96年から4年ほど参加していた。

そのうち僕は瞑想に対する (それから生にも!) よりオープンなアプローチに関心をもちはじめて、ジャン・クライン等の先生たちの「特定の伝統の案内図を持たずに自分で探究をしよう」という言葉に刺激を受けた。

結局そのグループはいくつかの組織に分かれて、月曜の夜に会場を使えるようになったから、仏教サンガにいた友人たちの助けを借りて2009年にオープンアウェアネス瞑想グループをはじめた。

Q. 新しい人たちはどうやってグループのことを知るか? 集まる場所や時間はどうやって連絡しているか?

A. グループのウェブサイト http://openawarenesssangha.org/ をつくった。でもサイトはあまり役立っていない。

Meetupを使いはじめたのはすごく大きかった。非二元グループ (どんなグループでも) を始めたい人には強くすすめたい。Meetupでは、グループの紹介、ミーティングの案内、メンバーとの交流ができる。 料金はかかるが、グループ運営に必要なすべてがある。最初の半年はお試し料金で使えるはず。

毎週平均して20人くらいが参加している。ほぼ毎回、初めての人が来る。すごくいい刺激になっている。

Meetupをうまく活用するには、つくろうと思っているグループについてどう表現するかが大切だと思う。説明やミッションステートメントをはっきりと考える。そうして明確にすることで、グループの意図や方向を言葉で表せるようになる。時間をかけて書いてみるだけで、グループを始める本当の動機がはっきりと理解できる。これが、人々に参加してみようかという興味を持ってもらうことにつながっていく。

Q. グループを説明するために書いたものはあるか?

A. ある。ウェブサイトとMeetupのページに、こう書いている。

この瞑想ミートアップについて

45分ほど黙って座り、それから30分ほど話し合いをする。黙って座っているあいだには、瞑想の指示があったり、場合によっては何かが読まれたり、簡単な探究、問い、動きをしたりもする。座る姿勢はきつくはなく、瞑想クッションか瞑想ベンチに座る。厳格な修練ではない。動きたいときには動く! 開始時間に間に合わなそうでも、とにかく来るといい! まったく堅苦しいものではないし、開かれている。黙想的な実践に興味がある人は誰でも歓迎!

開かれた気づきの瞑想について

瞑想セッションの中心は、僕たちが開かれた気づきと呼んでいるものを静かに探究すること。閉じていて制限されていて弱くて分離しているという感覚については誰でも知っている。じゃあ、開放性、プレゼンス、分離のなさ、気楽さという自分本来の状態に戻ることを自分に許すというのはどんな感じだろう? それをミーティングで探究している。

このグループは10年以上続いていて、瞑想をリードしているメンバーたちは長年にわたってお互いを知っていて、一緒に座ってきた。彼らはいろいろな伝統を深く探究してきた。ゾクチェンやマハームドラーといったチベット仏教の修行、ヨガやアドヴァイタなどのインドの伝統、それから最近では非二元と呼ばれているもの (有名なところではフランシス・ルシール、ルパート・スパイラ、エックハルト・トール、アジャシャンティ) などだ。

こうした伝統のすべてが究極的にはひとつの真実を指し示していて、その真実とは根本にある気づきあるいはプレゼンスで、それはどんな伝統や修行や教えをも超えている。これが僕たちに共通のプレゼンス、僕たちそのものであるプレゼンスで、それは言葉を超えたものだ。これをミーティングでは探究している。

このグループの独特な点は、ガイド役の先生、ラマ、グルが決まっていないということだ。対等な関係で出会い、もっとも深い意味で自分そのものである開かれた気づきを探究するために、質問し、シェアをし、お互いを刺激している。瞑想初心者にも熟達者にもこのミーティングは最適なもので、あらゆる人を歓迎している。

***

この文章を見るとわかるように、非二元の側面も触れられているが、それはグループを定義するものにはなっていない。つまり、特定の視点からしか話をしないというわけではない。そのとき何を感じているとしても (開く、閉じる、分離、分離なし、空虚、充足など) 、どんな見解も妥当なものとして、それぞれの人の現在の状態を表したものとして尊重される。

瞑想することで喚起し探究しようしているある種の開放性や分離のなさを経験している人がいた場合は、対話をその方向に向けることもできるかもしれない。ポイントは、非二元の世界観という観念や理想から話すのではなく、自分の直接の経験から話すということだ。

Q. コアグループはあるか? グループの価値観を共有する2人以上の人はいるか?

A. 瞑想リーダーが4人いる。彼らは僕にとって一番の親友で、一緒にいられるのをありがたく思っている。自由と開かれた気づきという背景から生まれたこの友情には優しさがあって、時間と共にその感覚は強まっている。

というか、友情がこれらすべてにとっての鍵のように思える。友情を育んで味わうことで、目覚めていることができる。もっと深いところでは、参加しているすべての人たちの目を通してひとつの気づきが輝いているということを見る機会にもなりえる。

よく僕が言っているのだが、「友情とは、そこを通ることで自己がなくなる戸口だ」。

Q. グループの目的は?

A. 開かれた気づきの直接的経験を探究すること。瞑想と対話のなかで。

Q. 参加を検討している人をスクリーニングしているか?

A. まったくしない!

Q. モデレーターがいるか?役割は?現在の最大の課題は?過去の課題は?中心的価値は?

A. 瞑想リーダーと呼んでいる4人は、目覚めることに対してすごく真剣にコミットしている。彼らにとっては気づき、慈悲、分離のなさを探究するのは人生で最も重要なことで、こういうことをはじめようとしている人たちに役立つことを大いに分かちあえる。

とはいえ、4人はものごとをかなり違ったやりかたで見ることも多いし、さらに参加する他の人たちから優れた質問が出たりシェアがあったりすることで、非常に力強く豊かな環境が生まれる。最終決定をするような人はいなくて、誰もが誠実にハートから話そうと努めている。

瞑想リーダーは「教える」ためではなく「分かちあう」ためにいると言っていいが、対話の現場にいること、言葉にできないことを伝えようとすることには変容をもたらす大きな力がある。仏教やアドヴァイタや非二元のドグマに陥ることなく、存在と開かれた気づきのシンプルさに触れ、それをまったく自然に指し示すにはどうしたらいいか? それが、瞑想リーダーたちが探究しようとしていることだ。

僕は、サットサンと一般的に呼ばれるような形態、すべての答えを知っているとされている一人に対してすべての質問が向けられるという形態には深刻な限界があると感じるようになった。もちろん、高いスキルをもった先生と対話してワークをすることには大きな意味がある。僕もたくさんの先生から学んだし、ものすごく感謝している。でも、これまでに接したどんな先生や教えよりも、僕たちがもっとも耳を傾けたいのは自分自身の声だ。自分で見つけ出して、真実を語る声が自分自身の口から自分の言葉で出てくるのを聴く必要がある。ある意味ではそれが僕たちのグループがしようとしていることだ。

瞑想をしているときでも対話をしているときでも、かかわっている人にとってこうしたグループのいいところは、知っていたことに自分でも気づいていなかったようなことを自分が言うのを聞くという可能性があることだ。そしてそれを言った瞬間に、自分がそれを知っているということがわかる。つまり、本当の真実を自分が言うのを聴くということだ。この話すことと聴くことが、僕たちの共有しているプレゼンス、開かれた気づきの視点から起こり、それは言葉の制限を超えている。

オープンアウェアネス瞑想グループは、僕にとってますます美しいものになっている。誰かであることの重荷を下ろし、今ここに何があるのかを発見する場所だ。僕にとってはこうした人たち、古くからの友人とまったく初めて会う人たちの両方と共にいるという経験はかけがえのないものだ。これまで出会ったものの中で、このグループは一番助けになっているし、変容をもたらしている。

(訳注: シドニー非二元ミートアップのKim LaiとJerryのやりとりは冗長なため省略)

ニューハンプシャーのイートン・サットサンのDick Stewart

Q. グループをどう始めたか? なぜ? 誰が? どこでいつ?

A. 私はパメラ・ウィルソンのサットサンとリトリートに数えきれないほど参加したが、毎週集まってみたらどうかと2007年にパメラからすすめられた。毎週日曜に集まっている地元の禅のグループを支えることにはなっても、妨げにはならないだろうと。最初は気がすすまなかったが、とても大切で深く尊敬している先生のたびかさなるリクエストを断ることはできなかった。そうやって毎週水曜晩のサットサンがニューハンプシャーの田舎の小さな町で始まった。

Q. グループを紹介するために書いたものはあるか?

A. www.eatonsatsang.com に、案内的な情報とグループの特徴についての説明がある。

Q. ミーティングはどう進めているか。

A. 開始前にお茶とおしゃべりのために集まる人もいるが、7時には座って瞑想をはじめる。沈黙しているときも、録音を聞きながらするときもある。20〜30分。瞑想のあと、テーマが紹介される。本、短いオーディオか動画、あるいは口頭で。そのあとテーマにそった対話になるか、テーマに関係ない話になる。フォーマットはきちんとは決まっておらず、誰でも参加できる。ひとつのルールは、8時半に終えるということ。月に1回は早めに集まって軽い食事を一緒にする。それはスープ&サットサンと呼んでいる。

Q. コアグループはあるか? グループの価値観を共有する2人以上の人はいるか?

A. 私と妻のキャシーは70年代からずっとスピリチュアルなグループに参加してきて経験豊富で、私たち2人はたいてい参加している。それ以外に毎回くる人たち、たいてい来る人たちが何人かいて、背景はいろいろだが価値観を共有している。

Q. グループの目的は?

A. その質問への答えは完璧からはほど遠い。当初は、スピリチュアルな旅をしている人に多様なもの、続くものを定期的に提供することがグループの目的だと思っていた。私自身にとっては、こういうグループをファシリテートするのはすごく価値があるということはまったく明白になった。時間とともに、スピリチュアル・コミュニティの感覚を提供するようにもなった。そういう感覚を求めていた人たちもいる。

Q. 新しい人たちはどうやってグループのことを知るのか?

A. ほとんどが口コミ。それと地元の新聞のイベント欄で定期的に紹介される。

Q. 集まる時間や場所をどう連絡しているか?

A. ウェブサイトに書いてある。それとメーリングリストに毎週通知を送る。

Q. 参加を検討している人のスクリーニングはしているか?

A. していない。誰でも歓迎。

Q. モデレーターはいるか? 役割は?

A. 私の自宅に集まって私がファシリテートしているせいで、オーガナイザーにはなっているが、自分をモデレーターとか先生だとは思っていない。

Q. 沈黙や瞑想の時間をとっているか?

A. 必ず瞑想で始めている。対話の最中にも、わざとではないが沈黙が長いあいだ続いたりすることもある。

Q. 規則は?

A. 決まったものはない。ただ、お互いを尊重することは大切だ。

Q. ミッションステートメントは?

A. ない。ミッションを定められるほど自分は知っているのだ、というふりをすることになる。

Q. 集まりのもっとも重要な側面は?

A. 存在と気づきという要素。それがあることで、参加者が価値を見いだすような経験の瞬間が頻繁に起こる。

Q. 話がテーマを外れたらどうするか? 観念的になったりした場合は? 焦点をどう保つか? 焦点とは?

A. ファシリテーターとしては、そういう場合には今の瞬間に戻ることを意図して、話を止めることを提案する。それは役に立つと思う。

Q. 現在の最大の課題は? 過去の課題は?

A. 自分でグループをオーガナイズしなければいけなくなったときに、自分のエゴが関わってきたり、無力さの感覚が出てきたりした。それを克服するのが最初の課題だった。そういう習慣的な傾向を克服するために自己探究を続けなければいけなかった。

自宅は人口400人のとても小さな町にあって、近くにある唯一の大きな町の人口も12,000人しかいないから、参加者を集めるのは簡単でない。それに冬の気候が厳しくて外に出るのがおっくうになる。私たち夫婦以外に誰も来ないこともあった。

Q. グループはどう変化してきたか? 非二元が知られるようになり、表現者も増えるなかで、対話の質は変わってきているか?

A. はじめはグループは3、4人だったが、今では冬は6〜8人、夏は8〜12人が参加している。非二元についての知的な理解は間違いなく以前よりも深まっているが、それを経験的な知の領域にもってくるのを難しく感じる人はいる。いろいろな参加者がそれぞれの理解を持ち寄ってくるのは素晴らしい。以前よりも多様な視点がある。

コスタリカの心理・スピリチュアル研究グループのGonzalo Fernandez

グループはジェリーとのインタビューの結果としてはじまった。インタビューで話したように、私は最初は非二元の先生たちをコスタリカに呼ぶということをしていたが、似たような概念をずっと聞いていて飽きてしまった。ジェリーのグループのことを聞いたときに、コスタリカでもできるのではないかと思った。人々はある程度成熟していて、自分たちの日常生活で非二元の視点から生きるとはどういうことかを調べることも、それを経験することもできるのではないかと。

それから数人の友人と話して、最初のミーティングをすることにした。近くにいい場所を見つけて、そこは無料だったから、寄付を求める必要もなかった。つまり、インタビューのあとでグループをはじめたことになる。

グループの参加者の大半は50代後半かそれ以上。ほとんどの人が過去にいろいろなスピリチュアルな実践をしていて、最近は非二元に関心をもつようになっている。さまざまな先生たちのサットサンやリトリートにも参加している人たちだ。参加者に誘われてやって来る人もいて、そういう人は非二元については知らないが、スピリチュアルなことには関心がある。

(中略)

グループにはまったく決まった進め方はなく、最初にしばらく沈黙し、それから話したい人が話し始める。新しい参加者がいるときは自己紹介をしてもらい、それからグループの目的を説明する。

ミーティングで毎回何が起こるかはまったくわからない。何が起こってもOK。プレゼンスが今起こっていることに気づいているんだと思いだしている。決まったリーダーはおらず、リーダー役は誰がやってもいい。ミーティングは2時間ほど。終わったら帰る。

コアグループは6人か7人ほど。この探究に関心がある人を口コミで誘っている。

15日ごとに集まっていて、メンバーはそのことを了解しているが、新しく来る人にはそう伝えていて、2日前にはつぎのミーティングの場所と時間について連絡している。

いろいろな人に来てもらいたいから、参加者はいつも可能性がある人たちをスクリーニングしている。

モデレーターはこれまではいない。あるときにそういう役割を果たす人がいたりもするが、それはそのときだけ。

(中略)

話が観念的になったり、個人的、心理的な方向に傾いたりすることもあるが、そういうときは何が起こっているかがわかる人がそれを指摘して、今あるということに戻す。参加者あるいは少なくともコアグループの人は、ほかの人たちをテーマに戻せるだけの力はある。もし観念的、心理的な話になってしまっても、今起こっていることに気づいているプレゼンスに焦点を合わせ続ければ、それがプレゼンスに戻る助けになる。

このグループは昨年の終わりにはじまったばかりだから、まだ新しい。現在の課題は、ミーティングに来る新しい人たちに、グループの目的を正しく理解してもらうこと。来てもらう前に、グループの目指すところを説明するのは非常に大切。今後グループが発展していけば、新たな課題は当然出てくるだろう。

グループのメンバーにはいろいろな人がいるが、それはグループを継続し成長させる上での障害にはなっていない。性格的に自己主張が激しい人もいるし、違うやり方を好む人たちもいるが、ミーティングの質を向上させるためにメンバーの常識にもとづいて進め方を決めている。コアグループのメンバーは長年お互いを知っているから、基本的な価値は共有している。

(訳注: インタビュー等から抜粋されたガイドライン集は重複のため省略)

ジェリ・カッツによるガイドライン

気づきそのものへの集中 (あるいは非二元的なとらえ方を表す別の表現でもいいが) を保ち続けられる人がグループ内に最低一人はいる必要がある。

ここでみずからに問えるのは、グループが人々を助けるためのものなのかどうかということ。「助ける」という言葉を聞くと、心理的な問題をごっそりと持ち込んでくる人たちが現れる。

僕の見方では、大切なのは助けることではなく、正直に話すということ、もしくは自分の知と無知を正直に認めることだ。

基本になるのはあるということそれ自体で、開かれた環境を維持しながら、数分続くような静寂の時間を持つこと。どうしたら静かになれるかという指示なしで。

話が観念的になったときにそのことに気づくこと。そしてそうなっているということを伝える。そうしてから、ひとりひとりが感じることをシェアする。いかに観念に入り込んでいるかを見るための時間をとる。そうすることでミーティングは何が本当かという方向に向かっていける。場合によっては数分黙って座るのが適切かもしれない。グループで何が起こっているかに気づいている必要がある。

どんな場所で集まるかということは、メンバーの意図や焦点と比べれば重要ではないが、最善の場所を見つける努力は当然すべきだ。試してみるのを恐れずに、あまり忙しくない時間帯にレストランや食堂に集まってみてもいい。

僕らのグループの構成的な要素を紹介する。

・全員を暖かく迎えながら、グループの目的、こうしたグループにおけるリーダーシップの性質、ミーティングの形式について説明する。そのときに空間をどう保つか、どういう印象を与えるかが、ほかの人たちが空間をどう共有し、どういう印象を与えるかを決める。

・数分間黙って座る。こうして静かに座るのは瞑想なのかとか、特定の技法はあるのか等の質問をする人もいるかもしれない。

・非二元について説明する。説明が不可能なものだということを伝えながら。

・順番にひとりひとり名前を言って、どうして来たかを言う。1分以上話す人たちがいると、この部分がミーティングの大きな部分を占めることになる。

・休憩時間にはお茶やクッキーを食べる。砂糖、甘味料、牛乳、プラスチックのスプーン、ナプキンを用意するかどうかは自由だが、そういうものがあるのは親切だ。

・休憩の前、休憩の後、ミーティング終了時に、沈黙の時間を数分とる。

== 訳は以上 ==

全体的に、沈黙の時間、瞑想の時間が重視されすぎているのでは?という印象はある。ただ、長いあいだの実践から導き出されたフォーマットなのだから、意味はあるんだろう。

このガイドに登場するようなグループがもし近所にあったとしたら、自分は参加するだろうか?とちょっと考えてみたが、はじめに30分瞑想とかそういう感じだったら、たぶん行かない気がする。

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非二元対話グループのはじめかた (2)」への2件のフィードバック

  1. 読んでいて、んっ?瞑想ってけっこうオープンに重要な地位を占めてるんじゃん?と思っていたら、

    〉このガイドに登場するようなグループがもし近所にあったとしたら、自分は参加するだろうか?とちょっと考えてみたが、はじめに30分瞑想とかそういう感じだったら、たぶん行かない気がする。

    さすがヒロさんっ
    と膝をうってしまいました(笑)

    たぶん、ヒロさんから僕YMは何か鬱陶しいやつがブログに紛れ混んできたなあって感じと思うのですが(これも思考妄想だけどたぶんあたってる?)、
    僕は今回の記事とコメントで、
    ヒロさんのことが俄然好きになりました。

    応援していますっ!

  2. グループの中にきちんと探求を終えられた方がいればよいですね。
    わかったつもりの人だけだと逆に混乱していくと思います。

    ニサルガダッタが真我を実現していない人が説法するのを非常に強く戒めたように、中途半端ものだけがグループをつくって自己満足の会をやるのは危険な気がします。

    例えば高校生たちが自分達で野球のグループを作ってそこで本でも見ながら教えあっても、まず、プロで通用するような選出は生まれないでしょう。きちんとした指導者がいてはじめて一流の選出が育っていきます。何を学ぶにしてもそうではないでしょうか。

    ガイドとグループメンバーという関係は教師と生徒という関係よりは一層親密になりやすく、良い面も多々あると思います。

    ただ、外面的な関係がどうであれ、相手を投影するのは投影する人自身です。ですから崇拝したい対象を求めている人はガイドであろうとただの友人であろうと崇拝しはじめるでしょう。一番重要なことは環境ではなく、ミーティングであれサットサンであれ、それに参加する人自身が何を求めているか、そしてそこで伝えられる内容ではないでしょうか。

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