好き嫌い ジョーイ・ロット

 
ジョーイ・ロットのブログの文章をひとつ訳してみた。わりと最近出た Don’t Change A Thing という本からの抜粋で、好き嫌いに関するもの。

我ながら好き嫌いが多いと思う。好き嫌いの多さに対する好き嫌いもある。だから、真剣に読んだ。

原文: Preferences (Excerpt from Don’t Change A Thing)

== 以下、訳 ==

好き嫌い

Don’t Change A Thing からもうひとつ引用して紹介したい。この本はあと数日か遅くても一週間以内には発売される予定だ。(訳注: すでに発売済み)

「選り好みをしない者にとって大道は難しいものではない」 これは禅の三祖が言ったとされている言葉の翻訳だ。

「最高の徳とは好みをもたずに見ることである」 これは道徳経の一節の翻訳だ。

好き嫌いはだめだと霊性の重鎮が言っているのだから、好き嫌いはすべて放棄して避けなきゃいけないんだと、ほとんどの人たちが (誤って) 思い込んでしまうのも無理はない。あらゆる好き嫌いをしりぞけたとき悟ったことになると僕たちは (誤って) 思い込んでいる。

言うまでもないが、好き嫌いをしりぞけるということの大きな落とし穴のひとつが、それが論理的に不可能だってことだ。ストーリーの中であっても。というのも、好き嫌いを取り除きたいと願っているとしたら、それ自体が好き嫌いだからだ。つまり、すべての好き嫌いを完全に避けるのは絶対に無理だ。

それに、好き嫌いは自然に起こること、非個人的な現れであって、自分で選ぶことじゃない。好き嫌いを否定することならできる。でも好き嫌いを完全に排除するのは無理だ。そんなことは、顔をパンチされるのとアイスクリームを食べるのと、どっちがいいかっていう好き嫌いを取り除こうとしてみればわかる。拡がった感覚と、剣で突き刺されるのと、どっちかを好むのを止められるだろうか。そんなのは無理だろう。まあ、そういうこともあるかもしれない。でもそれは脳が損傷を受けたときとか、そういう場合だろう。すすめられる話じゃない。

繰り返すが、好き嫌いは完全に非個人的な現れだ。意味はない。どんな現象でもそうだが、好き嫌いも、自分という無境界性の中で瞬間的に現れては消えていく。

究極的には、好き嫌いというのはじつはありえないことだ。それというのも、いわゆる好き嫌いを自分のものにできるような分離した人間は存在していないからだ。それに、いわゆるひとつのものと、いわゆる別のものを区別できる可能性もない。現れているものがただあって、それは分けることができないし、それ以外のものは何もない。比較できるものなど何もない。あるのはこれだけだ。つまり、比較など絶対にできない以上、好き嫌いなんてことがありえるだろうか?

「選り好みをしない者にとって大道は難しいものではない」 というような言葉は、すでに今あるもの、つまり自分であるものをじつは直接指し示していると僕は信じている。こういう言葉は好き嫌いをしりぞけなさいという命令じゃない。これは、自分がすでにそうであるとおりに自分自身を発見しようという呼びかけで、すでにあるとおりの自分というのは生じるすべてのものを完全に含んでいて、そうしたすべてを区別なく迎え入れている。自分であるそれは、好き嫌いすら歓迎する。

好き嫌いを捨て去るのは無理だ。というか、好き嫌いをしりぞけようとすればするほど、好き嫌いできる分離した誰かが存在しているという幻影の感覚が強化されるだけだ。

そして、しりぞけようとするのをただやめたとき、ずっと追いかけていたものはすでにあったということに気づくかもしれない。徹底的な歓迎はすでに起こっている。そして自分とはその歓迎なのだ。

== 訳は以上 ==

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好き嫌い ジョーイ・ロット」への1件のフィードバック

  1. 母には感謝しているのですが母の言動がどうしても好きになれず、そのように感じる自分を子供の頃からずっと否定していました。

    なので何度も読み返しました。

    しりぞけるのをただやめてみます。
    徹底的ではないかもしれないけど歓迎されると温かさだけがあるようです。

    あっ〜子供の道徳の時間が気になります…(笑)

    ジョーイ ロットの記事を全部読み直しました。
    ヒロさん 翻訳してくださってほんとうにありがとうございます。
     

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