キリストと非二元

 
このブログを知ったばかりだという人から、数日前にメールをもらった。そこには質問が書かれていて、こんな感じの内容だった。

「ここで紹介されている方々は、キリスト教をどのように位置づけているのでしょうか。キリストを認めている方はいるのでしょうか。あるいはその影響を受けている方、延長線上にいる方はいるのでしょうか」

読んだとき、自分の中ではすっかり片付いていると思っていたことが、じつは片付いていないという感覚がやってきて、しばし呆然としてしまった。

「片付いていると思っていた」というのは、イエス・キリストという人がいたというのは今この瞬間に生じている思考にすぎない (恐竜も平安時代も第二次大戦も) ということで自分は納得していると感じていたからだ。

だから、思考として生じるいろいろなことに関する議論はいつでも現れるけれども、そこには実体はないし、それが重要だという思考が現れなければそこには意味もないはずだ、と。

実際、僕がこれまで話を聞いたことがある「先生」たちは、宗教や信仰というものを誤解・迷妄の筆頭格として扱うことが多い。トニーなどは、キリスト教のドグマや、教会に対する盲従をいつでもコケにし、きわどいジョークの対象にしている。そこまできつくなくても、神云々という質問が出れば、「信仰という思考・信念との同一化は起こることもありますが、起こらないこともあり、それ自体には意味はありませんし、良いことでも悪いことでもありません」などと返される。

その線で自分も納得しているから、キリスト教と非二元というのは、焼き鳥と非二元、編み物と非二元というのとそれほど変わらず、その整合性を気にすること自体がちょっと意味不明くらいに思っていた。非二元だと信仰は捨てなければいけないんだろうかという問いは、非二元だから焼き芋をあきらめなくてはならないのかというくらい無意味じゃないかと。

でも、自分でもなぜかはわからないが、最初に書いた質問を読んだとき、呆然としてしまったのだった。

我に返ってから、フランシス・ベネットという元修道士の人、それからロバート・ウルフという非二元の先生が、それぞれキリストの教えと非二元の関わりに関する本を書いています、というような返事を書いた。

でも、これはキリスト教世界では巨大なテーマだ。マイスター・エックハルトの言葉やトマスの福音書に非二元の核心的メッセージを見いだすというようなことを熱心にしている人たちはけっこういる。

自分自身にそういう問題意識がないから、その点を調べてみたいとは今はあまり感じない。もしかしたらそれについて調べるということが起こるかもしれない。片付いていないことはいつかは出てくるというような予感もある。それに、「片付く」ということ自体が、迷妄の最たるものなのかもしれない。

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キリストと非二元」への10件のフィードバック

  1. 初めまして

    このキリスト教の質問の方のようにメールで質問をするという手法も考えたのですが、方法がわからなかったので、とりあえずコメント欄で質問させてくださいね。

    私は10何年来の強迫神経症の辛さを治すために、森田療法やヴィパッサナー瞑想などを辿り、現在、33才ですが、「治ってないけど治ってる」状態のものです。

    以前も現在も、かわらず「不安、悲しみ、依存したい心、喜び、慢心、etc etc 」が去来しますが、(これらが一切去来しない状態というのは、いわゆる一般的なイメージ上の悟った素晴らしい覚者像や、仏陀や阿羅漢の完全な人格者像でしょうか。私が今後一生でそうなることは、絶対ないとはいえませんが、まああまり関心のないことです)、

    強迫神経症時代は、「あぁ!俺がまさにいま不安だっ!」「助けてくれっ!俺が辛いっ!」とその生じた心や思考そのものとなって地獄の苦しみでしたが、
    現在は、「ああ、不安がいるなぁ」「悲しみの心だなぁ、うん、いいよ、」といった具合に、比喩としては空を流れる雲を眺めるように、生じる心や思考を眺めてあげる状態です(治ってないけど治ってると自分で表現しています)
    これは森田療法や、ヴィパッサナー瞑想で得られた効用で(多くの人にも現れる効能とも言いますし)、少なくとも私にとっては人生がアホほど楽になりました。
    またこれは一過性の気の昂りや思考による考え方ではなく、なんというか表現し辛いのですが、それこそ、いまここ、というのも臭い感じの、この、この、感じであり、この感じが失われることは生涯ないだろうという思いがあります。

    そこで、お尋ねなのですが、最近書店で「わかっちゃった人たち」という面白いタイトルの本を表紙買いし、非二元論の世界を知ったのですが、(とても面白く読みました)
    この本に出てくる方たちや、その他たくさんおられる西洋の新しい覚者たちは、なんというか、私と同じことを言っているだけに感じます(私が悟ったとかの話ではありませんよー!)。

    仏教の伝統では、預流・一来・不還・阿羅漢と悟りの階梯があり、まあ私も日々仏道を実践しているわけですが、私のいまの状態を悟りとかいうのはちゃんちゃらおかしい野狐禅も野狐禅なのですが、
    西洋の覚者の方たちは、どうも悟りの見切り発車なのではないかととても思うのです。

    2000数百年来の深い瞑想実践の伝統に裏打ちされたアビダンマや各種仏教経典には、この、いまここ というか このこれ というか、まあこのこれ(おんなじことばっかり言ってますね笑)とかワンネスとか言い方はなんでもいいですが、それの先の先の世界が包み隠さず提示されており、みなそれぞれの立ち位置に応じて修業するのですね。ですが、
    西洋の覚者たちは、それを知らないので、単に悟りの入り口やいいとこ三合目らへんで、全部わかった気になって、しかもこれはたいしたことではないとかいっちゃってるように感じます。

    「仏教の立場から上から目線で文句いう」という気ではないのですが、なんか私がアメリカ人だったら、もういちグル?として本でも買いて講演できちゃってるんじゃないのという気がします。

    非二元論の界隈の方たちは、そこのところどうお考えなのでしょうか?
    (「そういってくる人もワンネスだから本当はいないし世界はないからいいのです」みたいな感じなんでしょうか。)

    長くなりました。
    どうぞよろしくお願いします。

  2. YMさん、こんにちは。

    他の人がどう考えているかは僕にはちょっとわかりません。いろいろな解釈が可能だと思いますが、たぶん、探求が終わってすっきりしてそれ以上何かを追求する気持ちが起こらないということではないでしょうか。AKB48の曲を聴いて「いい音楽だなあ」と満足している人に「そんなのは本当の音楽じゃない」と言って、「本当の音楽とか全然興味ないし。っていうか、あんた誰?」と言われるような感じかもしれません。

    長い質問に短いコメントですみませんが。

  3. はははっ笑
    なるほど〜。うーん。

    ただ、西洋の覚者の方たちがそれで満足していることは全然いいのです(もちろんAKBが例えなのはわかります)、
    ですが、また例えでいうと、日常生活を四則演算で十分生活できるのはその通りなのですが、アインシュタインとかノイマンとかその他無数の先人たちの数学や物理の偉大な積み重ねを知ったうえで、「いや俺はこれで十分なんだ」というのと、知らないで「四則演算があらゆる計算の一であり全。それがわかったんだ。そしてそれはすでにあなたの中にあるんだ」とかいうのでは違うと思ったのですね。

    もちろん、数学の全てを知り尽くすまで満足できず地獄の苦しみで血眼になって数学を学ぶ、家計簿をつけたいだけの主婦が、「あっ、私の生き方四則演算で十分だわ」と気づき、ストンと生き方が楽になるのは、それはとても素晴らしいとおもいます。

    ただ、その主婦が「四則演算なの、わかったわ」っていってるのが、西洋の覚者の発言ぽいなあと、思った次第でした。

    議論とか論破(酷い言葉)とかが動機ではないので、ただ疑問を書かせていただきました。お答えありがとうございました。

    これからも、サイトや翻訳など、拝見させていただきます。

  4. YMさん、「うーん。」と言われる感じは少しだけわかります。たぶん、彼らが悟りとか覚醒とか解放という言葉を不用意に使うのが問題なんだろうと思います。(実際にはみずから使っている人はそれほどいないと思いますが、そういう文脈で紹介されることも多いので)

    ちなみに、「偉大な積み重ね」を学んできた人たちも中にはいるようです。その上でそういうことは全然関係ないんだという表現が出てくる場合もあるし、伝統的な教義との一致に面白みを感じる場合もあるんだろうと思います。個人的にはどれが本物というよりも、喉につっかえた骨を取りたいという興味しかなく、そのあたりに関心を持っていないので、まともなコメントができずに申し訳ないところです。

  5. 真摯な、等身大なお答えだなあ、ととても嬉しくありがたく思いました。

    まあきっと特に謙遜の美徳とかのないヨーロッパ人の言うことだから、知った風なこといってる偽物?野狐禅?もいっぱいいるんだと思うのは思うんですが、みんな苦しんで苦しんでやっとその人なりの落とし所で苦しみの矢が抜けた方たちなんだと思います。

    またこれからもコメントすることもあると思います、応援しております。
    ありがとうございました。

  6. ここでヒロさんが翻訳されてること、表現は、仏教で言われている悟りとか、これまでとはちがった境地に行き着くような地平の話とは違うと思うんですよね。
    違ってたら申し訳ないですが、仏教の根本は苦から解放されることだと思いますが、そういう地平のことではないですね。
    でも、書籍の限定的なカテゴリー分けや、世間一般の通説的なカテゴリーでくくられるので、そういう見地から理解の対象となって、いや違うとか、それは悟りではないとか、そのような比較の議論に陥り易いのかなと感じますね。

    僕は写真をやってますが、写真をやっていなかった頃に比べて、経験による技術的な知識が増えて、これはいい、よくないというような物差しが増えてきます。これは自分がとりたい写真のためには必要なもので、経験の積み重ねと思考錯誤は、とりたい写真を露にしていくための掘削作業のようなものですね。
    何か到達したいという欲求がある場合は、それが本物であれば必然的に起こるプロセスかなと感じます。
    でも写真撮影に興味がない人にとっては、この僕に起きている掘削プロセスは、何ら関係ない(笑)

    進もうとしている先と進みかたは人によって千差万別であって、くらべようにも比べられないのが実際かなーと感じますね。

  7. 自分もYMさんに同意です。
    悟ってから後に問題になるのはどれだけ悟っていられるかということで、ここでお話をされている先生達は内心自分の話にうんざりしているだろうけれども、周りの人がくだらない話を聞きたがるので仕方なく話しているんだと思います。
    悟りを知らない過去からすれば今はどうやっても表現できず、常におもしろおかしい感じでしょうけれど・・・。

  8. 青雀さん、こんにちは。コメントありがとうございます。

    違う地平というものがあるのかどうか、僕にはよくわからないのですが、掘削プロセス(しかもややこしいもの)が起こるということは当然あると思います。ですが、そこで「この掘削には他よりも価値があるから教えなきゃ!」という発想が出やすいという側面が、ある種の宗教にはある気がして、それが個人的には好きではありません。

    このブログはそれほど多くの人が見に来られるわけではないですが、それでも、「〜県の〜師に会ったほうがいいですよ」とか「〜さんの方法なら悟れますよ」とか「〜瞑想がいいですから、やってみたらいいですよ」といったメールがけっこう来ます。勝手にやってろと思いつつ、変なエネルギーを送られても困るので、気が弱い僕は「今は結構です」とか返事するのですが。

    「必然的に起こるプロセス」というところ、そこに対する信頼が大切なところじゃないかと感じます。

  9. ヒロさん、いろいろとお疲れ様です。
    ヒロさんの新しい記事を読んで、たぶんいろんなメールが来て大変なんだろうなぁと想像していたところだったので、やっぱりそうだったのですね、という(笑
    全部全部に返信すると疲れるでしょうから、ほどほどでいいと思いますよー。

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