遠くに探す病

 
秋になったら、トニー・パーソンズのミーティングに出るために久しぶりにヨーロッパに行こうと思っていた。でも、キャンセルした。

最近収録されたトニーのウィーンでのインタビューというのを見ていて、「こういう話を聞きに遠くに行くのはちょっとつらいな」と感じたのが大きい。

そもそも、いま目の前にあるもの (目の前にしかありようがないもの) の話を聞くのに外国まで行くというような行為は、面白くない冗談としてしか成立しないんじゃないかという気もする。もちろん、そういうことを夢中でしていたときは、それ以外にどうしようもないという勢いがあった。でも今の気分としては、そんなことのために外国どころか東京にも行きたくない、そんなヒマがあったら堤防に行くよ、という感じが強い。

とはいえ、「遠くに探す病」は再発することがあってもおかしくはないとは思う。結局のところ、ジョーン・トリフソンがいつも言うように、その辺は無数のいろいろな条件によって起こっている (ように見える) だけで、ストーリーに入ったり出たりというのは潮の満ち引きのようなものなんだろうと思う。(潮見表というかグラフを見ていると、摩訶不思議な動きになっていてかなり面白い。関係ないけど)

そんなわけで、いわゆる非二元の本なんかを訳したりするのにも結構な気合いと努力が必要になっていたりするが (ジョーイ・ロットは今のところは別) 、乗りかかった船というか、後始末というか、しばらくは続けることになるんだろうか。

ちなみに、これがトニーのインタビュー動画。

“This is compassion” – Tony Parsons in Vienna 2014 interviewed by Teresa Arrieta

追記: この記事には海外からの迷惑コメントが多いので、一時的にコメント不可にしています。

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遠くに探す病」への9件のフィードバック

  1. 増えてきた翻訳本楽しみです。今まで紹介されてきた非二元の人々、伝統的な修行がほとんどなく覚醒し、することはなにもないと主張してきている人々のものを読んで疑問に思うのは、果たしてこれらの人々の表現しているものと、伝統的なヒンズー導師やクリシュナムルティ、ラマナ・マハルシ系統の人々、チベットのリンポチェ達の言うものと同じなのだろうか、という事です。あのとてつもない慈悲の師達と同じものを見ているのだろうか。あんなにも修行した人々との違いはないのだろうか。この現象世界おける、役割の違いなのでしょうか。それとも、境地の差?階梯が存在するのでしょうか。

  2. ノガレスのバス停さん、こんにちは。

    当然の疑問だと思いますが、僕には全然わかりません。「とてつもない慈悲」を素晴らしく感じるのであれば、非二元とか何だとか言っている人たちのことは気にせずに、ストレートにそちらを追求すればいいのかなという気はします。

  3. はじめまして。
    ブログ主様の訳した本を気づいていないうちに二冊購入していました(わかっちゃった人たち、クオンタムリビング)。とても素晴らしい翻訳だと思います、どうもありがとうございます。

    僕はボディワークでよく「プレゼンスを意図してください」と言われて、上手くいった時は姿勢も何もかも一瞬で変わるので、「これは一体なんだろう」と興味を持ってこの世界を知りました。

    現在その名も「プレゼンス」というスパイラさんの本に取り組んでいて、ヒロさんのスパイラさんの記事を楽しく読ませて頂いてます。英語が苦手なのでこうやって翻訳していただけると凄く助かります。

    そこで、ちょっと疑問に思ったのですが日本人でノン・デュアリティ―の教師の方は存在しないのでしょうか?

  4. らいらいさん、はじめまして。

    あらためて「ノン・デュアリティ―の教師」と聞かれると、あれ?という感じになりますね。何かの冗談か?という気さえします。先生って、本当になんでしょうね。とりあえず、聞かれなかったということにさせてください(笑)

  5. 「とりあえず、聞かれなかったということにさせてください(笑)」

    いいですね~!
    思わず笑っちゃいました。

  6. 了解しました、聞かなかったことにしますw
    ルパートさんの本を読んで思ったのですが、ダイレクトパスといっても覚醒への道はプログレッシブ(漸進的)になることがほとんどなんですね~、当たり前かもしれませんが。

  7. らいらいさん、こんにちは。

    たしかに、ルパートやフランシスの場合は「一度わかっておしまい」という態度に対して、その先があるということを強調する面はありますね。これは、ネオ・アドヴァイタ的な「何もする必要はない。できることはない。ということか、する個人がそもそも存在していない」という表現に対して、プロセスを否定することが逆に苦しみを増やすことがあるというありがちな状況を踏まえた、ひとつの現実的な表現なのかなという気がします。逆に、ルパートのミーティングで「何百回も転生してカルマを解消しないかぎり、ダイレクトパス的な認識を得たとしても解脱などできないはずだ」と主張する人がいれば、「認識は即時に起こるもので、それは永遠の今でしか起こりません」と反対の側面を強調する答えが出てきます。

    アートマナンダのダイレクトパス自体にもそういう側面はある気がします。つまりインドでは極端な場合、最高位カーストのバラモンでなければ目覚めとか解脱といったことを語ること自体が笑止千万、バラモンとして転生するためにせいぜい今生で与えられた仕事に取り組めよ、この下層民!という感じの言い方もありえます。そういう極端な誤解に対し、じつは今すでに誰にでも認識できることなんだという側面を強調して「ダイレクト」と言っている面もあります。ですので、何が何でもダイレクト、一切の過程を否定するという意味ではないはずです。

    でも、ここでらいらいさんの「教師」についての元の質問に戻るのですが、ダイレクトにしてもプログレッシブにしても、わかったときにはその区別はなくなり (今起こったり起こらなかったりする思考と同一化しているときにしかそういう区別はありえません) 、それは、「教師」という存在が一種の方便あるいは冗談でしかありえないことがわかるというのと似ている気がします。ただ、この冗談というのは、たちの悪さもありますが、同時にそこまで真剣にひっかけてくれてたんだという愛を感じるものでもある気がします。

    日本の「教師」は誰?と聞かれたときには思わず「え?」となってしまったのですが、その「え?」を説明すればそんな感じになります。その意味では、特に探さなくても出会う先生たちすべてが必ず最適な先生なんじゃないかとは思います。(と、ありがちなまとめ方で申し訳ないですが)

  8. こんばんは。遅ればせながら、わかっちゃった人たち拝読させていただきました。

    いろいろな面で面白いなーと感じました。
    七人の体験談の中では最初の方の文がよかったです。本当に終わったんだなーという印象を受けました。後の方々はどこか自分で自分を無理矢理納得させているような気配を感じました。「こうだ」ということを聞いて知って そこから眺めている、禅でいう無事禅のような。

    後は探求が終るに至るまでのプロセス。「できることは何もない」とかいうようなことがいわれますが、明かに皆似たような経過を経てるように感じます。もちろん例外はあるでしょうが、熱烈に求めることと、探求を終えた人に直接会うこと、この2つはキーポイントな気がします。私は坐禅をしていますが、「そもそも熱烈に求めることを選択できる人はいない、とか教師と生徒という構造は分離を生み出す」とかいうことを聞いて観念化して、もてもてあそびながらがらグダグダやっているような人で探求を終えた人を見たことがありません。笑
    周りにいる終えた人は皆強烈に道を求めて真剣に取り組んだ方ばかりです。そういうことからも矛盾するようですが、やれることはあるなーと思いました。

  9. ひろさん、ご丁寧なご返信有難うございました!

    僕自身は2人、日本人でノンデュアリティ方面ではないのですが、それぞれ古武道と禅を弊習してる方と、ボディワークをされている方で道に達してる方を知っています。
    ふたりともすごく「身体」「身体感覚」というのを重視されていたのが印象的です。
    その点はスパイラさんのワークや考え方とも共通点があるなあと感じます。
    前者の方は身体から意識を抜く・身体を消すということをよく言われていました。
    見性が起こったからといって、身体は消えないとも。

    これからも自分が「これだ」と感じるものを素直に取り組んでいこうと思います。
    どうもありがとうございました。

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