誰かを変えたいとき ジョーイ・ロット

 
しつこくジョーイ・ロット。最近メールのやりとりをしたとき、彼の何冊かの本の感想を訊かれた。わりと正直に答えたつもりだったのに、「思ったまま書いてもらってOKだって知ってるよね」と言われ、もう少し正直に書きなおした。

そうしたら「こっちの本なら気に入るはず」ということで、まだ出ていない本の原稿を送ってくれた。それがあまり自分好みではなかったから、どう好みじゃないかをそのまま書いた。そうしたら、5日経っても返事がない (今まではすぐ来ていた) 。

以前の記事か本のどこかに「Amazonでひどいレビューを書かれたことがあって、へこんだ」とジョーイが書いていたのを思い出した。

そんなわけで、なんでもすぐに投影しがちなマインドを冷却してもらって、少しホッとしている。(こういうことでもないと、「完璧」な人格をついつい期待してしまう)

ここに訳したのは今の時点でもっとも新しい記事。

原文: The Eye of The Beholding (joeylott.com)

== 以下、訳 ==

見守る者のまなざし

送られてくるメールの中に、こんなテーマのものがたまにある。世界に変化をもたらすためにはどうしたらいいか、特に身近な人たちの人生を変えるにはどうすればいいか、という内容。誰かが苦しんでいることに気づいて、その苦しみを軽くしたいという。そのためにはどうすればいい? どうするのが一番効果的? 方法はあるんですか? と。

メールで質問されるときも、対話の中で聞かれるときも、僕の反応はまったく勝手に起こる。どう答えるかを前もって決めてたりはしない。それでも、同じような質問に対してはたいていはほぼ同じような反応が出てくる。で、いま言ったような感じの質問が来ると、こんな答えが出ることが多い。僕の経験から言うと、口を出したり干渉したりすることで、こうあるべきという自分の考えに合うようにほかの人たちの生き方を捻じ曲げようとしたところで、そんなのはだいたいうまくいかない。それにそんなことをすればかえって悲惨なことになる、と。なにしろ、説教されたい人なんかどこにもいないんだから。

そういうやり方のベースになってるのは、そこには問題がある、それから自分にはその解決法がわかっているという仮定だ。すごく排他的で偏狭なアプローチ。それが間違ってたら? 自分の知らないことがもしあったら? 自分の想像と違ってその人はじつは苦しんでなかったらどうする? だから僕がかわりにすすめるのは、明晰さを生きるってことだ。徹底的に手放す。ついに完全に正直になったと思えるくらいに。そうすれば、いま起こっていることについて、真実を伝えられる。状況やほかの人をどうにかして変えたがってたのは、自分が心地悪さを感じなくて済むようにしたかったせい? じゃあ、その不快さをそのままにしておく覚悟ができたとしたら、何が見えてくるだろう? 状況は自分が思い描いてたとおりだろうか? 前は状況のありのままの事実にひるんで、そこから逃げようとしていた。いまは自分を状況にまるごと差し出して、まったくオープンで、ほんとうの意味で完全に迎え入れようとしている。

最近もこのテーマについてのメールを受け取った。同じような返事をしたけど、いままでよりも率直に書いた。単にこう言った。そこには問題があって苦しみが生じてるという仮定にもとづいて状況に取り組もうとしているかぎり、はじめからうまくいきっこない、と。といっても、楽観的に眺めていれば済むとか言ってるわけじゃない。現実から逃げながら、すべては完璧だというふりをしてればいいなんてことは言ってない。僕が言ってることは、それとは微妙に違う。思い込みをすべて脇に置いて、自分の偏りを認めて、思い込みや偏りの正体を明るみに出させてしまって、すべてを進んで迎え入れたらどうだろう、というのが僕の言ってることだ。そうやって迎え入れるときにはじめて識別できるようになる。自分は他者の苦しみを察していたのか、それともじつはこの瞬間に気づきに現れていた不快さから逃げ出してただけなのかを。起こる現象を自分のものにしてからそれを他人に投影してただけじゃないだろうか? そういうことすべての仕組みが見えるようになったら、何が起こるだろう?

僕自身の経験では、このやり方をしても何も変わらない。これは、今起こってることの一部を取り除こうとするやり方じゃない。このやり方は、解釈とか意味づけを押し付けるってことが本当はどういうことなのかを明らかにするものだ。

そんなことを書いたら、メールのやり取りの相手は僕の勧めた内容を見て怒ったようだった。その気持ちはわかる。僕らはときどきヒーローになりたくなる。そういうアイデンティティを手放すのは嫌だ。手放してしまうと、自分は本質的に力のない弱い存在だってことが露呈してしまうから。そうなるとものすごくおびやかされる気がする。

でも僕は、本当の癒しの可能性というのは自分で何かをするとか誰かが何かをするということを通しては手に入らないと思っている。自分の能力とか誰かの能力のおかげで癒しが起こるわけじゃない。自分にできることは何もないってことがわかったときに癒しが起こる。何も知らないわけだから。自分は何かを知ってると思ってるかぎりは、苦しんでるようにしか見えない相手と本当の意味で会うことはない。自分は何も知らないし、何もできないということがわかったとき、はじめて他者に会うことができる。そのとき、まったくの無力さと弱さのなかで出会える。自分というまったくの無力さ、弱さの中で。これが、僕の見方では、本当の癒しが起こるただひとつの可能性だ。

これは、中立的 (無批判) と呼ばれたりするような見せかけの態度とは違う。そういう態度は、微妙なものとは言っても分離を維持するものだから。僕のほうは中立的なんですけどね、という感じで。僕がここで言ってるのは、一度もあったことがない分離が崩壊するってこと。この崩壊が起こると、どんな批判もしようがなかったってことがただわかる。これは、誰かが中立的な態度をとるとか、あの人は批判しない人だとか、そういう話じゃない。これは、これが自分だと思ってたものすべて、これがあの人だと思ってたものすべてが、じつは単なる一時的な現れであって誰のものでもなかったという発見だ。誰もいないし、批判の対象になるようなことも何もないのに、どうやって批判できるというんだろう? ここにあるのは僕らという無力さと弱さだけだ。

僕は何十年もひどく病んでいた。不安と妄想があまりにひどくて、要塞にいるみたいに孤立していた。そのうち、何年か前の話だけど、体の調子がすごく悪化して、立つことも食べることもできなくなった。病気がひどいせいで起こるそういう孤立状態を経験したことがある人ならわかると思うけど ― それがガンであれアル中であれ強迫性障害であれ多発性硬化症であれ何であれ ―、犠牲者だとか変わり者だとか手助けが必要な人だとかいうふうにほかの人たちから見られても、それによって本当の癒しがもたらされることなんかない。本当の癒しは触れ合いから生まれる。すべての防御が解かれ、まったくの弱さだけがそこにあるときにだけ起こる触れ合いから。そのとき、愛は僕らの本質としてその姿を現す。

病んでたとき僕は何を求めてただろう? 同情を求めてた? 批判されたがってた? 口出しされたかった? 恐れを求めてた? 怒りがほしかった? 守りの姿勢を求めてた? いや。そんなわけない。苦しみに対処しようとするときに僕らがとるやり方のほとんどが、苦しんでいる人は望みがなくて、手の施しようがなく、要塞の中でひとりぼっちで孤立してるっていう考えをどれだけ強化してるかってことがわかるだろうか。

固めていた守りをただほどいて、自分のやり方で「僕は怖いし、無力だ。それに弱い。僕も鎧を外して、優しい気持ちになってる。何が起こっても、どんな恐れがあっても、君がどんなことをしても、僕はただ君をそのまま見続ける。この弱さという空間の中で、僕らは会う。ここで僕らは飾らずに自分自身でいられる。ここで僕らは友人になれる。ここで僕らはただあることができる」と言えてたとしたら、どれだけ素晴らしいことが起こっていただろう。

他の人たちに差し出せることがあるとしたらこういうことだと僕は思う。ただ正直になる。弱いままでただいる。ありのままの自分をただ認める。概念をただ手放す。あったことがない分離を手放す。自分自身でいる。ありのままの自分自身を差し出す。説教はしない。わかった気にならない。自分の弱さが、ほかの人も弱いままでいられるようになるきっかけになるように。それぞれのペースで。期待もしない。何も変わらなくても別にいい。すでにここにある弱さを見る。じつは守ることなんてできようがない弱さを。その弱さを大切にする。それを愛しながら。

== 訳は以上 ==

この最後の部分を訳しているとき、SiaのNatale’s Songという歌を聴いていた。これ

そうしたら、また泣けてきた。現実の本質とか、目覚めとか、そういうのはどうでもいいや、と思える瞬間。

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誰かを変えたいとき ジョーイ・ロット」への4件のフィードバック

  1. はじめまして。いつも楽しく拝見しています。

    私事ですが、ここ2日ばかり自らのマッチョさについて振り返っていたところでした。
    自分が如何に「力」という観点を基準にした物事の捉え方をしていたか、どれだけ精神的なマッチョさを
    求めていたか、そういうことに気づきつつあったところへこの更新記事でしたので、なんだかなあ、と思いつつ苦笑いしてしまいました。

    これからもヒロさんのご活躍のほど、楽しみにしております。

  2. はじめまして。

    さっき「愛すること」について考えていたら、こんな考えが降ってきました。

    「愛するとは、対象の中に自分を見ること」

    なんとなく今回の記事の内容に繋がるような気がしてコメントしてしまいました。

  3. しつこくジョーイ・ロット、ありがとうございます(笑)。

    「愛情とは介入せずに保護して、相手の中に「なにか」が育つのを待つこと」

    『見守る者のまなざし 』に、橋本治さんが著書『人はなぜ「美しい」がわかるのか』でそう言っていたのを思い出しました。

    何かを得る為あれをする、これをする。次から次へ、常に何かをしなければならないという強迫観念に取り憑かれてるなあと、我が身や世間を振り返りげんなりしました(苦笑)。
    おとぎ話の様に、悪い魔女に呪いの魔法を掛けられてる気さえしますね。

    sia の歌、こちらの歌詞付きバージョンで見たのですが、とても良かったです。
    (https://www.youtube.com/watch?v=XrN99Pk2vWM)
    こんな風に歌える人がまだいるのですね。
    歌詞の一節々々が、乾いた大地に染み込む雨の様に吸い込まれて行きました。
    美しいものは歌でも文章でも、理屈抜きにダイレクトに響きますね。
    HeartなのかSoulなのか Spiritなのか、どこかはわかりませんけれど。

    amzon のレビューで、「ジョーイがこの本を書いたのではない、この本が書かれたのだ」という様な感想を見たのですが、確かにそういう感じがするなあと頷けました。
    彼の書くものにある際立ったクリーンさには、それに共鳴した者をシフトさせる「なにか」がある。
    ジョーイ自身はどう思っているのか、聞いてみたいです。

  4. voxさん、はじめまして。コメントありがとうございます。

    弱さを見つめる、弱さを認めるということは、僕にとっては課題という言葉では小さすぎるほど大変なテーマだと思っていました (そういうテーマがあるということ自体を否定したいくらい) 。このジョーイの一文を読んで、弱さは本当に薄紙一枚しか隔てられていないところにずっとあって、それは弱さという呼び名とはかなり違うものだったということを認識した気がします。

    chouchoさん、はじめまして。

    対象の中に自分を見ると、対象という「何か」が「何か」であるのをやめるのかもしれませんね。素敵なコメントをありがとうございます。

    inglewolfさん、こんにちは。

    どこに響くのか、というのは面白いことだと感じます。自分のどこかに響いているのか、響きがここで現れているのか。ジョーイの言葉も、長年の強烈な苦しみのストーリーに裏づけられたものであるのに個人性が限りなくゼロに近いという事実が、同じようなことを思わせます。

    ジョーイ自身がどう考えているか、というのは僕もちょっと興味を持ったのですが、そのうち聞いてみたいと思いつつそのままです。Already Awake, Already Freeの第2版に書かれている第1版についての「反省」を読むと、書くものについての自省はつねに起こっているような印象は受けます。

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