無意味さの喜び ジョーイ・ロット

 
ジョーイ・ロットの書いたものを読んでいて感じるのは、クリーンだということ。たいていは、どんな人の文章にも何かが見え隠れしていて、非個人性と個人性のせめぎあいが気になったりする。ジョーイのものにはそれが感じられない。誰かの表現に勝とうとか、「誤った」表現を正してやろうとか、そういうのがない。

単純にシェアする喜びがあふれている感じだ。(というと褒めすぎだから一つ言うと、引き寄せの法則を徹底的に解体・批判している本 Manifestation Happens だけはちょっと力が入りすぎて、のびのびした自由さが欠けている)

自分の知る範囲だと、ジョーイ・ロット以外では、リック・リンチツとグレッグ・グッドがクリーンで明るくて好きだ。ジョーン・トリフソンもとてもいいけど、文字が多すぎるのがちょっとつらい。

まあそれはいいとして、ジョーイ・ロットのクリーンさが感じられる文章をひとつ訳してみた。

原文: How to Discover True Joy in Meaninglessness (joeylott.com)

== 以下、訳 ==

無意味さに本当の喜びを見いだすには

ここのところ、自分が書いたもののなかに (オンラインでもオフラインでも) 何度も出てくることがひとつあって、それは、もともと意味を持っているものなど何もないっていうこと。

なぜ何度も出てくるかと言ったら、本当のことだから。

でもそれは片方の面しか表現してない。今まであまり言ってこなかったもう片方は、無意味さっていうのが開放的で無限の本当の喜びだということ。

なにごとも何も意味しない。ここに書かれた言葉にも何も意味はない。もっと言えば、言葉は何かを指し示しているとか僕も言ったりはするけど、それも誤解のもとだ。というのも、言葉には何の意味もないから。言葉はものごとを示してない。存在しているように見えるものすべてが、言葉も含めて、を示しているだけだ。すべては源泉を指し示していて、源泉はいまあるものという全体性と別々のものじゃない。

でもそこで気づくのは、ものごとには本質的には意味がないってことをそうやって強調すると、どちらかと言えば虚無的に聞こえるかもしれないってことだ。でも違う。無意味だってことは無を示してるわけじゃないから。そうであれば無が何らかのものになってしまう。無の概念化だ。

実際には無はものじゃない。無というのは、いまあるものという全体性だ。無は目に見えるどんなものも含んでるし、ものが現れている空間も含んでいる。ひとつしかない全体だ。それは概念では絶対にとらえられない。なぜって、概念もこのずっとありつづける瞬間の中でただ生じてるだけだから。概念以前のところにとどまれば全体性がわかる。でも概念を追いかけると、頭の中で全体性とはこんなものかなと想像することになるだけだ。

存在することのシンプルさに気づいているところから話している人が、存在のシンプルさを表すのに静寂、平安、愛、喜び、自由、一体性というような言葉を使うことがあるけど、そういう言葉はまったく何も意味していない。でもその言葉はいまあるものの本質的な現実性を指し示している。いまあるものは何なのかという思考が現れる前の現実を。僕はこの点をいままであまり強調してこなかった。

概念を超えた現実、それは存在するすべてで、誰もがどの瞬間にもつねに直接経験しているものだけど、そこには意味がない。意味というのは思考と概念を通じて追加されたものだ。意味は比較に基づいてるけど、全体性は他の何とも比べられない。なにしろ全体性というのはすべてだから。それでも、意味が現れる前に、原因のない喜び、平安、静寂、自由、一体性、愛、豊かさ、明晰さ、不可思議さ、力、広がりがそこにはある。この言葉のどれもが無意味だ。でもそれが示しているものに注意を向けてみよう。こういう言葉はその言葉が現れた源泉を指している。そして、いまあるそのままのものに直接ただ寄り添ってみると ― 思考が現れる前に ― 、こうした言葉が指し示しているものがあきらかになる。

思考が現れる前にいまあるものに寄り添うというのは、することじゃない。それはすでにもう起こってることだ。何が起こっているかに自分がすでに気づいてるってことにただ気づけるだろうか。この気づきがどんな概念化にも先立っていることに注目する。起こっていることにどんな意味があるのかという分析が始まる前に、すでに気づいている。名前やラベルが出てくる前に、気づいている。もっと言えば、自分が誰かとして存在しているってことを感じる前に、自分がいることに気づいている。自分が誰かになる前に、自分がいる。

たった今、身体に感覚が起こっていることに注意を向ける。感覚にラベルをつけたり意味を持たせたりする前に、感覚に気づいているってことがわかるだろうか。生々しく純粋な感覚がただある。

感覚に意味づけしようとして思考に向かう習慣があることに気づこう。でも、直接の経験にただとどまると何が起こるだろうか。自分が気づいているかどうかには関係なく、直接の経験はいつも起こっているってことがわかるだろうか。つまり、直接の経験に寄り添うってことは、することじゃない。することみたいにはじめは思えるかもしれない。意味づけしようとして思考に向かう習慣があるせいだ。でも直接の経験に寄り添いながら、それは何かをすることより実際はるかに簡単だってことを意識してみよう。

ここでは、思考が現れる前、意味は何もない。いまあるものがただじかにそこにあるだけだ。思考がなければ、それは分析もできないし分けることもできない。それでも自分は機能する。色も輪郭も見える。世界と接するのも問題ないように思える。夕日も、月の出も、葉っぱのかさかさする音も、通り過ぎる車の音も、子どもたちが泣く声も、冷蔵庫のブーンという音も、そのまま変わらず味わえる。

すべてが以前と変わらずに起こり続ける。そして自分はここで直接の経験と共にいる。意味づけしなくても、そこに何かがあることに気づいてほしい。でもその何かはものじゃない。それはただこれだ。これが何であっても、それに意味はない。それでもなぜかわからないけど、不思議なことにそこには喜びとやすらぎの感覚がある。なにかのせいで起こった感覚じゃない。この喜びとやすらぎは、状況から生じたものじゃないし、意味づけから生まれたものでもない。意味づけするよりも前に、いまただあるものだ。

で、意味はただ単にいまあるものだってことがわかる。意味を取り除くのは無理だ。そんなことしなくてもいい。意味というのは、この原因のない喜びとやすらぎのひとつの表現にすぎない。

意味づけしないと、皮肉なことだけど、あらゆるものが意味をもつように感じられるかもしれない! でもそれは思考のおかげじゃない。何かが何かを意味しているとか、何かを示しているというように思えるからじゃない。そうじゃなく、あらゆるものが全体性 ― それは原因のない喜びとやすらぎだ ― と別のものじゃないとわかるからだ。すべてが本当の意味で生きていることがわかる。別々のものとしてじゃなくて、いまあるものとして。意味づけをする必要がなくなると、あらゆるものに本来そなわっている豊かさと深みがはっきりしてくる。

こうすれば、無意味さに本当の喜びを見いだせる。

== 訳は以上 ==

3・11に「すべては無意味だ」という文を訳すというのはどういうことなのかな、とつい考えてしまう。津波にも原発事故にも意味はないし、意味はないどころか、そんな過去はいま生じている記憶という確認できない現れにすぎないなんてホントかな、と。

でも、そのどこにもたどり着かない思考に先立って喜びとやすらぎがあるという。それで十分なのかもしれない。

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無意味さの喜び ジョーイ・ロット」への4件のフィードバック

  1. ヒロさん、はじめまして。
    ひと月ほど前から覗かせていただいていました。
    その時はまさかこんな(ジョーイ・ロットとの)出会いがあるとは想像していませんでした。

    最初に『至福と「至福」』、『経験はそれじゃない』を読んだ時、「ああ、やっぱりそうだったか。。。」と思ってその後は何も言葉が浮かんで来ませんでした。
    それからずっと不思議な感覚が続いています。
    ぐるっと一周して元の場所に戻って来たと思ったら、見た目そっくりだけれど別の次元に来てしまったかの様な感じです。
    自分が空っぽになった様な、でも心許ない感じは無くてとても心地良い。ふんわりした虚無的な充実感?とでも言うか。。。気体の様に軽く軽くなった様に感じています。
    自分の状況も、そして自分自身も何一つ変ってはいないのですが。

    ここまで全く違和感無く受け入れられるものに初めて出会いました。(私自身彼と同じくずっと身体的不調に悩まされて来た経験があるのが大きいと思います)原文もいくつか読みましたが、ざっと見たところ神とか愛とかいった単語が出て来ないのも非常に好みです。
    ジョーイ自身自覚している様ですが、先人達と同じことを語りながらも明らかに質感が違いますね。個性的なのに無色透明で、それゆえ他の人達の色が見えて来ますね。

    元々さほど執着が無かったのですが、もうすっかり『わかる』も『わからない』もどちらでも良くなってしまいました。
    それより地に足を着けて日々丁寧に過ごしたいと、それで良いのだと思いました。私にとってはそれが一番難しかったりするのですが。。。(苦笑)

    独特のリズムがある原文も好きですが、英語力に限界があるので細かい言い回しなど分かりづらい時もあり、次々翻訳していただけてありがたいです。
    また気の向くまま訳していただけたら嬉しいです。ありがとうございました!

  2. inglewolfさん、はじめまして。コメントどうもありがとうございます。

    「他の人達の色が見えて来ます」というのは、本当にそう思います。ジョーイ・ロットを読んでからほかの人のものを読むと、単語の選定にこだわっていたり、「他の人」の受け取り方や特定の執着に過剰に反応していたりするのがちょっと気になります。「指し示しているだけ、とか言いながら、けっこう余計なものついてるよなあ」と。

    だれの表現が優れているということではなく、そのときどきの状況や需要によって違うということなのだろうとは思いますが、彼の表現のクリーンさはみごとだなあと感じます。

    「ぐるっと一周して元の場所に戻って来たと思ったら、見た目そっくりだけれど別の次元に来てしまったかの様な感じです。」というのは、「わかる!」と思う人もけっこういそうな気がします。

    ジョーイはブログもいいのですが、本の方はかなりストレートにたたみかけてくるものがいくつかあって、魅力的です。読者を選ぶのかもしれませんが、いつか訳してみたいものだと思っています。

  3. こんにちは、初めまして!
    昨日、初めてヒロさんのブログに行き着いて、それから読ませて頂いています。
    昨日、「わかっちゃった人たち」アマゾンで注文して、早く届かないかなー、と楽しみに待っています。
    ジョーイ・ロットさん、初めて知りました。おもしろいですね。
    「意味づけするよりも前に、いまただあるもの(でもその何かはものじゃない)」
    「そこには喜びとやすらぎの感覚がある」
    喜びとやすらぎがある、と聞くと、私なんかには、ついまた、求めたい思いが
    出て来たりもしますが。。求めることではないんですよね??
    喜びとやすらぎ、この言葉は、今の私にはよくわからないです。でもジョーイさんには、わかって、表現されているのだから。。
    またブログ、読ませて下さい。とてもおもしろい(語彙がなくて、こんな表現ですみません。)です。ありがとうございました。

  4. mikyさん、遅くなりましたが、はじめまして。

    このブログでは、ジョーン・トリフソンとジョーイ・ロットの文章が人気があるようで、よく読んでいただいています。ふたりとも劇的な覚醒体験をした人ではないのですが、そのあたりは面白いなと思います。

    コメントどうもありがとうございました。

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